民間人には手軽な米国の飛行学校
1910年から1915年ころの米国では民間の航空機への関心がようやく上昇期に入った時期で,飛行機の操縦士を養成する飛行学校が13存在した.しかし十分な設備と熟練した教官が揃った飛行学校は5校ほどだった.代表的な学校としては,カーチス飛行学校とライト飛行学校(米国初のライト飛行学校が1910年3月19日にアラバマ州のモンゴメリーに開校.のちにマックスウエル空軍基地となる)があった.さらにこの2校は米国陸海軍より飛行士育成を委託されていた.どちらも外国からやってきた留学生にも入学が可能で,卒業時には万国航空協会から試験委員が派遣されて来て立ち会い,卒業試験に合格すれば,万国飛行免状が取得できる仕組みになっていた.この特典がない学校では,受験料10ドルを払って受験しなければならなかった.
日本人が多数入学したカーチス飛行学校は,カリフォルニア州サンディエゴ港内のノースアイランドにある分校だった(本校はニューヨーク州).ロサンゼルスからは南に100マイル離れた場所にあり,早朝は風がなく,晴天日が多く雨量の少ない飛行練習に適した天候に恵まれた土地で,季節による気温変動がすくない.最初にカーチス飛行学校に入学した日本人は近藤元久で1912年1月30日だった.これに2週間ほど遅れて武石浩玻が入学した.
近藤元久(松山藩士近藤南州の次男)は,1855年12月15日に大阪の天満生まれだが,叔父である漢学の教師・近藤元弘の養子となっていた.四国の松山中学を卒業後,1903年秋に渡米した.近藤元久は4月27日に卒業(3か月で授業料500ドル:日本円換算で1000円)し,取得したのが日本人として最初の万国飛行免状第120号だった.卒業後も米国に留まり,日本海軍より派遣された軍人たちのガイド役をつとめていた.
チャールス.B.カーカム(Charles B.Kirkham:高回転の航空エンジン開発者)が設計し試作した牽引式複葉機のテスト飛行を1912年10月6日にニューヨーク近郊で実施していたが急に高度が下がり,イーグル渓谷の風車に翼を引っ掛けて墜落して死亡した.民間航空人として海外事故死第一号となってしまった.
米国飛行クラブが発行する万国飛行免状をつぎに取得した武石浩玻は第122号となっている.ついで,中島知久平,山田忠治ら海軍大尉が続き,民間人としては,坂本寿一,野島銀蔵の順になっている.このほかに日本人の飛行練習生が入学したのは,スロン飛行学校とシラー飛行学校で,ロサンゼルス市から南へ18マイルに位置するドミングス飛行場にあった.
初期の飛行機事故は致命的
米国帰りの民間飛行士第1号は,武石浩玻(こうは)飛行士で1913(大正2)年4月に帰国した,カーチス・プッシャー機(ホールスコットA2水冷式直列型6気筒60馬力エンジン,全幅12m×全長7.8m,自重260kg)を持ち帰り,「白鳩」と名付けた.武石浩玻飛行士はさっそく5月4日に,大阪の朝日新聞社が主催した都市間連絡飛行を行ない,鳴尾を出発して大阪市の城東練兵場に着陸した.さらに京都の深草練兵場まで飛行を続けたが,着陸の寸前にバランスを崩して機体が不安定状態に陥り,地上に激突して大破した.この時に武石飛行士は民間航空において最初の犠牲者となってしまった.
さらに米国で操縦術を習得した幾原知重飛行士が,「白鳩」よりも新しいカーチス・プッシャー機(全幅12.1m×全長10.3m,全備重量550kg)を手に入れて1913(大正2)年10月に帰国してきた.
武石機の「白鳩」は,上翼の下に2枚の三角形の垂直安定板をつけていたが,幾原機にはそれがなく,機首に垂直安定板を1枚つけていた.さらにエンジンを少し強力なカーチスV型8気筒70馬力を装備していた.幾原飛行士は11月に鳴尾から神戸へ飛行した帰路の途中で,発動機が故障して鳴尾の手前で不時着する事故を起こした.幾原飛行士はエンジンを修理後,鳴尾から大阪に向かったが,再度発動機が故障して,新淀川原に不時着した.幾原飛行士は,カーチス式陸上複葉機で12月15日に小松島上空を飛行した.
さらに1914(大正3)年1月には,米国帰りの野島銀蔵飛行士に譲渡したが,千葉県稲毛海岸の白戸飛行場で再整備して「隼鷹」と名付けられた.この飛行機はハンドルで昇降舵と方向舵を制御し,操縦士の肩を左右に動かして補助翼を操作し,足でペダルを踏みエンジンの回転を調節する方式をとっていた.
野島銀蔵飛行士の「隼鷹」は,1914(大正3)3月に川辺佐見,大口豊吉,玉井清太郎,玉井藤一郎らと共に台湾の理審飛行開催のため船便で台湾に渡り,台北,台南,台中,嘉義で示威飛行を行なった.その後,機体を再調整して越後高田,京都府綾部舞鶴町,金沢で飛行会を開催したが,5月25日高田で着陸後,見物人のなかに突っ込んで死者2人を出してしまった.さらに初の北海道巡業飛行を9月札幌,1O月旭川,小樽と開催して,11月郡山,12月滋賀県綾部町と巡業を続け,当時のカーチス・プッシャー機のなかでは「隼鷹」が最も目覚ましい活躍をした.
米国に飛行機のために留学し,すでに旧式となった最後のカーチス・プッシャーで飛行士の免状を得た立石関二飛行士も,カーチス・プッシャー機(カーチス水冷式V型8気筒60馬力:全幅10m×全長8.9m.機体の構造は「隼鷹」と同じだが,機首に昇降舵がない)を製作して1917(大正6)年1月に帰国し,名古屋に協同飛行研究会を設立した.しかし1917年9月に太垣町の飛行会で着陸に失敗し,観衆のなかに突入して重傷者7人,軽傷者6人を出した.また翌月の岐阜県各務原では立石飛行士は離陸に失敗して,機体を大破してしまった.これで米国帰りの飛行士によるカーチス・プッシャー機の時代は終わる.