日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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安藤飛行機研究所の新舞子飛行場

安藤孝三は飛行機が大好きな子供だったが,20歳になり徴兵検査を受け甲種に合格し,所沢陸軍飛行第一大隊に入隊し整備兵となったが,飛行機の操縦訓練を受けることはできなかった.1920年12月に陸軍を除隊して帰郷して,翌年1921年10月に愛知県知多半島の古見海岸に水上飛行場を開設し,安藤飛行機研究所を設立した.
安藤孝三は飛行機の操縦を飯沼金太郎(帝国飛行協会出身の飛行士)から古見海岸で担保物件(米国帰りの飛行士小栗常太郎が飛行学校設立のために安藤の兄から借金した)となっていたファルマン式水上機(ル・ローン70馬力を装備)を使って習得した.1923年5月に,新舞子に移転し6機ほどの水上機を収容可能な格納庫を建築し,新舞子飛行場として安藤飛行機研究所を拡張し飛行機と人員を増やした.
 さらに飛行学校を開校するために1924年9月下旬には,航空局の第2期操縦練習生出身の大場辰男が教官としてやってきた.飛行士を育成しても民間ではまだ仕事が確保できないために,航空局から飛行学校の教官には補助金が出ていた.このほかに安藤飛行機研究所には,航空局海軍委託練習生の課程を終えた水上機操縦士たちが入所し,定期航空輸送について実務経験を積む養成所ともなっていた(一定期間在籍した操縦士は再び日本航空輸送などに移籍した).
 こうして安藤飛行機研究所は1926年9月にようやく名古屋港〜和歌山県新宮間に週1便の定期航空路を開設した.さらに1928(昭和3)年6月15日に新舞子〜二見〜蒲郡間にも定期航空路を開設した.これで名古屋〜二見浦〜蒲郡を結び伊勢湾,三河湾を結ぶ三角形の定期航空路を運航していた.
 使用した機材は海軍から払い下げられた,ハンザ・ブランデンブルグ水上偵察機を改造して防風用キャップを追加した小型キャビンを持つハンザ式水上旅客機としている.三菱10年式艦上雷撃機を改造した水上機などであった.
 なお安藤孝三は,1927(昭和12)年に代議士に当選して初登院には,名古屋港から羽田沖まで水上機で出掛けていった飛行・代議士であったという.
女性水上飛行機操縦士の第1号である西崎キク(松本きく子)は練習生として安藤飛行機研究所で学び,1933年8月の卒業試験に合格し水上飛行機操縦士免許を得ている.
 太平洋戦争中には,安藤飛行機研究所は陸軍からの要望により,97式軽爆撃機を水上機へ改装する計画に着手したが,途中で打ちきられた.
 
 第二次大戦後に安藤飛行機研究所は安藤内燃機研究所に改名して,漁船に航空機用エンジンを装備する作業を始めて,航空輸送から撤退した.海岸の格納庫は製塩会社に貸したり,倉庫や海の家としても利用されていたが,1953年9月に台風13号によって倒壊してしまった.

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