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義勇財団海防義会は朝日新聞社に対して,第4,第5義勇号を新たに貸与することを決定した.これは1927年4月に日本では金融の大恐慌が発生したために,川崎造船所は主要な取引銀行だった神戸の十五銀行が支払い停止に陥ったことから,事業を縮小しなければならない状況に追い込まれていた.その支援策として義勇号の製作は,1927年に川崎造船所飛行機工場が自社で開発したKDA2型を基本に,水陸交替可能の旅客機(BMW-6水冷式V型12気筒500馬力)に改造して製作することになったようだ.川崎造船のフォークト技師,東条寿技師が中心となって改造作業を進め,1928(昭和3)年10月に試作機が2機完成した.水陸交替機としての性能試験は良好で,12月に「第4義勇号」(J-BAKN),「第5義勇号」(J-BALH)と命名して,朝日新聞社に納入された.
これら2機の義勇号は朝日新聞社が主催した日本一周都市訪問飛行に使用され,1929(昭和4)年に2機の雁行で行なわれたが,7月に東日本一周,10月に西日本一周を行なった.訪問飛行経路は,浜松,高田,弘前,旭川,札幌,函館,青森,仙台,金沢,名古屋,岡山,広島,熊本に着陸し,航空知識の普及を目的に講演会なども行なわれた. その後は,朝日新聞社の通信,写真撮影,輸送に使用された.さらに東京〜新潟間の定期郵便飛行や満州事変当時の満州派遣飛行などにも使用された. 海防義会というのはいまの特殊法人のような存在で,皇族をトップにした帝国海軍のサポート団体で,いわば報国号を裏の予算で軍用機メーカーに発注することで,メーカーに開発費用を提供していた団体といえよう.海軍が表に出たくないときは,海防義会がその代行となったようだ. |
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1974年にサンケイ出版社より発行された「グラマン戦闘機」がようやく文庫に収録されたのだから新装刊なので,これで古書を探す必要がなくなったわけだ.米国の航空機メーカーは,日本の軍用機メーカーと異なり,政府の手厚い支援がないから合併や統合が頻繁に行なわれているから,現在はノースロップ・グラマン社となっている.
太平洋戦争が中心だから,F4F「ワイルド・キャット」とF6F「ヘル・キャット」の開発とその歴史が大部分になるが,グラマン社の変遷,戦闘機以外の軍用機,駆け足で朝鮮戦争,F14まで取り上げている.車輪の胴体への収納機構と出力2000馬力の空冷星形エンジンの装備などが日本機(零戦)と比較しながら解説している.米海軍の戦闘機の運用については,かなりくわしく記述している. |
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南米のチリは面積ではブラジルに次いで大きい国だが,1912年ころに民間航空でブレリオ機が多数使用されていた.ルイス・アルベルト・アセヴェト飛行士がチリの飛行会で3180mの高度記録を1913年3月22日に出した.さらに3月25日にクロドミロ・フィガロアが長距離飛行に挑戦してバツコ〜ヴァルパライソ〜サンチャゴ間300kmを3時間15分で飛行した.ついで1913年12月にフィガロア飛行士がアンデス越えに挑戦したが成功しなかった.そのころの80馬力のブレリオでは十分な高度をとれなかったのだ.
アルゼンチンの飛行士J.ニューベリーは1914年2月10日にスーパー・チャージャー付きの80馬力エンジンを装備したモラン・ソルニエ単葉機でそれまでの高度記録を75m上回る6225mに到達した.その後でニューベリーはアンデス越えに挑戦したが途中で山腹に衝突し死亡した. アルゼンチン陸軍の飛行士ルイスC.カンデラリア中佐がモラヌ・ソルニエ社パラソル単葉機でアンデス山脈を1918年4月13日に最初にアルゼンチンのザパラからチリのカンコへ(西から東へ)飛行機で飛び越えた.ただしこのときは海抜13000フィート(4000m)の場所で130マイル(210km)の距離を飛行した. チリ陸軍のパイロットD.ゴードイ中佐が英国製ブリストル単葉機に110馬力のエンジンを装備した単発機でチリのサンチャゴから海抜1万9700フィート(6000m)のアンデスを越えてアルゼンチンの葡萄栽培と葡萄酒を醸造しているメンドーサに着陸した.. 2年後の1920年にアルゼンチンのV.アルマンドス・アルモナシドが220馬力のスパッドで夜間のアンデス越えに成功した.アルモナシドは第一次大戦中に連合軍のために最初の夜間爆撃を実施した人物である.1920年代になるとイタリア政府が友好と飛行デモのために外国に飛行士グループを派遣したときに,アントニオ・ロカテリが最初に単独でSVA(アンサルドAC2)に乗ってアンデス越え(ブエノス・アイレス〜サンチャゴ〜ブエノス・アイレス)に成功した. さらに女性飛行士のエイドリアン・ボーランド(ブラジル出身の飛行士)がコードロンG3で1921年4月1日にアンデスを飛び越えた.南米までカーチス製戦闘機(Curtiss P-1)のデモにやってきたジェームスH.ドウリットル中佐が1926年9月3日にアンデス山脈を飛び越えている. フランスの航空輸送会社が1928年になるとブラジルからアルゼンチン,チリへと郵便輸送が可能かどうか検討していた.ジャン・メルモーズ飛行士が2月2日よりラテコール25(450馬力のルノー・エンジンを装備)で何回か試みたが成功しなかった.突風にあおられてエンジンが故障したため,4300mの高地に不時着陸を試みたが,4日間零下25度の4300mの場所に止まり,断崖を利用して跳躍しながら飛び上がってなんとか戻ってきた.
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