|
帝政ロシア時代にイゴール・シコルスキーが世界で初めて4基のエンジン(ドイツのアーガス水冷直列4気筒100馬力)を装備した大型複葉機(翼幅が28m,重量は4トン)を設計したが,この複葉機をボリショイ(グランド)と名付けて試作を始めて9か月で完成し,ペテルブルグで初飛行した.着陸車輪を16個の装備していたが(冬期にはスキーに換える),8人の乗客を乗せて8月2日には1時間54分間の飛行を行なった.試験飛行を53回行ない,54回目にエンジンが1基故障したため操縦不能となり墜落した.
試作3号機を改良した4発複葉機「イリヤ・ムロメッツ」(10世紀のロシアの英雄:重量は4.5トン)は125馬力と140馬力のエンジンを装備し,16人の乗客を乗せることができるようになったが,初飛行は1914年2月11日に10分間行なわれた. |
過去の投稿月別表示
[ リスト | 詳細 ]
|
最速の複葉機は,イタリアのフィアットCR42で430km/h(267mph)と思われる.最後の複葉戦闘機としてヨーロッパ戦線では1943年ごろまで実戦で使用されていたから,もしかしたらドイツのMe262戦闘機とすれ違うことがあったかもしれない.
通常型のCR42(エンジンはFiat製A74RC38空冷星形14気筒840馬力)戦闘機は1938年から製造されていて最高速度430km/h(267mph)だったが,第二次大戦中に1782機製造された数量を考えるとイタリア空軍の重要な戦闘爆撃機であったろう.大日本帝国陸軍の97式戦闘機と同時期に製作された機体である. さらに1機だけ試作されたFiat CR42B(?)はエンジンをより空気抵抗の少ないドイツ製ダイムラー・ベンツDB601A(水冷倒立V12気筒1010馬力(753kW))に交換してみたら,1941年に520km/h(323mph)の速度を出したそうだ.残念ながら星形エンジンのカウリング(通常型)の写真しか残っていないようだ.第二次大戦中のイタリア空軍にはかけがいのない記録なのかもしれない. |
|
北大西洋横断飛行より3年遅れたが,ポルトガルの海軍士官ガーゴ・クーチホ(Gago Coutinho)航法士とサカディラ・カブラル(Sacadura Cabral)操縦士がポルトガルのリスボンからブラジルのリオ・デ・ジャネイロまでサンタ・クルス号と名付けた複葉水上機(Fairey IIID:ロールス・ロイス製イーグルVII350馬力)で南大西洋の横断飛行に1922年6月に成功した.
20世紀の初めの冒険飛行というとまだGPSも無線施設も存在しない環境で,陸地の見えない海上ではジャイロスコープ付き六分儀(ポルトガルのクーチホ提督が開発した航空機用)を用いた天文航法で自機の位置を確認した. ルシタニア号に乗り3月30日にリスボンを出発したが,カナリア諸島までは燃料ポンプの故障で燃料を過剰に消費する以外には問題なく飛行して航程が進んだ.つぎに850マイル(1370km)飛行してバート岬のセント・ビンセントになんとかたどり着いて,水上機を修理した.セント・ターガス島のプライア港を4月17日に出発し,アメリカ大陸に沿ってブラジル海岸線の小さな岩礁に燃料切れのために不時着した.海が荒れたために機体を損傷したが,ポルトガル政府は食料と代替機を送ってきた.この水上機は「パトリア・ブラジリア」(一部ブラジル人)と名付けたが,5月11日に離水してすぐに岩礁にたたきつけられて,乗員2人は9時間漂流して英国の貨物船に救助された.ようやく6月5日に3機目の「サンタ・クルズ17」と呼ぶ複葉水上機で飛び立ち,無事に南大西洋を飛行機で横断してリオ・デ・ジャネイロに6月17日に到着した. |
|
日本航空輸送研究会(坂東舜一,後藤勇吉らのメンバで構成)は,東京〜横浜間に航空路(遊覧飛行も含めた)を開設しようと企画して1922(大正11)年6月にセール・フレーザー商会が米国から輸入した単発推進式のカーチスMFシーガル飛行艇(カーチスC6水冷式直列6気筒160馬力)を購入した.ところが津田沼で試験飛行していると7月10日に着水に失敗して大破してしまった.飛行艇の残骸は伊藤式28/31飛行艇の参考資料として,新しく試作したのが伊藤式28型飛行艇だが,完成することはなかった.また一方で井上長一が同じ時期に大阪府堺市大浜に日本航空輸送研究所を創設して,定期航空路を堺〜高松,堺〜徳島間に開設して,海軍の払い下げ水上機を使って運航していたが,旅客用飛行艇の使用を計画し,伊藤飛行機にその飛行艇の製作を依頼した.
伊藤飛行機では稲垣技師が中心となって,さきの伊藤式28型飛行艇を改めて31型の名称で試作を始め,1922(大正11)年夏に完成した.この飛行艇(イスパノスイザ水冷式V型8気筒220馬力)を津田沼で試験飛行をした後,陸送で堺大浜の日本航空輸送研究所に納品した.日本航空輸送研究所では定期航空輸送機として1924年ごろまで使用し,後に水上滑走遊覧艇に改造した.この飛行艇には最終的に伊藤式31型3号飛行艇の名がつけられた. |




