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ペドロ・ザンニ少佐(アルゼンチン国籍)とフィリップ・ベルトーメ機関士は,オランダのアムステルダムより1924年7月22日にフォッカーC4複葉機に搭乗して世界一周飛行に出発した.フランス領インドシナまで7727マイル(1万2440km)を85時間25分で飛行してきた,ザンニ少佐の「シティ・オブ・ブエノス・アイレス」はハノイを8月19日に離陸しようとして大破してしまった.この事故により代わりの複葉機をブエノス・アイレスからハイファまで運び「プロビンス・オブ・ブエノス・アイレス」と名付けて,ザンニ少佐はさらに2939マイル(4730km)を34時間25分飛行して霞ヶ浦に9月11日に飛んできた.さらに千島列島とアリーシャン諸島沿いに北アメリカまで飛行する計画だったが,地上の風が荒れたために離陸を中止した.
すでにこの時点でザンニ少佐は世界一周飛行をフォッカーC4複葉機で1万7000kmを飛行していたが,技術的な問題と幸運な事故により長距離飛行を日本で打ち切った.飛行機で戻ろうとしたが,大阪の木津川飛行場で事故を起して機体を破損してしまった. |
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英国空軍はハンドレ・ページV/1500(ロールス・ロイス製イーグルVIII水冷V型12気筒375馬力エンジンを4基装備)という4発爆撃機(最初の実用的な戦略爆撃機)でA.マクラーレン少将(ハーレイ,マクエンら)が1918年12月13日に英国を出発し,ローマ,マルタ,カイロ,バクダットを経由して12月30日にカラチまで飛行した.さらにインドの首都デリーには1月16日に到着した.なお,V/1500爆撃機は第一次大戦中に7機,第一次大戦後に57機が製作された.後継機としてビッカース・ビミー爆撃機が配備される1919年末まで使用された.
さらに英国の第3次アフガン戦争において,アフガニスタンのアーマヌッラー王と英国領インドがカイバー峠で戦争を始めたが,カブールの王宮を1機のV/1500(機長はロバート.ジョック.ハーレイ)が1919年5月24日に爆撃した.爆弾4発を投下したが,物理的な被害はたいしたことはなかったが,カブール初の空爆という心理的な効果は大きかった. 英国とインド間を無着陸で飛行するのは1929年まで待たねばならない. |
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日本帝国海軍は水上機母艦「若宮」の滑走台から,ソッピース3型パップ艦上戦闘機(英国製)の発艦実験を1920年(大正9)年6月22日に行なった.さらに1920年には海軍のソーピース3型パップ戦闘機(ルローン空冷式回転星形9気筒80馬力)で,戦艦「山城」の砲塔上に仮設した滑走台(長さ18m)より自力滑走による発艦に成功した.操縦したのは桑原虎夫大尉で,向かい風と艦自体の航行速度による合成した風速6mの状態で,ソッピース3型パップ戦闘機は15mの滑走距離で戦艦から発艦することができた.当時ソッピーズ3型パップ戦闘機は,陸軍と海軍で50機ほど使用していたが,海軍の艦上機は陸軍機よりも翼がわずかに大きいものになっていた.
このほかにはグロスター・スパローホーク艦上戦闘機(ベントリーBR2空冷式回転星形9気筒200〜230馬力)を使い,戦艦「山城」砲塔上に仮設した滑走台からの自力離艦にも1922(大正11)年に成功している. 着艦については,正式空母「鳳翔」の就役(1922年9月20日)まで実験記録はない. |
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カーチス社のテスト・パイロットのユージン・バートン・エリー(Eugene Burton Ely)は1911年1月18日に,セルフリッジ飛行場から午前10時45分にハドソン・フライヤー複葉機に乗って離陸し,サンフランシスコ湾に停泊している米国海軍の巡洋艦ペンシルバニアの仮設木製甲板(長さ41m×幅9.7m)に11時1分に飛行速度40マイル/時(64km/h)で拘束着艦に成功した.飛行機が停止したのは甲板の端から30フィート(9.1m)手前だった.無事に着艦したのがわかると周囲の艦船から汽笛や警笛が沸き上がった.ユージン・バートン・エリーは士官食堂で艦長とともに昼食会に参加して,57分後に再びペンシルバニアの飛行甲板から離艦してセルフリッジ飛行場へ帰っていった.
使用した複葉機は水冷4気筒50馬力エンジンを装備したカーチス・プッシャー(プロペラ推進式)の車軸に拘束フックを追加設置したものである. ユージン・エリーは2か月前(1910年11月14日)に,チェサピーク湾に停泊している巡洋艦バーミンガムの前部甲板に仮設した25mの木製滑走路から離陸に成功していたが,悪天候のために海岸に不時着したため,プロペラを破損していた.水上機の開発だけではなく,軍艦からの発艦と着艦に成功したことによって,海軍における飛行機の有用性が確認され,米国海軍とカーチス社の友好的な関係が始まる. |




