日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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 英国の空軍少佐オズワルド.R.ゲイフォード(Oswald.R. Gayford)と空軍大尉ニコレット(Gilbert Edward Nicholetts)は,フェアリ長距離単葉機MkII(ネピア・ライオンW12気筒25L530馬力)を操縦して,1933年2月6日〜8日に英国・クランウェル(Cranwell)〜南アフリカ・ナンビアのウォルベス・ベイまで8544km(5309マイル)を57時間25分で無着陸飛行して,長距離飛行記録を更新した.英国空軍としては,3度目の挑戦でようやく取り戻したという世界記録である.
 この長距離記録の前には,英国空軍少佐O.R.ゲイフォードは空軍大尉D.L.Gベットが,フェアリ単葉長距離機(ネピア・ライオンエンジン530馬力を装備した単発機)に搭乗して1931年10月27,28日に英国リンカーン・シャーのクランウエルからエジプトのアブ・シェーまでの4600km(2857マイル)を無着陸飛行した実績があった.

長距離飛行記録への挑戦は1930年代に

 英国のフェアリー単葉長距離飛行機は,すでに空軍少佐A.G.ジョーンズ・ウィリアムズと空軍大尉N.H.ジェンキンスが1929年4月24〜26日に英国〜インド間を無着陸で6647km(4130マイル)を50時間37分で飛行した記録から競争が始まった.
 この長距離飛行記録は,フランス人のデユドネ・コント飛行士(1927年に南大西洋をセネガルからブラジルまで横断飛行した)によって1年足らずで更新された.コント飛行士は1930年9月27日にパリをスタートしてモンゴルのチチハルまで飛行して11月21日に戻ってきたのだが,ブレゲー19(ロレーヌ12Ed450馬力を装備)のクエスションマーク号で7905km(4912マイル)を無着陸で51時間39分で飛行したのだ.これはパリから満州里まで7905kmを無着陸で飛行し,東京まで飛行する予定だったが,偏西風が強かったためにチチハルで中止してしまったのだ.
 しかしフランスの記録もすぐに2人の米国人ラセル・ボードマンとジョン・ポーランド飛行士がベランカ単葉機(ライト社サイクロン9気筒300馬力を装備したコド岬号:搭載燃料は2725L/720ガロン)で,1931年7月28日にニューヨークのブルックリンにあるフロイド・ベネット飛行場を出発してトルコのイスタンブールまで無着陸飛行して更新してしまった.米国人はコントよりもさらに100マイル遠く飛んだために着陸時には1パイント(0.5L)の燃料しかタンクに残っていなかったという.ベランカ単葉機で大西洋と欧州を横断してアジアのイスタンブールまで8066km(5011.9マイル)を50時間8分で飛行した.

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複葉機はアブロ・アビアン改造機

 H.J.L.バート・ヒンクラー(Herbert John Louis 'Bert' Hinkler:1892〜1933:オーストラリアの名誉空軍少佐)飛行士は,英国のクロイドンからオーストラリアのダーウィンまで1928年2月7日〜22日(15.5日)の日程でアブロ・アビアン単発複葉機(Cirrus Mk.IIエンジンを装備)に搭乗して単独で飛行して,イタリア,マルタ,リビヤ,インド,ビルマ,シンガポールを経由して1万7700km(1万1450マイル)を無事に飛び到達した.実飛行時間は129時間だから平均飛行速度は,82.5mph(128km/h).ヒンクラー飛行士は,経由地のインドで単独飛行のメモを現地の新聞に投稿したが,それによって「孤独な鷹(Lone Eagle)」として,このあとで大西洋単独横断飛行に成功するリンドバーク並みの話題となった.
 この長距離飛行を記念してヒンクラー飛行士が使用した複葉機(アブロ・アビアン)は,現在もオーストラリアのブリスベーンにあるクィーンズランド博物館に保管展示されている.

単葉小型機はDH80プス・モス

 ヒンクラー飛行士はさらに1931年に英国製のデハビランド社製DH80プス・モス単発単葉小型機(GipsyIII/129馬力)でカナダから英国まで南大西洋を単独で10月から12月に掛けて横断飛行に成功した.このプス・モス単葉機は1931年にアミー・ジョンソン(Amy Johnson)飛行士が東京までの長距離飛行を行ない8日22時間35分で到着している.さらに1932年には,ジム・モリソン(英国グラスゴー出身の飛行士:Jim Mollison)が東から西に(英国から米国)大西洋を単独で横断飛行にプス・モス単葉機を使って成功している.
 しかしヒンクラー飛行士は,プス・モス単葉機で英国からオーストラリアまでの単独飛行中に1933年1月7日にイタリア・アペニン山脈のプラトマグノ山に墜落して死亡した.

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9人乗りの双発ジェット機MU300

 三菱重工業ではMU-2を販売していた1969年にひとクラス上のビジネス・ジェット機を計画し,最高速度は時速500マイル(約800km/h),広い客室を備え,高い燃費効率,経済性を持った機体の開発を考えた.プロジェクトチームが米国の市場調査企業にビジネス・ジェット機のニーズを詳細に予測したレポートより「MU将来開発計画書」が完成した.こうしてCAD・CAMシステムを駆使してコンピュータ設計を行ない,空気抵抗を考慮した機体形状,優れた操縦性能と,速い巡航速度805km/h,MU-2より一回り大きな機体となるMU300は,ゆったりとした客室と,競合機より数%低い燃費効率を持つ双発のビジネス・ジェット機が開発された.
 しかし,ビジネス・ジェット機分野にはグラマン,ロックウェル,セスナ,ビーチクラフト,ゲイツリアジェットなどがしのぎを削って競争しており,困難な挑戦となったが,MU300では3段階に分けて開発を進め,第1段階では基礎設計を行ない,第2段階では4機の試作機を製作して性能を確認した.第3段階は全ての条件をクリアしてから生産体制に移行する.それぞれの段階で慎重に経営判断をして,いつでも中止可能な体制で損失を最小にしようとした.
 1976年より開発に着手し,1977年8月29日に試作機が初飛行した.2年間の性能試験を経て,経営首脳は量産への移行を1979年5月に許可した.米国連邦航空局(FAA)の審査を受けるために試作2号機を6月に米国に送り,8月には耐空審査に合格した.米国はオイルショックから立ち直り,好景気を迎えており,現地法人MAI(三菱アメリカ・インダストリー)も販売網の整備も進めた.MU-2の実績もあり受注が順調に増加し,公式試験を経て型式証明を取得できれば量産して販売するはずだった.

◇DC10墜落事故の影響

 ところが1979年にはマクダネル・ダグラス社のDC10旅客機が貨物室ドアの欠陥により,シカゴとパリで相次いで墜落し,数百人が死亡した.ダグラス社の企業体質だけでなく,FAAの審査基準に問題があったのではないかと,連邦議会でも追及された.そのためFAAは,審査基準を大幅に見直すことなり,航空機メーカーは動揺していた.
 しかし小型ビジネス・ジェット機メーカーでは,新しい基準はダグラス社やボーイング社などの大型旅客機に適用するもので,ビジネス・ジェット機には無関係だと考えていた.三菱重工もMU300には自信を持っていたため,事故や議会の追及後も機体の改修などを伴う設計基準の再検討も行なうことなく,FAAが動き出すのを待っていた.
 しかし,FAAは全ての機体への審査基準を厳しくすると発表した.これはMAIにとっては大きな誤算だった.8月の耐空試験から9か月も経って,飛行試験の許可を得たが,MU300は基準改正後の試験対象第一号となり,航空機メーカーより多大な注目を集めた.しかも,その試験自体が FAAも判断に迷う内容が多く,解釈をめぐってFAA内で延々と議論を続けたため,335時間,17か月に及ぶ膨大な時間を費やした.1980年9月には110機の仮受注を受けていたが,MAIは焦ったが,手直しや設計変更がほとんどの部分で発生したため,型式証明を取得したのは1981年に入ってからだった.
 日本で販売した時期は,第2次オイルショック後の円高不況で,読売新聞社が購入したが,売上は伸び悩んだ.
海外では「ダイヤモンドI」の名で販売したが,期待した米国市場はFAA審査に手間取っている間に状況が一変し,高金利政策により不況に陥り,航空業界も軒並み経営悪化,ビジネス機の需要は皆無となっていた.さらにFAA審査に手間取ったことで,MU300への信頼が低下し,納入の遅れによって契約のキャンセルが相次いだ.高額なビジネス・ジェット機の受注は半ば投機的なもので,見通しが狂えばキャンセルするのはこの業界の常識だったが,MAIは発注取り消しに対する有効な手段を考えていなかった.
 不況によってビジネス・ジェット機の需要は頭打ちになり,一方の航空会社は,全米の空港をコンピュータ・ネットワークで結んだ「ハブシステム」を導入し,主要空港での乗り継ぎの便を良くするなど,新たな戦略を打ち出してきた.ビジネス・ジェット機市場は大メーカーでさえ生き残りをかけた非情なリストラ策を講じるほかなく,MAIも追い詰められた.
 役員会において現地法人MAIの清算も検討されたが,このときMU-2で発生した赤字を含めて,100億円の負債を抱えていた.機体の開発費だけでなく,販売網やサービス・ネットワークの構築によって発生した赤字は,MAI単独で負担できるものではなくなり,他の部門から航空宇宙部門への不満が発生していた.新MAIとして再建し,MU300の性能向上型として「ダイヤモンドII」を1983年4月に発表し試作機が1984年6月20日に初飛行し,量産1号機は1985年1月に初飛行した.ところが新モデルはほとんど売れず,開発費がそのまま赤字に上乗せされて,もはや会社の継続は困難となった.小型ビジネス機業界は軒並み経営危機にさらされ,1985年12月にセスナ社がゼネラル・ダイナミックス社に,デハビラント・カナダ社はボーイング社に,ガルフストリーム社はクライスラー社がそれぞれ買収して次々に再編が進められていた.

Beech Jet 400

 MAIも防衛企業レイセオン社の子会社となったビーチクラフト社と提携し,ビーチ社の販売網を利用することにした.こうしてビーチ社は,MU300をすべてBEECH JET400(ビーチ・ジェット)の名で販売し,商品から三菱の名前を消した.さらに販売済みのMU-2とMU300のアフターサービスもビーチ社が引き受け,MAIの業務は縮小し,段階的に業務をビーチ社に移管し,テキサス州サンアンジェロの自社工場を閉鎖し,1986年に米国の販売から完全に撤退した.ビーチ社は日本から搬送された機体に,独自の内装を施して販売し,また過去にMAIが販売したMU300もすべてビーチジェット400に統合した.
 ビーチ社に移管するまでにダイアモンドIIは11機が製作された.1986年6月よりビーチジェット400モデルとして納入が始まった.三菱重工は1988年2月に設計を含めた生産プロセス全てをビーチ社に売り渡し,日本国内での販売も終了した.これで三菱重工は小型ビジネス機分野から完全に撤退し,MU300は101機を販売したが膨大な赤字を抱え込んでしまった.
 ビーチジェットは米国向けにリファインした次期モデル400A(Pratt & Whitney Canada JT15D-5)が1990年11月より納入が始まるまで販売は低調だった.ところが1990年になるとビーチジェット400(乗員2+乗客8人)は,米国空軍が練習機にT-41(現在は,T-1Aジェイホーク)として採用したのをきっかけに注目を集め,1990年代には日本が不況に喘ぐ一方,米国の空前の好景気に支えられて売上を伸ばした.もちろん,MU300ダイヤモンドでは空軍は対象外だったから,ビーチ社ほどに販売数量を伸ばしたかは不明だ.民間向けのビーチジェット400Aは1986年から258機を製作している.400Sは64機を納入している.
 レイセオン社ではさらに豪華な内装にしたビーチジェット400Sを1996年に追加した.ビーチジェット400Aは空軍向けT-1Aジェイホーク(輸送機乗員訓練用)として1992年〜1997年に180機を納入した.もちろん日本の航空自衛隊も12機のビーチジェット400T(T-400)を導入している.

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