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蒸気機関が船を動かす動力源に適したエンジンと評価されて蒸気船が実用化されると,次は河川から大洋を汽船で航海する方向に目が向いた.1819年に米国から英国へ大西洋を横断したサバンナ号(Savanna)は,補助エンジンとして蒸気機関を装備した帆船で,いわばハイブリッド汽船だった.
サバンナ号は27日間で大西洋を航海して横断したが,蒸気機関を使用して航海したのは,そのうち4日間足らずであった. さらに1825年に英国からインドまで喜望峰を周る航海によって到達した最初の汽船は,英国の「エンタープライズ」号だった.この蒸気船の航海はファルマスからカルカッタまでの113日間の航海において,蒸気機関を使用したのは63日だった.まだ当時の蒸気機関は,燃料となる石炭をがぶ飲みする欠点があったが,産炭地で石炭が安価に入手できる英国内や樹木が豊富なミシシッピ河沿岸であれば,たいした問題にはならなかったが,大洋を蒸気機関で航海しようとする蒸気船には,大量の石炭を積み込んで出航するか,途中で大型の帆船から石炭を補給する必要があった. こうして初期の蒸気船は,まず英国と米国間の長距離輸送手段として大西洋航路から使用がはじまった.大西洋を横断する蒸気船の航路は交通が頻繁で,大西洋を安定して速く航海できるため,航海費用が高価でも利用者はある程度は存在していた.さらに英国とインド間の航路にも蒸気船を投入して航海日程を短縮しようと検討がはじまった. ヨーロッパからインドまでの航路には当時は3つのルートが存在した.まず,エジプトを陸路で横断し,紅海を南下してアラビア海を経由するルートがあった.第2のルートは,シリアを横断してメソポタミアに到達し,ユーフラテス河とペルシア湾を南下してアラビア海に出るルートである.第3は,大西洋を南下してアフリカ大陸を回ってくる喜望峰ルートである.これらのルートを選択するのは,航海技術と中東地域の政治情勢が関係していた. アフリカ周りの喜望峰ルートは,東インド会社が19世紀初めによく使用した.英国はナポレオンとの戦争でオランダとフランスの海上戦力を一掃していたから,このルートは距離が長いが安全な航路となっていた.東インド会社の帆船が英国とインドを喜望峰ルートで往復すると,当時はおよそ2年の歳月を必要とした. 英国人は中東を陸路で通過する2つのルートを「陸上ルート」(Overland)と呼んでいたが,メソポタミアを経由するルートは,ヨーロッパとシリア間,ペルシア湾の奥からインドまでの航海は比較的簡単なものだった.しかしこれらの2つの区間の中央に,外国人を嫌悪するアラブ部族や,アジア的なトルコ人官僚がいるオスマントルコ帝国を通過する必要があった.紅海ルートには,政治的な問題は少なかったが,帆船が紅海を航海することはほとんど不可能とされていた.紅海は風向が変わりやすく,長期の凪,突然の暴風雨などの自然環境が障害となった.また地形的にも紅海には,隠れた岩礁や珊瑚礁が点在し,海岸線は鋸の歯のように入り組んでおり,沿岸の住民が遭難船から略奪する機会を待ち構えていた. 英国の海軍将校ジェームズ・ヘンリー・ジョンストン(James Henry Johnston)は,長距離の大洋横断航路への汽船を就航させようとする動向が高くなってきたので,1822年にカルカッタとスエズ間に汽船を運航しようと計画した.彼はカルカッタに在住している英国人に呼びかけて「英国・印度間汽船運航推進協会」(Society for the Encouragement of Steam Navigation between Great Britain & India)を設立し,「汽船委員会」(Steam Committee)が6万9903ルピーの「汽船基金」(Steam Fund)を設立した.インド総督アマーストが2万ルピー,アワドの太守が2000ルピーを寄付し,残りをカルカッタの業者が拠出した.これらの寄付金を,ベンガルと英国との間(大西洋を南下する喜望峰ルート)を1回当たり平均70日間で,4回連続して航海した汽船の持ち主に8万ルピーを賞金として与える懸賞とした. ジョンストンは英国に戻り,外洋を航海する英国最初の汽船の建造に取り組んだ.この船には「エンタープライズ」号(Enterprise)と名づけて,長さ141フィート,搭載重量464トンで,60馬力の蒸気機関を2基装備したものとなった.計画では,途中でケープタウンに寄港して燃料を補給すれば60日以内でカルカッタに到着可能と考えていた. エンタープライズは1825年8月16日に英国のファルマスを出航したが,速度が遅く燃料消費も予想外に多かったために,ケープ・タウンに寄港したのは10月13日になってしまった.さらにインド洋で暴風雨に遭遇したためカルカッタに到着したのは12月7日で,航海には113日もかかってしまった.しかしベンガル管区政庁は,「スティーム」ジョンストンに賞金の半額を与え,エンタープライズ号をビルマ戦争で武器輸送に使用するために購入した.その後ボンベイ海兵隊(1830年以降はインド海軍)がエンタープライズを取得したが破損したため,インド海軍のマルコム兄弟はボンベイで新しく「ヒュー・リンゼイ」(東インド会社取締役会長の名前)号を建造した. ヒュー・リンゼイ号は木造チーク材で,長さ140フィート,幅25フィート,80馬力の蒸気機関を2基装備した蒸気船だった.こうして1830年3月20日にヒュー・リンゼイ号は石炭を満載してボンベイを出航したが,アデンで石炭を使いきってしまった.燃料補給のために12日を費やしたが,スエズに到達した.アフリカ周りの帆船で燃料が供給されたが,石炭はトン当たり13ポンドとなり,ボンベイ〜スエズ間の往復運賃は1700ポンドとなった.しかし,ボンベイから運んだ郵便は59日でロンドンに到着した.
紅海ルートを航行したヒュー・リンゼイ号はボンベイ〜スエズ間を21日間で運航した.スエズからは陸路をらくだの背で運んでカイロに届けて,平底舟でナイル河を下り,アレクサンドリアに到着し,マルタ島行きの商船が郵便物を運んだ.マルタ島より先は,英国海軍本部が汽船による定期航路を開設していた. |
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