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ユンカースJ1はヒューゴー・ユンカース(Hugo Junkers)が1915年に試作した単葉・単座の全金属製実験機(メルセデス製DII6気筒88kWエンジンを装備)である.ユンカース社が製作した最初の機体だったが,まだ鋼板(機体の素材は厚さが0.2mmの鋼板を使用)を使用した全金属製単葉機で,支柱や張り線のない片持単葉主翼とした先進的な機体構成になっていた.しかし主翼の翼の付け根が異様に太かった.
しかも鉄板を使ったために機体の重量は937kgになってしまい,従来までの羽布張りのフォッカー EIIIが400kg程度であるのに比べて重量が過大となってしまった.試作した単葉戦闘機は1915年12月12日に初飛行した.試験飛行において飛行速度が170km/hに達し,この当時の単葉機としては高速を記録したが,逆に旋回性能は非常に悪く, また機体が重すぎて上昇性能も悪かった. このころの戦闘機としては,旋回性能と上昇性能の2つが悪いのは致命的で,試作の1機で開発は中止され次の機種J2(軍用コードはE2)の開発に移行した. 1916年1月にはドイツ軍から全金属製機J1の上昇性能を改善した実験機J2の試作機6機がユンカース社に発注された.J2の試作1号機は1916年7月11日に初飛行した.試作機の試験飛行の結果,戦闘機として1飛行当たりの飛行可能時間を5時間以上にすることを要望された.J2の5機はより強力なメルセデスDIIIエンジン(118kW)を装備して,プロトタイプより少し大きな主翼に改造した.しかしエンジンが重くなったために搭載重量は100kg減少してしまった.結局,J2でもドイツ軍(IDFLIEG:German Airforce)の要求する仕様を実現できないことがわかり,開発は打ち切られた. マーダ博士(Dr. Mader)とスタデル(Steudel)が中心となってジュラルミン素材を用いた機体構造を実験するJ3プロジェクトが,1916年の夏にユンカース社の開発資金で単座の戦闘機と複座の偵察機の試作が行なわれた.しかしユンカース社はこのプロジェクトのために1916年10月に経営危機に陥り,開発が中断した.しかしアルミ軽合金パイプ構造の胴体とアルミ軽合金の波形パネル構造の主翼を試作して設計に必要なデータは十分に検討されていた. 1916年11月にドイツ軍はユンカース社に軽合金製の複葉・複座戦闘機を発注した.これによって,ユンカース社は鉄板構造より6割の重量軽減が可能なジュラルミン(高力アルミニウム)構造を機体に採用した複座の複葉戦闘機J4(ベンツ社製DIV147kW)を1917年に試作した.J4はユンカース社の社内呼称でJ1というのは軍隊のコードである.試験飛行の結果J4は正式にドイツ軍に採用されて1919年2月までに227機が製造された(3機の試作機を含めて). |
複葉機百科
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1911年にニューヨークからカリフォルニア州ロング・ビーチまで北米大陸を最初に飛行機で横断したのは,カルブレイス.P.ロジャース(Calbraith Perry Rodgers:1879-1912)飛行士で,ライト社が製作した複葉機で「ビン・フィズ・フライヤー」(the Vin Fiz Flyer:2枚の2.4mの推進式プロペラをエンジン(35馬力/26kW)でチェーン駆動して回転させ,速度72〜97km/hで飛ぶ)で行なった.
まず動機は,新聞社社長のWilliam Randolph Hearstによって,東海岸から西海岸まで30日以内に飛行機で横断したら5万ドルの懸賞金が掛けられていたことである. ロジャース飛行士を支援する3両編成の鉄道列車にはVin Fizの4機分のスペア部品を用意して飛行機とともに米国内を移動した.当時の飛行機にはまだ航法支援装置はないから,地上の鉄道線路などを目視で確認して経路を決めていた. 飛行距離が増えるに従って事故や故障が続出し,11月5日にロング・ビーチに着いた時には原型機のオリジナル部品はわずか2点が残っているだけだった. ニューヨークのブルックリンのシープシード湾を9月17日の日曜日午後にスタートして,ニューヨークからシカゴ,テキサス州のサンアントニオまで下って米国の南側国境沿いにカリフォルニア州ロングビーチまでの経路を飛行した.この経路をとることで山岳地帯を完全に避けたため地形面での障害はなかった. これで北米大陸の横断飛行は9月17日〜11月5日の日程でカリフォルニア州パサデナまで5455km(3390マイル)を実飛行時間82時間4分で到達した.49日間を掛けて69か所を経由して17回の着陸墜落事故(ロジャーズは認めないが,着陸事故であることはまちがいない)により複葉機の修理を繰り返して西海岸に到達した.平均飛行速度は82km/h(51mph)ロジャースの1日の最長飛行記録は10月28日のサンダーソンからテキサス州のシェラ・ブランカの372km(231マイル)だった. ロジャーズはこの時点でハーストの賞金は無効になった.しかし後援したArmour(清涼飲料水メーカー)社が2万ドル上乗せして賞金を払った.もちろんArmour社のポスターや広報宣伝には協力した.ロジャーズの存在価値は,墜落事故を繰り返しても生き残ったことで人気を得ていたのだ. さらにロジャース飛行士はカリフォルニア州コンプトンで11月12日に墜落し,ひどい怪我をしてしまった.このために計画より28日遅れてしまった.ようやく12月10日にカリフォルニアの海岸まで飛行して6400kmの大陸横断を完了した. 残念ながらロジャーズは,飛行機の墜落事故で1912年4月に死亡した. さらにロジャースに引き続いて西海岸から東海岸までの北米大陸横断飛行をロバート.G.フォウラーがロス・アンジェルスからフロリダ州のジャクソンビルまで4056km(2520マイル)を112日間掛けて,1911年10月19日〜1912年12月2日に実行した.
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ペドロ・ザンニ少佐(アルゼンチン国籍)とフィリップ・ベルトーメ機関士は,オランダのアムステルダムより1924年7月22日にフォッカーC4複葉機に搭乗して世界一周飛行に出発した.フランス領インドシナまで7727マイル(1万2440km)を85時間25分で飛行してきた,ザンニ少佐の「シティ・オブ・ブエノス・アイレス」はハノイを8月19日に離陸しようとして大破してしまった.この事故により代わりの複葉機をブエノス・アイレスからハイファまで運び「プロビンス・オブ・ブエノス・アイレス」と名付けて,ザンニ少佐はさらに2939マイル(4730km)を34時間25分飛行して霞ヶ浦に9月11日に飛んできた.さらに千島列島とアリーシャン諸島沿いに北アメリカまで飛行する計画だったが,地上の風が荒れたために離陸を中止した.
すでにこの時点でザンニ少佐は世界一周飛行をフォッカーC4複葉機で1万7000kmを飛行していたが,技術的な問題と幸運な事故により長距離飛行を日本で打ち切った.飛行機で戻ろうとしたが,大阪の木津川飛行場で事故を起して機体を破損してしまった. |





