日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

複葉機百科

[ リスト | 詳細 ]

ゆっくりと優雅に飛行するプロペラ機こそ飛行機じゃないかなあ

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

 ユンカースJ1はヒューゴー・ユンカース(Hugo Junkers)が1915年に試作した単葉・単座の全金属製実験機(メルセデス製DII6気筒88kWエンジンを装備)である.ユンカース社が製作した最初の機体だったが,まだ鋼板(機体の素材は厚さが0.2mmの鋼板を使用)を使用した全金属製単葉機で,支柱や張り線のない片持単葉主翼とした先進的な機体構成になっていた.しかし主翼の翼の付け根が異様に太かった.
 しかも鉄板を使ったために機体の重量は937kgになってしまい,従来までの羽布張りのフォッカー EIIIが400kg程度であるのに比べて重量が過大となってしまった.試作した単葉戦闘機は1915年12月12日に初飛行した.試験飛行において飛行速度が170km/hに達し,この当時の単葉機としては高速を記録したが,逆に旋回性能は非常に悪く, また機体が重すぎて上昇性能も悪かった.
 このころの戦闘機としては,旋回性能と上昇性能の2つが悪いのは致命的で,試作の1機で開発は中止され次の機種J2(軍用コードはE2)の開発に移行した.
 1916年1月にはドイツ軍から全金属製機J1の上昇性能を改善した実験機J2の試作機6機がユンカース社に発注された.J2の試作1号機は1916年7月11日に初飛行した.試作機の試験飛行の結果,戦闘機として1飛行当たりの飛行可能時間を5時間以上にすることを要望された.J2の5機はより強力なメルセデスDIIIエンジン(118kW)を装備して,プロトタイプより少し大きな主翼に改造した.しかしエンジンが重くなったために搭載重量は100kg減少してしまった.結局,J2でもドイツ軍(IDFLIEG:German Airforce)の要求する仕様を実現できないことがわかり,開発は打ち切られた.
 マーダ博士(Dr. Mader)とスタデル(Steudel)が中心となってジュラルミン素材を用いた機体構造を実験するJ3プロジェクトが,1916年の夏にユンカース社の開発資金で単座の戦闘機と複座の偵察機の試作が行なわれた.しかしユンカース社はこのプロジェクトのために1916年10月に経営危機に陥り,開発が中断した.しかしアルミ軽合金パイプ構造の胴体とアルミ軽合金の波形パネル構造の主翼を試作して設計に必要なデータは十分に検討されていた.
 1916年11月にドイツ軍はユンカース社に軽合金製の複葉・複座戦闘機を発注した.これによって,ユンカース社は鉄板構造より6割の重量軽減が可能なジュラルミン(高力アルミニウム)構造を機体に採用した複座の複葉戦闘機J4(ベンツ社製DIV147kW)を1917年に試作した.J4はユンカース社の社内呼称でJ1というのは軍隊のコードである.試験飛行の結果J4は正式にドイツ軍に採用されて1919年2月までに227機が製造された(3機の試作機を含めて).

イメージ 1

イメージ 2

英国のデ・ハビランド社製複葉機DH50は水上機も開発した

 1922年になると第一次大戦後に民間機市場に放出されたDH9Cがそろそろ寿命がつきかけていた.デ・ハビランド社では代替機として,パイロットを後部の開放操縦席としその前に乗客4人の密閉客室を主翼の中間に配置した複葉機DH50旅客機の開発を進めていた.
 DH9Cで使用したシドレイ・ピューマ・エンジンは小型機では信頼性と経済性が証明されていたのでそのまま流用したDH50の試作機は1923年7月30日に初飛行した.その4日後にアラン・コブハムの操縦で信頼性試験としてコペンハーゲンとゴーセンバーグを8月7日〜12日まで毎日飛行して優勝するなど,すばらしいスタートを切った.試作2号機が完成する前にコブハムは,何度か長距離飛行を行なった. 
 それは1925年11月16日と1926年2月17日にクロイドンからケープタウンまでの2万5749km(1万6000マイル)をDH50で飛行したのだが,この飛行は1926年に英国からオーストラリアまでの往復飛行の予備調査として行なったものである.
 試作2号機にはアームストロング・シドレイ・ジャガー星型エンジン(385馬力/287kW)を搭載し,双フロートを装備したDH50J水上機として再設計したものとなった.
 こうしてDH50は,デ・ハビランド社で16機が製造され,オーストラリアではDH50Aをラーキン航空機社によるライセンス生産が行なわれ,カンタス航空向けにDH50Aが4機,DH50Jが3機,西部オーストラリア航空には3機のDH50Aが納入された.ヨーロッパ大陸では,ベルギーのSABCA社がライセンス生産を行ない,3機のDH50Aをブリュッセルに,7機をプラハ航空に納入した.SABCA製DH50Aはベルギーとコンゴ路線に投入された.
 デ・ハビランド社が製作したDH50は,4機が英国を中心に運航され,うち2機をインペリアル航空が導入した.さらに1機はチェコ政府に,10機がオーストラリアに,1機がニュジーランドへ納入された.一番長く使用されたのは15番目に英国で製造された機体で,1928年にオーストラリアの民間航空局に納入され,1942年にニューギニアで戦闘に遭遇して破壊された.
 DH50シリーズに使用されたエンジンは多種類あるが,ADC社ニンバス(300馬力/224kW),ブリストル社ジュピターIV(420馬力/313kW),ブリストル社ジュピターVI(450馬力/336kW),ジュピターXI(515馬力/384kW),プラット&ホイットニー社ワスプC(450馬力/336kW),チェコ製ワスプ版ワルターW-4(240馬力/179kW)などである.

イメージ 1

イメージ 2

ベルギーとアフリカのコンゴ定期航空路線

 ベルギーのサベナ航空は,2001年に9/11テロ活動による民間航空不況とスイス航空の倒産の余波を受けて倒産した.現在はヨーロッパ域内のブリュッセル国際空港を中心に運航するSNブリュッセル航空が引き継いでいる(ザィールのキンシャサまで週5便を運航している).かつては日本まで乗り入れてANAとコードシェアしていた航空会社だが,もう羽田に飛来することはない.アフリカ(ベルギー領コンゴ:1960年6月に独立)との航空路線開発に独自の地位を確立していた航空会社だったので,それを振り返ってみよう.
 サベナ航空は1923年5月23日にベルギーを代表する航空会社として設立された.それ以前には1919年に設立されたSNETA(The National Society for the study of Air Transport)がベルギー国営の航空会社として存在した.
 サベナ航空が営業活動を開始したのは,1924年4月1日からオランダのロッテルダムからフランスのストラスブールまでベルギーのブリュッセル経由の航空路線だった.定期航空路線はすでに1923年からアムステルダムとバーゼルからストラスブール間で運航していたが,1924年には,さらにロンドン,ブレーメン,コペンハーゲンまで伸ばしていた.
 ベルギーは1920年代にはベルギー領コンゴの航空会社LARA(Ligne Aerienne Roi Albert)と共同でヨーロッパと植民地を結ぶ路線を最初に開設した.LARA航空は,コンゴでコンゴ川といくつかの都市(ザィールの首都キンシャサ,リサラ,スタンレービル)を水上機で連絡する現地の路線を運航した.使用した水上機は乗客を2人乗せてベルギー領コンゴを飛んだLevy飛行艇である.しかし旅客と貨物の航空輸送を実験的に始めたLARA航空は1年足らずで航空輸送を終了してしまった.新しいベルギーの航空会社がこのギャップを埋めてくれると期待してベルギー領コンゴのベルギー人も一部を出資してサベナ航空が設立された.同じころベルギーと植民地を結ぶ航空路線を開設するために調査が進められていた.
 こうしてサベナ航空は1925年からベルギー人のためにアフリカの植民地とベルギー領コンゴを結ぶ航空路線の開拓を始めた.サベナ航空はコンゴ路線には陸上機を使用する計画で飛行場を整備した.1926年に飛行場が完成すると直ちにザイールのボマ〜レオポルドビル〜エリザベスビルを中心に1422マイルのジャングルの上を飛ぶ路線を開設した.最初の飛行はデハビランドDH50複葉機で行なわれたが,より大きい飛行機ハンドレ・ページW8f旅客機(エンジンが3基で10人乗りの複葉機)に置き換えられた.
 そして1925年2月にハンドレ・ページ社製の3発エンジンの複葉機(3基合計で850馬力:2基がシドレイ,1基がロールス・ロイス)でブリュッセル〜コンゴまで初めて飛行した(Edmond Thieffry航法士,Jef de Bruycker機関士,Leopold Roger操縦士).この飛行は51日間で実飛行時間75時間25分だった(2005年であればエアバスA330でキンシャサまで8時間程度).同じ8124kmの経路を1930年にブレゲー19が8日間9時間25分で飛行した.定期航空路線は1935年2月23日からフォッカーF7b旅客機(乗客6人:5.5日間)を使って始まった.少しあとでサボイア・マルケッティS73(乗客8人:4日間)に変えたが,エア・アフリカ航空と共同で運航して2週間に1往復だった.
 ヨーロッパにおいてもサベナ航空は1931年よりコペンハーゲンとマルモにまで路線を伸ばし,さらにベルリン路線は1932年に開設した.こうして第2次大戦前にサベナ航空はユンカース製Ju-52/3m旅客機を投入してヨーロッパ大陸だけで6000kmに達する航空路線を運航していた.1938年になるとサベナ航空はイタリア製のSM73から発展したSM83を旅客機として使用し400km/hで巡航飛行していた.
1939年にヨーロッパで戦争が始まったときにサベナ航空は,サボイア・マルケッティSM73旅客機を11機,ユンカースJu-53/3m旅客機を5機,ダグラスDC2を2機で運航していた.第2次大戦中はヨーロッパ地域の民間航空路線は休止したが,ベルギー〜コンゴ路線の運航は継続していたのだ.

イメージ 1

イメージ 2

 1911年にニューヨークからカリフォルニア州ロング・ビーチまで北米大陸を最初に飛行機で横断したのは,カルブレイス.P.ロジャース(Calbraith Perry Rodgers:1879-1912)飛行士で,ライト社が製作した複葉機で「ビン・フィズ・フライヤー」(the Vin Fiz Flyer:2枚の2.4mの推進式プロペラをエンジン(35馬力/26kW)でチェーン駆動して回転させ,速度72〜97km/hで飛ぶ)で行なった.
 まず動機は,新聞社社長のWilliam Randolph Hearstによって,東海岸から西海岸まで30日以内に飛行機で横断したら5万ドルの懸賞金が掛けられていたことである.
 ロジャース飛行士を支援する3両編成の鉄道列車にはVin Fizの4機分のスペア部品を用意して飛行機とともに米国内を移動した.当時の飛行機にはまだ航法支援装置はないから,地上の鉄道線路などを目視で確認して経路を決めていた.
 飛行距離が増えるに従って事故や故障が続出し,11月5日にロング・ビーチに着いた時には原型機のオリジナル部品はわずか2点が残っているだけだった.
 ニューヨークのブルックリンのシープシード湾を9月17日の日曜日午後にスタートして,ニューヨークからシカゴ,テキサス州のサンアントニオまで下って米国の南側国境沿いにカリフォルニア州ロングビーチまでの経路を飛行した.この経路をとることで山岳地帯を完全に避けたため地形面での障害はなかった.
 これで北米大陸の横断飛行は9月17日〜11月5日の日程でカリフォルニア州パサデナまで5455km(3390マイル)を実飛行時間82時間4分で到達した.49日間を掛けて69か所を経由して17回の着陸墜落事故(ロジャーズは認めないが,着陸事故であることはまちがいない)により複葉機の修理を繰り返して西海岸に到達した.平均飛行速度は82km/h(51mph)ロジャースの1日の最長飛行記録は10月28日のサンダーソンからテキサス州のシェラ・ブランカの372km(231マイル)だった.
 ロジャーズはこの時点でハーストの賞金は無効になった.しかし後援したArmour(清涼飲料水メーカー)社が2万ドル上乗せして賞金を払った.もちろんArmour社のポスターや広報宣伝には協力した.ロジャーズの存在価値は,墜落事故を繰り返しても生き残ったことで人気を得ていたのだ.
 さらにロジャース飛行士はカリフォルニア州コンプトンで11月12日に墜落し,ひどい怪我をしてしまった.このために計画より28日遅れてしまった.ようやく12月10日にカリフォルニアの海岸まで飛行して6400kmの大陸横断を完了した.
 残念ながらロジャーズは,飛行機の墜落事故で1912年4月に死亡した.
 さらにロジャースに引き続いて西海岸から東海岸までの北米大陸横断飛行をロバート.G.フォウラーがロス・アンジェルスからフロリダ州のジャクソンビルまで4056km(2520マイル)を112日間掛けて,1911年10月19日〜1912年12月2日に実行した.

開く トラックバック(1)

イメージ 1

イメージ 2

 ペドロ・ザンニ少佐(アルゼンチン国籍)とフィリップ・ベルトーメ機関士は,オランダのアムステルダムより1924年7月22日にフォッカーC4複葉機に搭乗して世界一周飛行に出発した.フランス領インドシナまで7727マイル(1万2440km)を85時間25分で飛行してきた,ザンニ少佐の「シティ・オブ・ブエノス・アイレス」はハノイを8月19日に離陸しようとして大破してしまった.この事故により代わりの複葉機をブエノス・アイレスからハイファまで運び「プロビンス・オブ・ブエノス・アイレス」と名付けて,ザンニ少佐はさらに2939マイル(4730km)を34時間25分飛行して霞ヶ浦に9月11日に飛んできた.さらに千島列島とアリーシャン諸島沿いに北アメリカまで飛行する計画だったが,地上の風が荒れたために離陸を中止した.
  すでにこの時点でザンニ少佐は世界一周飛行をフォッカーC4複葉機で1万7000kmを飛行していたが,技術的な問題と幸運な事故により長距離飛行を日本で打ち切った.飛行機で戻ろうとしたが,大阪の木津川飛行場で事故を起して機体を破損してしまった.

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


.
tak*min*55
tak*min*55
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

ブログバナー

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事