日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

複葉機百科

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ゆっくりと優雅に飛行するプロペラ機こそ飛行機じゃないかなあ

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 英国空軍はハンドレ・ページV/1500(ロールス・ロイス製イーグルVIII水冷V型12気筒375馬力エンジンを4基装備)という4発爆撃機(最初の実用的な戦略爆撃機)でA.マクラーレン少将(ハーレイ,マクエンら)が1918年12月13日に英国を出発し,ローマ,マルタ,カイロ,バクダットを経由して12月30日にカラチまで飛行した.さらにインドの首都デリーには1月16日に到着した.なお,V/1500爆撃機は第一次大戦中に7機,第一次大戦後に57機が製作された.後継機としてビッカース・ビミー爆撃機が配備される1919年末まで使用された.
 さらに英国の第3次アフガン戦争において,アフガニスタンのアーマヌッラー王と英国領インドがカイバー峠で戦争を始めたが,カブールの王宮を1機のV/1500(機長はロバート.ジョック.ハーレイ)が1919年5月24日に爆撃した.爆弾4発を投下したが,物理的な被害はたいしたことはなかったが,カブール初の空爆という心理的な効果は大きかった.
 英国とインド間を無着陸で飛行するのは1929年まで待たねばならない.

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 日本帝国海軍は水上機母艦「若宮」の滑走台から,ソッピース3型パップ艦上戦闘機(英国製)の発艦実験を1920年(大正9)年6月22日に行なった.さらに1920年には海軍のソーピース3型パップ戦闘機(ルローン空冷式回転星形9気筒80馬力)で,戦艦「山城」の砲塔上に仮設した滑走台(長さ18m)より自力滑走による発艦に成功した.操縦したのは桑原虎夫大尉で,向かい風と艦自体の航行速度による合成した風速6mの状態で,ソッピース3型パップ戦闘機は15mの滑走距離で戦艦から発艦することができた.当時ソッピーズ3型パップ戦闘機は,陸軍と海軍で50機ほど使用していたが,海軍の艦上機は陸軍機よりも翼がわずかに大きいものになっていた.
 このほかにはグロスター・スパローホーク艦上戦闘機(ベントリーBR2空冷式回転星形9気筒200〜230馬力)を使い,戦艦「山城」砲塔上に仮設した滑走台からの自力離艦にも1922(大正11)年に成功している.
 着艦については,正式空母「鳳翔」の就役(1922年9月20日)まで実験記録はない.

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 カーチス社のテスト・パイロットのユージン・バートン・エリー(Eugene Burton Ely)は1911年1月18日に,セルフリッジ飛行場から午前10時45分にハドソン・フライヤー複葉機に乗って離陸し,サンフランシスコ湾に停泊している米国海軍の巡洋艦ペンシルバニアの仮設木製甲板(長さ41m×幅9.7m)に11時1分に飛行速度40マイル/時(64km/h)で拘束着艦に成功した.飛行機が停止したのは甲板の端から30フィート(9.1m)手前だった.無事に着艦したのがわかると周囲の艦船から汽笛や警笛が沸き上がった.ユージン・バートン・エリーは士官食堂で艦長とともに昼食会に参加して,57分後に再びペンシルバニアの飛行甲板から離艦してセルフリッジ飛行場へ帰っていった.
 使用した複葉機は水冷4気筒50馬力エンジンを装備したカーチス・プッシャー(プロペラ推進式)の車軸に拘束フックを追加設置したものである.
 ユージン・エリーは2か月前(1910年11月14日)に,チェサピーク湾に停泊している巡洋艦バーミンガムの前部甲板に仮設した25mの木製滑走路から離陸に成功していたが,悪天候のために海岸に不時着したため,プロペラを破損していた.水上機の開発だけではなく,軍艦からの発艦と着艦に成功したことによって,海軍における飛行機の有用性が確認され,米国海軍とカーチス社の友好的な関係が始まる.

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 南米のチリは面積ではブラジルに次いで大きい国だが,1912年ころに民間航空でブレリオ機が多数使用されていた.ルイス・アルベルト・アセヴェト飛行士がチリの飛行会で3180mの高度記録を1913年3月22日に出した.さらに3月25日にクロドミロ・フィガロアが長距離飛行に挑戦してバツコ〜ヴァルパライソ〜サンチャゴ間300kmを3時間15分で飛行した.ついで1913年12月にフィガロア飛行士がアンデス越えに挑戦したが成功しなかった.そのころの80馬力のブレリオでは十分な高度をとれなかったのだ.
アルゼンチンの飛行士J.ニューベリーは1914年2月10日にスーパー・チャージャー付きの80馬力エンジンを装備したモラン・ソルニエ単葉機でそれまでの高度記録を75m上回る6225mに到達した.その後でニューベリーはアンデス越えに挑戦したが途中で山腹に衝突し死亡した.
 アルゼンチン陸軍の飛行士ルイスC.カンデラリア中佐がモラヌ・ソルニエ社パラソル単葉機でアンデス山脈を1918年4月13日に最初にアルゼンチンのザパラからチリのカンコへ(西から東へ)飛行機で飛び越えた.ただしこのときは海抜13000フィート(4000m)の場所で130マイル(210km)の距離を飛行した.
 チリ陸軍のパイロットD.ゴードイ中佐が英国製ブリストル単葉機に110馬力のエンジンを装備した単発機でチリのサンチャゴから海抜1万9700フィート(6000m)のアンデスを越えてアルゼンチンの葡萄栽培と葡萄酒を醸造しているメンドーサに着陸した..
 2年後の1920年にアルゼンチンのV.アルマンドス・アルモナシドが220馬力のスパッドで夜間のアンデス越えに成功した.アルモナシドは第一次大戦中に連合軍のために最初の夜間爆撃を実施した人物である.1920年代になるとイタリア政府が友好と飛行デモのために外国に飛行士グループを派遣したときに,アントニオ・ロカテリが最初に単独でSVA(アンサルドAC2)に乗ってアンデス越え(ブエノス・アイレス〜サンチャゴ〜ブエノス・アイレス)に成功した.
 さらに女性飛行士のエイドリアン・ボーランド(ブラジル出身の飛行士)がコードロンG3で1921年4月1日にアンデスを飛び越えた.南米までカーチス製戦闘機(Curtiss P-1)のデモにやってきたジェームスH.ドウリットル中佐が1926年9月3日にアンデス山脈を飛び越えている.
 フランスの航空輸送会社が1928年になるとブラジルからアルゼンチン,チリへと郵便輸送が可能かどうか検討していた.ジャン・メルモーズ飛行士が2月2日よりラテコール25(450馬力のルノー・エンジンを装備)で何回か試みたが成功しなかった.突風にあおられてエンジンが故障したため,4300mの高地に不時着陸を試みたが,4日間零下25度の4300mの場所に止まり,断崖を利用して跳躍しながら飛び上がってなんとか戻ってきた.

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1924年4月6日〜9月28日

ドナルド・ダグラスは1920年に独立し,ディビッド・デイビスから米国大陸横断用航空機の設計と製作を依頼されて,複葉単発機に2人乗りの「クラウドスター」を試作し,1921年2月に初飛行したが,エンジンが不調なため,大陸横断飛行を断念した.こうして米国陸軍航空隊はフォッカーT2単発単葉機で米大陸横断飛行を1923年5月2,3日に実行した.その後ドナルド・ダグラスは「クラウドスター」を基本に海軍用の雷撃機DTシリーズを開発した.さらに陸軍からは世界一周飛行に使用する航続距離の大きな飛行機の開発を依頼された.
 陸軍航空隊の世界一周機にはリバティV型12気筒420馬力エンジンを装備した水陸交換(フロートと車輪を適宜交換する)機とし,DWC(ダグラス・ワールド・クルーザ)と名付けられた.
 DWC機はDT-2の爆弾懸架装置を外して燃料タンクを増設し,通常の燃料タンク容量115ガロン(435L)から644ガロン(3438L)とし,航続距離を2200マイル(3500km)に伸ばした.さらに操縦系統を2重にし,方向舵の面積を増やして支持を強化した.パイロットの上方視界を改善し,後席の機関士席を少し前に移動して直接会話が出来るようにした.420馬力の水冷12気筒リバティ・エンジン用ラジエータも整備しやすい場所に移し熱帯仕様の大きい方を装備した.
 1924年3月11日に5機目と予備部品(リバティ・エンジン15基,フロート14セット,追加2機分の機体部品)が揃った.予備部品は計画に先立ち飛行経路の各地に分散配置された.さらに海軍の船や沿岸警備隊が補給用の燃料と部品を用意して予定経路に配置されて飛行を支援した.
 3月17日から4月5日までは試験と準備期間とされ,公式には4月6日にシアトルにあるサンド・ポイント空港から出発したことになっている.
 4機のダグラス・ワールド・クルーザーにはマーチン少佐ら 8人が搭乗し,サンタ・モニカからアラスカへ海岸沿いに北上する経路をとり,太平洋沿岸に沿って飛行した.しかし4月4日にアラスカ半島の西側のダッチ・ハーバーで「シアトル」号は山腹に衝突して失われた.乗員は無事に救助された.領土の上空を通過する許可を得られなかったロシア上空を避けて,太平洋上を飛び鹿児島に着水した.アジアルートはロシア上空を避けたために1万1000km(6875マイル)長い経路となってしまった.
 DWCの飛行経路は,アリューシャン〜日本〜中国〜インド〜中東〜ヨーロッパ〜アイスランド〜グリーンランド〜カナダを経由して米国東海岸〜西海岸〜シアトルとなっており,米国内の飛行は世界一周凱旋飛行となり,非常に人気があった.DWC機は3機で最後の難関である大西洋に挑戦したが,「ボストン」号は大西洋の真ん中フェロー諸島とアイスランドの中間で不時着し転覆して失われた.乗員は無事に救助された.
 DWC2機(シカゴ号,ニューオーリンズ号)が175日間約6か月後に2万9000マイル(4万7000km)の航程を飛行して出発点に9月28日に到着し初めて飛行機による地球一周を完結した(実飛行時間は371 時間11分,62か所を経由).
 DWC機は試作機を入れて5機製作されたが,陸軍航空隊に納入され試作機がテストに使用されたが,DWC2機が米国に到着するとともに「ボストンII」号と命名されて,「ボストン」号の乗員が乗り込み米国内の飛行に同行し3機がゴールのシアトルまで飛行した.国立航空宇宙博物館の1976年に新館移転に伴い「シカゴ」号は1971年から1974年に修復再生された.唯一の生き残りDWCとなった「ニューオリンズ」号は,オハイオ州デイトンにある米国空軍博物館に保存されている.


DWC 名称 パイロット 機関士 注 記    
シアトル フレデリックL.マーチン少佐 アルバ・L.ハーベイ軍曹 アラスカで墜落
シカゴ   ロウエルH.スミス中尉 レスリーP.アーノルド リーダー代行して日本へ
ボストン レイ・ウェイダ中尉 ヘンリーH.オグデン少尉  8月2日に事故で喪失
ニュー・オリンズ ネルソン ジョン・ハーディングJr           

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