日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

民間航空史

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初期の飛行機作りから始めた民間の飛行機サポーターを中心に
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 吉原清治操縦士が報知新聞社の後援を受けて,ベルリン〜東京の単独母国訪問飛行を1930(昭和5)年1月に計画を立て,ドイツに渡りユンカースA50(全金属製応力外被構造:Armstrong-Siddeley社GenetII80馬力/63kW)を購入し,単座の長距離飛行用に改造して報知号(航続距離1500km)と名付けた.登録記号は初めドイツのD13,後に日本でJ-BECB.
 吉原操縦士は単独でベルリン〜立川飛行場間1万1400kmを11日間,実飛行時間79時間58分で1930年8月20日〜30日の日程で飛行して,初の母国訪問飛行を実現した.
 さらに1931(昭和6)年には,報知新聞社が企画した北大平洋を飛び石伝いに横断飛行する使用機としたユンカースA50の水上機型を報知日米号(J-BENB)と命名した.こうして,吉原操縦士が単独で羽田飛行場を5月14日に出発したが,千島列島の新知島付近で発動機が故障したために不時着水し,漂流7時間余で日本の汽船に救助された.
 同じ型式の第2報知日米号を,船で遭難地である新知島に運び,そこから飛行を継続して北太平洋を横断飛行する計画だったが,7月6日に根室港でテスト飛行中に,浮舟を破損したため,ふたたび坐折し,単発水上機のユンカースA50による太平洋を横断する計画は中止された.
 報知新聞社ではその後で同社の通信連絡機としてユンカースA50を使用し第6報知号,第7報知号とした.このほかにも海軍が試用したA50があり,型式名はKXJ1とした.
 A50はユンカース社の営業部門のジョン・アルツェンのアイデアで全金属製のスポーツ競技用単葉機として開発され,1929年2月13日に初飛行した.ユンカース社ではA50を汎用スポーツ機として5000機製作する計画だったが,69機製作して製造を中止し50機を販売した.A50を購入したのはフィンランド,スイス,日本,ポルトガル,南アフリカ,英国,ブラジル,オーストラリアなどがドイツから輸出された.
 なおA50は,1930年にFIAが公認した世界飛行記録を残している.
・高度記録:到達高度4614m(2人乗り:1930年6月4日),到達高度5662m(単独飛行:同日)
・滞空飛行時間記録:8時間25分(2人乗り:1930年6月6日)
・900kmを平均速度164.3km/hで長時間飛行
・単独飛行で16時間29分の滞空飛行時間を記録(1930年6月13日)
・2100kmを平均速度165.44km/hで長時間飛行(1930年6月16日)

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地上滑走練習機 モラヌ・ソルニエMS.12R2地上滑走練習機

 フランス航空教官団が1919(大正8)年に教材としてもってきたモラヌ・ソルニエMS12R2地上滑走練習機は,パラソル型単葉,串形複座で複式操縦装置を装備していたが,飛行練習まではできないが,速度を上げるとかろうじて跳躍する程度の揚力をもっていた.
 当時は,フランスだけではなく,英国,米国でも使用され,日本では3機を輸入して試用したあと,本機からヒントを得た二型,三型滑走練習機が製作された.
 輸入機はグノーム空冷式星形7気筒50馬力エンジンを装備していたが,のちにル・ローン空冷式回転星形9気筒80馬力に強化して,機体も張線支持式から支柱支持式の国産の一型滑走練習機に発達した.構造はモラヌ・ソルニエL型を改造した木製主材骨組羽布張り構造.
 さらに陸軍ではモラヌ・ソルニエ滑走機に続いて,航空部補給部所沢支部で設計製作した二式滑走機を採用した.ニ式とはニューポール式の略で,1919(大正8)年以来陸軍が輸入したニューポール81式練習機(後の甲式1型練習機)を基準に,飛ばないように主翼を小さな単葉に改造して,エンジンもパワーダウンした,単座の練習機である.発動機はグノーム回転式7気筒50馬力を装備した.補給部所沢支部で1919(大正8)年に製作され,ほかに中島飛行機でも同型の5機を製作した.二型の二は漢数字の二である.製作機数は1919(大正8)〜1920(9)年に補給部所沢支部で10機,中島が5機で,合計15機.
 このほかにフランス製のアンリオ式一葉半型滑走練習機が使われ,イスパノスイザ150馬力を装備して,特別大きな車輪をもち,胴体は軽金属板応力外皮構造をしていた.なお三型滑走機は陸軍の代表的な滑走練習機として使用されたが,1925(大正14)年に甲型一型に代わって安定性の良い巳式一型練習機(アンリオHD14)が多数出回ってから,地上滑走機による教育課程が廃止された.
 その後三型滑走機は民間に払い下げられ,一部の機体はサーカス興行などで使われ,回転腕木につり下げられてテント内で飛び回り,興行界で短期間使われたことがある.製作機数は補給部所沢支部で1921(大正10)年に5機,1922(11)年に15機,1923(12)年に5機で,合計25機.

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平和記念東京博覧会が東京上野公園不忍池畔で1922(大正11)年3月10日〜7月31日に東京府の主催で開かれた.この博覧会の飛行館には,川西機械製作所・飛行機部の後藤勇吉操縦士が川西式K-3通信機(マイバッハM4a水冷式直列6気筒260馬力)により岐阜県の各務原から一気に東京まで乗客2人を乗せて実飛行時間2時間11分(3月11日,12日)で飛来して出品・展示された.
  これに対して関東地区の航空機メーカーでは,伊藤飛行機が日本で最小の超軽スポーツ機伊藤式恵美30型スポーツ機を出品した.この超軽スポーツ機の発動機は,陸軍のモ式4型機に装備されていた国産ルノー70馬力のシリンダ・ブロックを利用し,クランク・シャフトとクランク・ケースを自作して組立てた伊藤式11型空冷式星型5気筒40馬力エンジンを装備していた.なお当時の軽飛行機の規格では,自重が300kg以下とされていたため,機体の寸法はもちろん日本では最小サイズで,全幅5.80m,主翼面積13.0m2がであった.
 さらに中島飛行機製作所がフランスのブレゲー14型をライセンス製作し,住友金属工業の試作素材「住友軽銀」(ジュラルミン)を主材とした全金属製骨組み複葉機「中島式B-6複葉機:軽銀号」(ロールス・ロイス・イーグル8水冷式V型12気筒360馬力)を試作して出品した.

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 北海道の北東部でオホーツク海に面した女満別に飛行場を設置しようとしたのは,冷害を予測し克服するために,オホーツク海の流氷観測や,気象観測に飛行機を利用してみようと考えたのがきっかけである.
 まず中央気象台(現在の気象庁)は飛行機を操縦する気象観測隊員として,根岸錦蔵(静岡県清水市三保出張所の気象観測員)を北海道網走に派遣した.根岸錦蔵は女満別で村営だった競馬場の跡地を滑走路に利用することを提案した.こうして,女満別の村民を総動員して気象観測機用の滑走路(500m)を整備する土木工事が突貫作業で行なわれ,気象観測のための飛行場が1週間で完成した.
 女満別飛行場から中央気象台の流氷観測機が飛び始めたのは,1935年3月23日からである.中央気象台が実施した流氷観測は,根岸錦蔵気象観測隊員が操縦する流氷観測機「海風」(三菱航空機製T-1.2観測機:中島飛行機製ジュピター空冷式星型9気筒420馬力を装備)で沿岸の流氷の上空を飛行して,直径約25cmのゴム風船に赤インクを入れたものを上空から落とし3日後に,飛行機で目印を探してその位置を記録するという方法をとった.
 赤インクのついた流氷を複葉機の上から発見するのは楽な作業ではなかったが,これにより北海道北東部のオホーツク海の海流/風向/風速/流氷の動きが明らかになった.中央気象台の流氷観測は,毎年2〜3月に実施されて8年間継続して行なわれた.気象観測のデータは北海道や東北地域の夏の天候予測に利用された.

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= 三重県水産講習所と日本航空輸送研究所 =  
 飛行機を利用した魚群の捜査は,三重県水産講習所と日本航空輸送研究所(井上長一)が提携して1923年10月25日から3週間にわたって実験を行なった.このときは航空局から3500円の奨励金が得ていた.
 飛行機(水上飛行機ちどり7号)を利用して1923(大正12)年11月16日から29日まで13日間の魚群探しが行なわれた.これは農商務省と日本航空輸送研究所の官民協力で実施された.その結果として,魚群の発見には非常に効果があることは確認できたが,せっかく発見した魚群の位置情報を漁船へ適確に連絡する手段がまだなく,この時は伝書鳩を試用していたが,あまり有効ではなく,今後はやはり無線電信や電話が必要になることを予想している.

静岡県と根岸錦蔵

 ついで福長飛行研究所出身の飛行士:根岸錦蔵と今井小まつが静岡県と協力して,魚群の捜査飛行を1927(昭和2)年10月より試験的に初めた.さらに八丈島を基点とする周辺の海上で魚群を捜査する飛行が1928(昭和3)年6月から本格的に実施されれた.この作業に使用した複葉機は,10式艦上偵察機を民間向けに改造した三菱式R1.2型飛行機だった.
 水産試験場の助手となった根岸錦蔵は飛行機で魚群を探し出し,魚群の位置を紙片に書き込み,専用の茶筒に入れて指定された海上にいる漁船に投下する方法をとった.このため,海図とコンパスを購入するための補助金を漁船1艘当たり10円ほどだが,県が負担した.
 ところで飛行機の方位表示は360度,漁船のコンパスは32方位だから,空から海への位置データの変換が面倒な作業だった.魚群を探す複葉機の基地となる飛行場は,三保飛行場を使用した.おもに駿河湾のトンボ鮪群の発見に有効だった.こうして漁獲量は増加したが,県水産試験場製造課が余分になった鮪などを缶詰にして出荷することになった.
 魚群の海上捜査飛行は,1929年(S4)5月になると八丈島を中心に2時間程度の作業となった.しかし静岡県では1930年(S5)6月より日本飛行学校,東京航空輸送社との魚群探見飛行に切り換えた.
 魚群探しに使用する飛行機は,海防義会から無償で貸与されたもので,「中島式三号イスパノ300馬力義勇」第8,9号の2機が利用された.その飛行機は三保の真崎を根拠地として,天候などに支障のない限り捜索飛行を行なった.飛行機には飛行士と無線電信士,魚見役の漁夫の3人が乗り込んだ.

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