日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

民間航空史

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初期の飛行機作りから始めた民間の飛行機サポーターを中心に
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◇石橋式スパッド13型競技飛行機 SPAD13 Racing-plane

 
石橋勝浪(千葉県海上郡三川村生まれ,幼名は勝太郎)は第一次大戦において,バロン滋野と同じ時期にヨーロッパの戦場に駆けつけてフランス軍に少尉として参加した.戦場は主に海軍とともに従事して水上機や飛行艇を扱う操縦士の業務を担当した.ジオン・ド・ヌール勲章をもらって1920年7月ごろに帰国した.
 日本ではフランス仕込みの飛行士として石橋勝浪は新聞に取り上げられて有名になったが,ロシア義勇艦隊(日露戦争前に有事に備えて高性能商船をストックしておく帝政ロシアの予備艦隊)に所属していた軍艦マギリヨフ号が1920(大正9)年3月ころ門司に入港していた時に,積荷のスパッド13型戦闘機3機をフランス大使館より3機まとめて2万4000円で購入した.ところが群馬県尾島飛行場にある中島飛行機製作所の格納庫において,飛行大会に出場する準備として機体を組立て整備をしていたのだが,1921年8月に格納庫に火災が発生し焼失してしまった.
 やむなく石橋飛行士は予備部品と図面によって,国産スパッド13型民間機を武田鶴三機関士,北郷涼練習生らの協力を得て自力で製作した.こうして自作した機体に装備した発動機はセール・フレザー商会から購入したイスパノ・スイザ180馬力で,原型の220馬力よりも低出力だったが,長距離飛行競技会に参加するために胴体の重心位置の下部に燃料タンクを増設した.このため胴体下部が膨れた太目のスパッド13型になった.石橋勝浪飛行士は高速機の操縦を得意としていたから,1921年11月に開催された金沢〜久留米間の第4回郵便飛行競技大会に参加したが,途中向かい風に会い燃料が不足したため福山に不時着して失格となった.さらに1923年11月に開催された東京〜大阪間の定期式郵便飛行競技大会では最高速を発揮したが反則があって優勝を逃した.
 なおスパッド13(SPAD XIII)は,フランスの単座戦闘機として第一次大戦では連合国の代表的な複葉機だった.およそ8500機が製作され,日本には100機ほど輸入された.

◇石橋式スパッド・エルブモン20競技飛行機 SPAD Herbemont20 Racing-plane

 
また石橋勝浪飛行士が陸軍の丙式二型複座戦闘機(スパッド・エルブモン20)とは別にフランスから1機を1922年に単座の長距離レーサー(イスパノスイザ水冷式V型8気筒300馬力)として購入した.フランスより船で関税の掛からない大連(当時は日本が支配していた)に運ばれてきた.石橋飛行士は大連でスパッド・エルブモンを水陸交替式として組立てた.この機体でまず試験飛行を行ったが,民間機として宣伝飛行をした後に,大連から平壌まで移送して,東京までの連絡飛行(平壌〜群山〜太刀洗〜八日市〜浜松・高師が原〜立川:2160kmを14時間4分で)に1923年6月1〜14日に成功した.
 このほかにも民間の飛行士として石橋勝浪は,東西定期航空会にも参加して民間機を運航した.
ほかに民間用のスパッド・エルブモンは,陸軍の丙式二型複座戦闘機1機が大阪毎日新聞社に払い下げられて,通信連絡機として使用されていた.

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 大日本帝国陸軍はソッピース3戦闘機に対する前段階の練習機として,英国から1919(大正8)年5月に1O機を輸入した.しかし陸軍では輸入した10機を短期間の使用で間もなく廃止し,フランス製のニューポール83E2初級練習機に切り換えてしまった.
 大日本帝国海軍では陸軍とは別に,1921(大正10)年に英国より来日したセンピル大佐らの海軍航空教官団が持参した機材の中から,初級練習機としてアブロ504K/Lを採用した.英国側の記録によると,日本へはK型陸上機を68機,L型水上機10機が輸出されている.
 こうして海軍では田中龍三造兵大佐,小山十満洲造兵大佐,馬越喜七大尉,和田操大尉,橋本賢輔技師ら28人の技術者をアブロ社に6か月間派遣して製作技術を学び,さらに製作権を購入し,中島飛行機と愛知時計電機に工作図面と実機を提供して,その製造を依頼した.
 中島飛行機では1922年から1924年にかけて水上機を含めて250機を製造し,愛知時計電機では水上機を30機の生産を担当した.陸上機をアブロL,水上機をアブロSと区別したこともあるが,海軍では単にアブロ式陸上練習機,アブロ式水上練習機としていた.
 アブロ504練習機は操縦性,安定性がともに良く,宙返りを含めたある程度の曲技飛行も可能で,当時の初級練習機としては使いやすい機材とされた.また回転星形ロータリー式エンジン(ル・ローンJ空冷式回転星型9気筒110馬力)を装備して寿命を永らえた最後の機体となった.昭和のはじめには,多数の504K練習機が民間に払い下げられ,陸軍が払い下げたニューポール式,アンリオ式と共に民間飛行学校の主力練習機となり,1937(昭和12)年ごろまで使用されたものがある.
 アブロ504練習機の日本における全機数は,中島飛行機製が250機(1922年〜1924年陸上,水上機共),ほかに愛知時計電機製が水上機を30機で,合計280機が国産,英国製の輸入機が78機となり,総計は358機に達する.
 なおアブロ504練習機の原型は第1次大戦の初期,ツェッペリン飛行船基地の奇襲や,ロンドン夜間空襲のツェッペリン飛行船に対する迎撃などで成果を挙げ,その後は英国の代表的な練習機として,各型合計で8340機が生産された.

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瓦斯電KR-1 第12義勇号水上機  瓦斯電KR-2 小型旅客機

 東京瓦斯電気工業株式会社が1932(昭和7)年に自社で開発した航空エンジン(空冷式星形7気筒「神風150馬力」)を装備した小型旅客機の開発を社内で進めて,試作したのが国産旅客機「瓦斯電KR-1」(乗員1+乗客3人)である.
 当時の三井物産機械部が英国から輸入したデ・ハビランドDH83フォックス・モス軽旅客機を基本として,神風150馬力を装備して国産化した複葉輸送機で,「小型旅客機」のローマ字略称を型番にしてKR-1となった.
 機体構造はデ・ハビランド社独特の主材の木製骨組構造を流用して,合板整形,羽布張り構造で,双フロートとの交替が可能な水陸両用とし,フロートは千葉市のデルタ造船所が製作を担当した.
 試作1号機は1年後に完成し立川飛行場で赤池万作操縦士により,1933(昭和8)年12月23日に初飛行した.続いて羽田で公開飛行を1934年1月27日に行ない,3月15日には羽田で水上機(乗員1+乗客2人)の披露飛行を行ない,このとき「千鳥号」という愛称が公表された.製作機数は1933年〜1934年に合計7機だった.1号機を含めて3機(J-BBJI,BBMI,BBNI)が双フロート付きの水上機となり,堺市の日本航空輸送研究所が使用して,大阪〜四国,大阪〜白浜の定期航空輸送,およびチャータとして運用されたエアタクシーに使用された.つぎの2機は海防義会の第12,13義勇号として製作され,日本航空輸送研究所に無償貸与された.そのほかに台湾国防義会,満州国営口海辺警察隊が使用した.
 続いてKR-2が開発されたが,これはKR-1を性能向上させたもので,同じ発動機と全備重量(964kg/水上機988kg)として,速度と航続力を向上させた改良型である.そのため主翼を全面的に再設計して,全幅は変わらないが下翼を2.4m短縮し,翼端部を放物線に整形して,主翼面積は22m2から17.8m2に縮小している.
 改良型となったKR-2の試作1号機は1934年11月17日に羽田で初飛行したが,速度は向上したものの離着陸滑走距離が長くなり,上昇性能もわずかに低下してしまった.なお生産が進むにつれて,細部の改修が行なわれ完成度が高くなった.しかし後半期には海軍の審査を受けて,舵面などにも改修を加えて,海軍の特用連絡輸送機として陸上基地と航空母艦との連絡に用いられた.製作機数は1934〜1939年に12機である.
 KR-2の1号機J-BLIBは,帝国飛行協会の第12号海外同胞号として1935年3月に東京航空輸送社に,協会第14号朝鮮同胞号が1936年5月に朝鮮航空事業社へそれぞれ貸与して,主としてエア・タクシー機として使用された.さらに東京航空輸送社に1機,営口海辺警察隊へ1機,読売新聞社に2機の採用が続いたが,その後は海軍の連絡輸送機として製作された.こうしてKR-1とKR-2の合計19機が千鳥号の愛称で呼ばれた.
ところで東京瓦斯電気工業株式会社(1913年設立)は第二次大戦前に存在した重機械工業分野の企業で,空冷星形エンジンの開発(日立航空機),東大・航空機研究所の航研機の組立を担当,自動車の製造(現在の日野自動車),武器(小銃)の製造をしていた.地味なため中島飛行機ほどには知られていないがガス電という略称で親しまれた会社だ.ガス電の発足はガス器具の製造から始まり,砂型鋳物の技術から発展してエンジンなどの鋳鋼製品に進出したエンジニアリング企業である.しかし1922年に負債3000万円で経営破綻し強制和議により,資本金を600万円から60万円に減資して企業としては存続するかたちで日立製作所に買収された.航空機,自動車,工作機械の3事業に分割して日立製作所が受け継ぎ,日立航空機,日立工作機(日立精機,日立ビアメカニクス),日立兵器の3社が設立された.

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鶴見に飛行場があったころ

 来日した外国の飛行家に刺激されて大空へ飛び立つ夢を抱く人々が,自分で飛行機を試作始めていた大正時代には,鶴見には飛行場が3か所もあった.まず1921(大正10)年12月に,飛行家であった玉井照高が自作した飛行機で,後輩を指導していた玉井飛行場が生麦にあった.1923(大正12)年4月に潮田町が誕生した時には「祝町制施行」のビラをまいた記録も残っている.しかし関東大震災後に玉井飛行場は閉鎖され,その跡地にキリンビールの工場が建設された.
 明治維新によってアジアで日本が工業立国を進めてゆくためのショールームとなった京浜工業地帯は,民間のデベロッパーが中心となって臨海工業用地を埋め立てによって企業に提供することによって始まった.まず神奈川県の鶴見川河口の潮田地先海岸(いわば京浜工業地帯の初期)の埋立てが浅野総一郎の手で行なわれていたが,埋め立てた土地が安定するまでの間,臨時の飛行場として浅野総一郎は,2年間無料で飛行学校に提供した.これが鶴見の飛行場(潮田飛行場)といわれた.

第一航空学校 1923(大正12)年5月開校

 宗里悦太郎(山口県出身:赤羽飛行機製作所で機体製作技師長を勤めたが,閉鎖後独立)が鶴見川河口の埋立地(神奈川県橘樹郡潮田町末広町:現在の横浜市鶴見区末広町)に民間の飛行士養成所として第一航空学校を1923年5月に開設した.この学校の敷地は,東西350間(636m)×南北300間(545m)で地元(安善町)では宗里飛行場と呼んでいた.飛行練習に使用した飛行機は5機ほどで,訓練生は10人程度が在籍していた.航空学校では飛行訓練のほかに一般の人にも料金15円で横浜上空を一周する遊覧飛行を実施していた. 
 第一航空学校の操縦教官には,亀井五郎(伊藤飛行場出身で3等飛行機操縦士→2等飛行機操縦士1924年2月)がいたが,川西機械製作所系の日本航空に操縦士として1924年5月に入社した.そのため,卒業生の木下豊吉(3等飛行機操縦士:1924年2月)が教官助手から教官に昇格した.第一航空学校の卒業生には,日本で2番目の女流飛行家となった木部シゲノ(福岡県出身/19歳で3等飛行機操縦士:海軍機で曲技高等飛行も行なった→2等飛行機操縦士/1927年2月),藤井ヤエ(20歳/3等飛行機操縦士1927年7月)などがいた.1926年2月に千葉県船橋海岸に移転して1939(昭和14)年まで続いた.
 このほか潮田飛行場には,赤羽飛行機時代の人間関係のつながりで,根岸錦蔵がニューポール式83形を,今井小まつ(西原小まつ)が中島式5型複葉機を預けた時期がある.

片岡飛行学校 1924年2月 第一航空学校に隣接して開校

1924(大正13)年2月に片岡文三郎(名古屋出身:28歳)が第一航空学校に隣接して潮田末広町(現在の日本鋼管正門から入舟橋にかけて)に片岡飛行学校を開設した.
 飛行士の養成だけではなく,宣伝ビラを飛行機より散布したり,飛行機より航空写真を撮影する空中測量を企画し,飛行機に垂直撮影機を装備して実験を試みていた.
 飛行学校を開設した片岡文三郎は,1923年6月に開催された第4回懸賞飛行競技会で連続周回飛行(下志津〜霞ヶ浦〜所沢間177kmの三角コース)で優勝し,賞金2500円と中島式5型練習機1機,さらに整備費,輸送費用,飛行機用燃料10時間分を賞品として授与された.開校時の使用機材は,アブロ式504K型練習機が3機ほどだった.埋立地の完成により工場の進出がはじまり,借地の期限が切れると片岡飛行場は1926年3月に閉校した.
 ところで横浜と川崎の中間にあった鶴見町と潮田町は1927(昭和2)年4月に横浜市に編入され,10月より区制が引かれ鶴見区となった.
 京浜工業地帯の発展に伴い,全国から大勢の労働者が鶴見にやってきて,潮田の本町通り商店街や,まち全体が大きく展開していった.
 鶴見地区における海岸の埋立事業は15年の期間を必要としたが,1928(昭和3)年に一応完成し,「浅野埋立」と呼ばれた. 埋立地は完成後, 浅野セメント, 日本鋼管, 浅野製鉄所,旭硝子,日清製粉などが進出し,京浜臨海工業地帯の中核となった. 

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義勇財団海防義会は朝日新聞社に対して,第4,第5義勇号を新たに貸与することを決定した.これは1927年4月に日本では金融の大恐慌が発生したために,川崎造船所は主要な取引銀行だった神戸の十五銀行が支払い停止に陥ったことから,事業を縮小しなければならない状況に追い込まれていた.その支援策として義勇号の製作は,1927年に川崎造船所飛行機工場が自社で開発したKDA2型を基本に,水陸交替可能の旅客機(BMW-6水冷式V型12気筒500馬力)に改造して製作することになったようだ.川崎造船のフォークト技師,東条寿技師が中心となって改造作業を進め,1928(昭和3)年10月に試作機が2機完成した.水陸交替機としての性能試験は良好で,12月に「第4義勇号」(J-BAKN),「第5義勇号」(J-BALH)と命名して,朝日新聞社に納入された.
 これら2機の義勇号は朝日新聞社が主催した日本一周都市訪問飛行に使用され,1929(昭和4)年に2機の雁行で行なわれたが,7月に東日本一周,10月に西日本一周を行なった.訪問飛行経路は,浜松,高田,弘前,旭川,札幌,函館,青森,仙台,金沢,名古屋,岡山,広島,熊本に着陸し,航空知識の普及を目的に講演会なども行なわれた.
 その後は,朝日新聞社の通信,写真撮影,輸送に使用された.さらに東京〜新潟間の定期郵便飛行や満州事変当時の満州派遣飛行などにも使用された.
 海防義会というのはいまの特殊法人のような存在で,皇族をトップにした帝国海軍のサポート団体で,いわば報国号を裏の予算で軍用機メーカーに発注することで,メーカーに開発費用を提供していた団体といえよう.海軍が表に出たくないときは,海防義会がその代行となったようだ.

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