民間航空史
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初期の飛行機作りから始めた民間の飛行機サポーターを中心に
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大日本帝国陸軍はソッピース3戦闘機に対する前段階の練習機として,英国から1919(大正8)年5月に1O機を輸入した.しかし陸軍では輸入した10機を短期間の使用で間もなく廃止し,フランス製のニューポール83E2初級練習機に切り換えてしまった.
大日本帝国海軍では陸軍とは別に,1921(大正10)年に英国より来日したセンピル大佐らの海軍航空教官団が持参した機材の中から,初級練習機としてアブロ504K/Lを採用した.英国側の記録によると,日本へはK型陸上機を68機,L型水上機10機が輸出されている. こうして海軍では田中龍三造兵大佐,小山十満洲造兵大佐,馬越喜七大尉,和田操大尉,橋本賢輔技師ら28人の技術者をアブロ社に6か月間派遣して製作技術を学び,さらに製作権を購入し,中島飛行機と愛知時計電機に工作図面と実機を提供して,その製造を依頼した. 中島飛行機では1922年から1924年にかけて水上機を含めて250機を製造し,愛知時計電機では水上機を30機の生産を担当した.陸上機をアブロL,水上機をアブロSと区別したこともあるが,海軍では単にアブロ式陸上練習機,アブロ式水上練習機としていた. アブロ504練習機は操縦性,安定性がともに良く,宙返りを含めたある程度の曲技飛行も可能で,当時の初級練習機としては使いやすい機材とされた.また回転星形ロータリー式エンジン(ル・ローンJ空冷式回転星型9気筒110馬力)を装備して寿命を永らえた最後の機体となった.昭和のはじめには,多数の504K練習機が民間に払い下げられ,陸軍が払い下げたニューポール式,アンリオ式と共に民間飛行学校の主力練習機となり,1937(昭和12)年ごろまで使用されたものがある. アブロ504練習機の日本における全機数は,中島飛行機製が250機(1922年〜1924年陸上,水上機共),ほかに愛知時計電機製が水上機を30機で,合計280機が国産,英国製の輸入機が78機となり,総計は358機に達する. なおアブロ504練習機の原型は第1次大戦の初期,ツェッペリン飛行船基地の奇襲や,ロンドン夜間空襲のツェッペリン飛行船に対する迎撃などで成果を挙げ,その後は英国の代表的な練習機として,各型合計で8340機が生産された. |
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義勇財団海防義会は朝日新聞社に対して,第4,第5義勇号を新たに貸与することを決定した.これは1927年4月に日本では金融の大恐慌が発生したために,川崎造船所は主要な取引銀行だった神戸の十五銀行が支払い停止に陥ったことから,事業を縮小しなければならない状況に追い込まれていた.その支援策として義勇号の製作は,1927年に川崎造船所飛行機工場が自社で開発したKDA2型を基本に,水陸交替可能の旅客機(BMW-6水冷式V型12気筒500馬力)に改造して製作することになったようだ.川崎造船のフォークト技師,東条寿技師が中心となって改造作業を進め,1928(昭和3)年10月に試作機が2機完成した.水陸交替機としての性能試験は良好で,12月に「第4義勇号」(J-BAKN),「第5義勇号」(J-BALH)と命名して,朝日新聞社に納入された.
これら2機の義勇号は朝日新聞社が主催した日本一周都市訪問飛行に使用され,1929(昭和4)年に2機の雁行で行なわれたが,7月に東日本一周,10月に西日本一周を行なった.訪問飛行経路は,浜松,高田,弘前,旭川,札幌,函館,青森,仙台,金沢,名古屋,岡山,広島,熊本に着陸し,航空知識の普及を目的に講演会なども行なわれた. その後は,朝日新聞社の通信,写真撮影,輸送に使用された.さらに東京〜新潟間の定期郵便飛行や満州事変当時の満州派遣飛行などにも使用された. 海防義会というのはいまの特殊法人のような存在で,皇族をトップにした帝国海軍のサポート団体で,いわば報国号を裏の予算で軍用機メーカーに発注することで,メーカーに開発費用を提供していた団体といえよう.海軍が表に出たくないときは,海防義会がその代行となったようだ. |




