日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

民間航空史

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初期の飛行機作りから始めた民間の飛行機サポーターを中心に
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川西機械製作所のK-6水上輸送機は,川西式K-5水上郵便機の試作失敗を受けて,1922(大正11)年春より実用的な水上輸送機として,関口英二技師が中心となって設計に着手して,ドイツのゲッチンゲン大学航空研究所報告書の資料を利用して試作が進められ,1923年11月に1機が完成(マイバッハM4a水冷式直列型6気筒260馬力:自重1150kg,搭載重量740kg)した.後部の客席は当初は開放式だったが,後で密覆式のカバーがかけられ最大4人の乗客を収容することができた.なお1924年6月の試験飛行で,5人が乗りさらに3時間分の燃料を積んで,高度5000mに上昇した記録を残している.
1924年6月に東京芝浦で完成披露式を開き,川西機械製作所と大阪毎日新聞社との共催による日本一周飛行計画が公表された.そのため川西式K-6水上輸送機は長距離飛行用に改造して,山階宮武彦王より「春風」と命名され,一般には「春風号日本一周機」として知られている.日本本土の一周飛行は,1924年7月23日〜7月31日に行なわれた.

新聞記者に同乗よる日本一周飛行レポート

 大阪木津川尻飛行場から後藤勇吉飛行士と米沢峰樹機関士,長岡記者が同乗して7月23日に出発し,第一コースの鹿児島へ向かって飛行した.途中で天候不良のために宮崎海岸に不時着したため,鹿児島に着水したのは午後7時30分だった.翌24日も天候が悪く出発を午後5時にしたが福岡には7時に着いた.25日は越智記者が同乗し,燃料を満載して離水しようとしたが,テコづり3度目にようやく飛び上がることが出来た.強風のなか700kmを5時間20分かかって河北潟に着水した.26日は雨のため飛行を中止して休養にあてた.27日は小泉記者が同乗して「春風号」は秋田へ飛んでいった.予定した八郎潟の着水場に着水できずに別の水面に降りて,水上滑走で船越に到着した.
 28日は平田記者が同乗して出発し,北に向かって飛び北海道の江差から室蘭へ,ここから南下して尻矢岬のコースをとって湊に到着した.29日は,顕考記者が同乗して霞が浦航空隊に着水して,ようやく格納庫に翼を休めた.30日は高森記者が同乗して霞が浦を出発したが,天候が最悪で江尻へ不時着して燃料を補給してから四日市付近に再び不時着して一泊することになった.31日は四日市を出発して紀伊半島海岸線に沿って木津川尻飛行場に午前11時40分に到着した.
 こうして日本一周飛行は,大阪〜鹿児島〜博多〜金沢〜秋田〜江差〜湊〜霞ヶ浦〜四日市〜大阪というコースで総飛行距離4395km,実飛行時間33時間48分,平均速度133km/h,所要時間8日1時間29分で完結した.
 
さらに川西K-6水上輸送機は,伊勢湾周回懸賞飛行競技が1924年12月2日に開かれたときに,阿部勉操縦士により3周840kmを6時間30分で飛行し,水上機による最高記録を残した.

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玉井式24号練習機:ル・ローン式空冷回転星形9気筒120馬力

第1次大戦後にフランスで大量に市場に放出されたル・ローン120馬力エンジン(空冷回転星型9気筒)を1920(大正9)年に横浜のセール・フレザー商会が輸入した.玉井式24号練習機は,このル・ローン120馬力を購入して装備し1920年12月に完成した.同じ発動機を装備した複葉機は, 伊藤式16型富士号,白戸式31,38,39,40型などが製作された.まだ低価格な陸海軍の払い下げ機が出回る前の国産練習機のブームであった.
 東京の洲崎で1921(大正10)年5月に開かれた第2回懸賞飛行競技大会には,玉井照高が玉井式24号練習機で出場し,速度競技で5等となった.なおこの競技会は,国家認定資格としての操縦士免許制度が施行される前の規制のない自由な形式として最後のものであった.
 玉井照高が1921(大正10)年12月に玉井飛行場を神奈川県橘樹郡生見尾村生麦(現在の横浜市鶴見区
生麦)に開設した.ここでは,伊藤式恵美号やニューポール練習機などとともに,玉井式24号練習機が練習飛行や遊覧飛行,宣伝ビラまき飛行(1923年4月2日に潮田町が誕生した翌日に「祝町制施行」と印刷した広報ビラを飛行機から散布)に使われたが,9月1日の関東大震災で飛行場が破壊されて使用不能となり,玉井飛行場は閉鎖された.跡地はキリンビール横浜工場となった.

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 小栗常太郎(愛知県知多郡半田町出身)は,米国のカーチス飛行学校を1917(大正6)年に卒業して,キーン飛行学校で教官になった.帰国するときにカーチスJN-4ジェニーの発動機,プロペラ,主要部品と図面などももって1918年に帰ってきた.赤羽飛行機製作所(通称:岸飛行場)に組立てを依頼した小栗カーチス式ジェニー練習機が1919年に完成した.さっそく東京洲崎の埋立地で12月26日に,宙返り飛行を含めた曲技飛行を実演して,ジェニーの飛行性能を確認した.
 こうして小栗常太郎は洲崎に小栗飛行学校を1920年に開設した.さらに東京〜静岡間の野外飛行や,各地で女性客の遊覧飛行を試みるなど,派手に飛行機の広報活動を行ない,小栗飛行士はヤンキー気質のパイロットとして有名になった.それだけに奇行も多く,米国の「黒猫曲技飛行団」にならって,黒猫のマークを胴体に書くなど,印象に残る演出を見せていた.また芸者を乗せて飛行中に墜落したこともあるが,これは旋回飛行中に芸者が怖くなって複式操縦装置の操縦桿にしがみつき,操舵できなくなったのが原因だった.

◇小栗式2号練習機は小型カーチス

 東京〜大阪間を無着陸で往復周回する飛行競技大会が1920(大正9)年4月に実施されるので,その大会に参加するために小栗飛行士が設計し,セール・フレザー商会から購入したイスパノスイザ180馬力エンジン(水冷式V型8気筒)を装備した小栗カーチス式2号練習機の完成が遅れたため棄権した.この練習機はその後で主翼を小さく改修して普通の複座練習機になった.細部の構造はもとのカーチスJN-4ジェニーと同様だが,ひとまわり小型で機首前面の冷却機は,大型のスタンダード式に改められて不格好になった.
 1921(大正10)年に日蓮大聖人の御聖誕700年を祝って行事が企画され,日蓮正宗法華講の一つである「立正統一講」が,飛行機を利用した宣伝飛行を行なった.東京の洲崎の埋立地で布教講演会が2月16日に開催されたが,複葉機と小栗操縦士をチャータして宣伝ビラ「数十万枚」を東京上空より播いたのである.
 なお11月3日に開催された金沢〜広島間の第4回懸賞郵便飛行競技大会に小栗操縦士が参加したが,430kmを4時間35分で飛んだが,強風と発動機が不調になったために岡山練兵場に不時着した.

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安藤飛行機研究所の新舞子飛行場

安藤孝三は飛行機が大好きな子供だったが,20歳になり徴兵検査を受け甲種に合格し,所沢陸軍飛行第一大隊に入隊し整備兵となったが,飛行機の操縦訓練を受けることはできなかった.1920年12月に陸軍を除隊して帰郷して,翌年1921年10月に愛知県知多半島の古見海岸に水上飛行場を開設し,安藤飛行機研究所を設立した.
安藤孝三は飛行機の操縦を飯沼金太郎(帝国飛行協会出身の飛行士)から古見海岸で担保物件(米国帰りの飛行士小栗常太郎が飛行学校設立のために安藤の兄から借金した)となっていたファルマン式水上機(ル・ローン70馬力を装備)を使って習得した.1923年5月に,新舞子に移転し6機ほどの水上機を収容可能な格納庫を建築し,新舞子飛行場として安藤飛行機研究所を拡張し飛行機と人員を増やした.
 さらに飛行学校を開校するために1924年9月下旬には,航空局の第2期操縦練習生出身の大場辰男が教官としてやってきた.飛行士を育成しても民間ではまだ仕事が確保できないために,航空局から飛行学校の教官には補助金が出ていた.このほかに安藤飛行機研究所には,航空局海軍委託練習生の課程を終えた水上機操縦士たちが入所し,定期航空輸送について実務経験を積む養成所ともなっていた(一定期間在籍した操縦士は再び日本航空輸送などに移籍した).
 こうして安藤飛行機研究所は1926年9月にようやく名古屋港〜和歌山県新宮間に週1便の定期航空路を開設した.さらに1928(昭和3)年6月15日に新舞子〜二見〜蒲郡間にも定期航空路を開設した.これで名古屋〜二見浦〜蒲郡を結び伊勢湾,三河湾を結ぶ三角形の定期航空路を運航していた.
 使用した機材は海軍から払い下げられた,ハンザ・ブランデンブルグ水上偵察機を改造して防風用キャップを追加した小型キャビンを持つハンザ式水上旅客機としている.三菱10年式艦上雷撃機を改造した水上機などであった.
 なお安藤孝三は,1927(昭和12)年に代議士に当選して初登院には,名古屋港から羽田沖まで水上機で出掛けていった飛行・代議士であったという.
女性水上飛行機操縦士の第1号である西崎キク(松本きく子)は練習生として安藤飛行機研究所で学び,1933年8月の卒業試験に合格し水上飛行機操縦士免許を得ている.
 太平洋戦争中には,安藤飛行機研究所は陸軍からの要望により,97式軽爆撃機を水上機へ改装する計画に着手したが,途中で打ちきられた.
 
 第二次大戦後に安藤飛行機研究所は安藤内燃機研究所に改名して,漁船に航空機用エンジンを装備する作業を始めて,航空輸送から撤退した.海岸の格納庫は製塩会社に貸したり,倉庫や海の家としても利用されていたが,1953年9月に台風13号によって倒壊してしまった.

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 日本航空輸送研究会(坂東舜一,後藤勇吉らのメンバで構成)は,東京〜横浜間に航空路(遊覧飛行も含めた)を開設しようと企画して1922(大正11)年6月にセール・フレーザー商会が米国から輸入した単発推進式のカーチスMFシーガル飛行艇(カーチスC6水冷式直列6気筒160馬力)を購入した.ところが津田沼で試験飛行していると7月10日に着水に失敗して大破してしまった.飛行艇の残骸は伊藤式28/31飛行艇の参考資料として,新しく試作したのが伊藤式28型飛行艇だが,完成することはなかった.また一方で井上長一が同じ時期に大阪府堺市大浜に日本航空輸送研究所を創設して,定期航空路を堺〜高松,堺〜徳島間に開設して,海軍の払い下げ水上機を使って運航していたが,旅客用飛行艇の使用を計画し,伊藤飛行機にその飛行艇の製作を依頼した.
 伊藤飛行機では稲垣技師が中心となって,さきの伊藤式28型飛行艇を改めて31型の名称で試作を始め,1922(大正11)年夏に完成した.この飛行艇(イスパノスイザ水冷式V型8気筒220馬力)を津田沼で試験飛行をした後,陸送で堺大浜の日本航空輸送研究所に納品した.日本航空輸送研究所では定期航空輸送機として1924年ごろまで使用し,後に水上滑走遊覧艇に改造した.この飛行艇には最終的に伊藤式31型3号飛行艇の名がつけられた.

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