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			<title>日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン</title>
			<description>日本の空を飛んだ飛行士を中心に1945年までとりあげられるかなあ．
=== 民間で飛行機に関わった人たちは,お国やビジネスとは離れた趣味人だったために,　===
=== 公式とされる記録からは無視されがちだから ===
=== 伊藤音次郎さんを知っていますか？ ===
==== 奈良原飛行団から伊藤飛行機研究所,伊藤飛行機製作所と第二次大戦前まで民間で.... ====
戦後は,三里塚で恵美開拓農家として入植し,成田空港には用地を供出している．</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン</title>
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			<description>日本の空を飛んだ飛行士を中心に1945年までとりあげられるかなあ．
=== 民間で飛行機に関わった人たちは,お国やビジネスとは離れた趣味人だったために,　===
=== 公式とされる記録からは無視されがちだから ===
=== 伊藤音次郎さんを知っていますか？ ===
==== 奈良原飛行団から伊藤飛行機研究所,伊藤飛行機製作所と第二次大戦前まで民間で.... ====
戦後は,三里塚で恵美開拓農家として入植し,成田空港には用地を供出している．</description>
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		<item>
			<title>英国東インド会社の秘密兵器だった鉄製の蒸気砲艦「ネメシス」号がアヘン戦争に投入された</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/1133096/76/25523376/img_0?1487993224&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_323_251&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　19世紀に中国(当時は清)と英国が東アジアでアヘン戦争(1839～1842)を引き起こした．この戦争には英国側が中国軍に対して新しい軍艦としてネメシス(Nemesis)という鉄製の船体で建造された蒸気砲艦を投入して,その軍事的な効果が注目された．鉄製蒸気砲艦ネメシスは,英国海軍ではなく東インド会社がアジアの河川地帯で効果的な戦闘を行うための河川砲艦として計画した最初の鉄製砲艦だったのである．当時の英国海軍はすでに大西洋とインド洋を支配しており,一部に蒸気機関を搭載した軍艦を装備してはいたが,まだ大部分は帆船で,提督達は自然にしたがって航海するのを好んでいた.蒸気機関でプロペラを駆動する小型の鉄製軍艦はようやくヨーロッパ海域での使用が始まった時期であった．そのため東インド会社はリバプールにあるバーケンヘッド鉄工所に秘密のうちに新型軍艦を植民地を拡張する目的に発注していた．これらの鉄製砲艦は,当時の軍艦に比べると小さく,長さ184フィート(55m)×幅29フィート,高さは11フィートで喫水は5フィートの船体になっていた．特徴は船体に木材を使わずにすべて鉄を使用して120馬力の蒸気機関を装備しており,季節風下でも自力で河川を航行できるものとなっていた．&lt;br /&gt;
　英国の東インド会社はアジアの植民地(インドと中国)経営を拡張するために河川用砲艦を活用して相当のインドやビルマで実績を上げていた．&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;　産業革命を果たしていた英国のリバプールにあるバーケンヘッドのレアード鉄工所(Birkenhead Iron Works:ウィリアム・レアードが設立)において1839年に完成したネメシス号(排水量660トン,120馬力,武器は32ポンド旋回砲2門を搭載し,船内は水密隔壁によって6つに区分されていた)を大西洋から喜望峰をまわってインド洋を経由して8か月の航海を終えてアヘン戦争下の中国沿岸にやってきていた.そしてこの砲艦が喜望峰経由で東アジアまで航海してきた最初の鉄製蒸気砲艦でもあった.
　こうして1840年11月25日にはマカオに派遣されていた東インド会社の鉄製蒸気砲艦ネメシス号は,アヘン戦争において虎門内に英国の兵力を送り込むために軍艦としてその威力と性能を十分に発揮した．さらに1841年2月には,鉄製の船体を持つ蒸気砲艦「ネメシス」号は,第1次アヘン戦争中の広東に向かう途中で,旋回砲座に装備した32ポンド砲2門で,中国の軍用ジャンク9隻,要塞5か所,陸軍駐屯地2か所,岸壁の砲台１基を1日で破壊してしまった.こうして英国軍による香港占領(1月26日)とネメシス号による珠江遡航(1月27日)が行なわれた．
　東インド会社が派遣したベンガル海軍の鉄製蒸気砲艦ネメシス号,クイーン号,フレゲソン号,セソストリス号が,虎門以北広東までの複雑に入り組んだ水深の浅い内陸水路に侵入して,中国側の火筏や武装ジャンクを駆逐し,後続の帆走艦隊の遡航をサポートした．こうして河川用の喫水の浅い小型蒸気砲艦に対する軍艦としての評価も高くなっていた．
　英国軍は,1841年8月21日にポティンジャーの大規模な攻撃開始より,アモイを8月26日に陥落し,定海攻撃を9月25日に行い,10月1日に陥落させた．さらに1842年になると英国軍は6月13日に揚子江への侵入をはじめて,6月16日には地呉松砲台を陥落させて,8月29日には旗艦コーンウォリス号の艦上で南京条約(ヨーロッパとアジアの国で結ばれた不平等条約)を調印してしまった．
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/25523376.html</link>
			<pubDate>Mon, 13 Feb 2006 00:52:57 +0900</pubDate>
			<category>その他乗り物</category>
		</item>
		<item>
			<title>インド・ムンバイの造船所は17世紀にポルトガルによって開設された</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h3&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;ガンジス川の蒸気機関で動くタグボートがインド初の蒸気船&lt;/h3&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　19世紀にはインドが英国の植民地として東アジアと英国とを帆船が結ぶ中継地ともなっていた.とうぜん英国から航海してきた船をメインテナンスするための造船所がボンベイに設けられていた．さらにインドの海運をサポートするおよそ3万人の船員がベンガル湾に働いていた．インド海運に使用される機材は5トンから6トンの木造ハシケ(長さは7.5m～27m)で0.5m～1.5mの喫水を確保していた．&lt;br /&gt;
　インドで初の蒸気機関を装備した曳船「ダイアナ」(Diana)号は,1823年7月にコルカタ(カルカッタ)の埠頭で運用がはじまった．この蒸気船は非常に有効なことがわかり,すぐに蒸気駆動の外輪船,フォーブス(Forbes),テリカ(Telica),コメット(Comet),フィア・フライ(Firefly)が製作されコルカタ港で曳舟として活用された．&lt;br /&gt;
　蒸気船「ダイアナ」号は,広東川を運行する河蒸気船として銅製のボイラーと16馬力の蒸気機関を2基装備した木造船として発注され,コルカタのキダーポール・ドックで建造された．最初に予定したオーク材のフレーム枠をよりしっかりしたチーク材に変更したために,6万500ルピーの建造費用にさらに1万ルピーを追加しなければならなかった．しかし1924年に植民地を拡張しようとする英国とビルマの間にビルマ戦争が始まったために運良くインド政府が8万ルピーで蒸気船を購入した．&lt;br /&gt;
　軍艦となった「ダイアナ」号は南西モンスーンでは使えなかったが,ビルマ軍からは「ファイヤー・デビル」(fire devil:火を吹く悪魔)として恐れられ,戦争の主役となった．ダイアナ号は蒸気船プラトー号,エンタープライズ号とともに参戦し,ヤンゴン(ラングーン)からイラワジ川に沿ってビルマの首都アヴァの近くまで英国の帆走軍艦を曳舟として送り込む役目を果たした．こうして第一次ビルマ戦争は英国の東インド会社がアッサムを確保して,アラカンとテナーセリムをビルマより獲得して,1826年にヤンダブ条約が結ばれた．&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;　最初にガンジス川を利用してアラハバード(インド北部のUttar Paradesh州の都市)とコルカタ間に蒸気船による航路が開設されたのは1828年になった．蒸気船が就航したのは9月8日のコルカタを出航して川を遡り24日間の航行が行われた．帰りはベナレス(インド北部のウッタル・プラデシュ州南部の都市)に寄り修理と補給に2日間を費やしても14日間の航行で戻ってきた．
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/24351976.html</link>
			<pubDate>Wed, 01 Feb 2006 00:38:38 +0900</pubDate>
			<category>その他乗り物</category>
		</item>
		<item>
			<title>蒸気船が英国からインドまで喜望峰経由で遠距離航海に挑戦したのは1825年だった</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/1133096/75/18485175/img_0?1487993546&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_247_175&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;蒸気機関が船を動かす動力源に適したエンジンと評価されて蒸気船が実用化されると,次は河川から大洋を汽船で航海する方向に目が向いた．1819年に米国から英国へ大西洋を横断したサバンナ号(Savanna)は,補助エンジンとして蒸気機関を装備した帆船で,いわばハイブリッド汽船だった．&lt;br /&gt;
サバンナ号は27日間で大西洋を航海して横断したが,蒸気機関を使用して航海したのは,そのうち4日間足らずであった．&lt;br /&gt;
　さらに1825年に英国からインドまで喜望峰を周る航海によって到達した最初の汽船は,英国の「エンタープライズ」号だった．この蒸気船の航海はファルマスからカルカッタまでの113日間の航海において,蒸気機関を使用したのは63日だった．まだ当時の蒸気機関は,燃料となる石炭をがぶ飲みする欠点があったが,産炭地で石炭が安価に入手できる英国内や樹木が豊富なミシシッピ河沿岸であれば,たいした問題にはならなかったが,大洋を蒸気機関で航海しようとする蒸気船には,大量の石炭を積み込んで出航するか,途中で大型の帆船から石炭を補給する必要があった．&lt;br /&gt;
　こうして初期の蒸気船は,まず英国と米国間の長距離輸送手段として大西洋航路から使用がはじまった．大西洋を横断する蒸気船の航路は交通が頻繁で,大西洋を安定して速く航海できるため,航海費用が高価でも利用者はある程度は存在していた．さらに英国とインド間の航路にも蒸気船を投入して航海日程を短縮しようと検討がはじまった．&lt;br /&gt;
　ヨーロッパからインドまでの航路には当時は3つのルートが存在した．まず,エジプトを陸路で横断し,紅海を南下してアラビア海を経由するルートがあった．第2のルートは,シリアを横断してメソポタミアに到達し,ユーフラテス河とペルシア湾を南下してアラビア海に出るルートである．第3は,大西洋を南下してアフリカ大陸を回ってくる喜望峰ルートである．これらのルートを選択するのは,航海技術と中東地域の政治情勢が関係していた．&lt;br /&gt;
　アフリカ周りの喜望峰ルートは,東インド会社が19世紀初めによく使用した．英国はナポレオンとの戦争でオランダとフランスの海上戦力を一掃していたから,このルートは距離が長いが安全な航路となっていた.東インド会社の帆船が英国とインドを喜望峰ルートで往復すると,当時はおよそ2年の歳月を必要とした．&lt;br /&gt;
　英国人は中東を陸路で通過する2つのルートを「陸上ルート」(Overland)と呼んでいたが,メソポタミアを経由するルートは,ヨーロッパとシリア間,ペルシア湾の奥からインドまでの航海は比較的簡単なものだった．しかしこれらの2つの区間の中央に,外国人を嫌悪するアラブ部族や,アジア的なトルコ人官僚がいるオスマントルコ帝国を通過する必要があった．紅海ルートには,政治的な問題は少なかったが,帆船が紅海を航海することはほとんど不可能とされていた．紅海は風向が変わりやすく,長期の凪,突然の暴風雨などの自然環境が障害となった．また地形的にも紅海には,隠れた岩礁や珊瑚礁が点在し,海岸線は鋸の歯のように入り組んでおり,沿岸の住民が遭難船から略奪する機会を待ち構えていた．&lt;/div&gt;

&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;　英国の海軍将校ジェームズ・ヘンリー・ジョンストン(James Henry Johnston)は,長距離の大洋横断航路への汽船を就航させようとする動向が高くなってきたので,1822年にカルカッタとスエズ間に汽船を運航しようと計画した．彼はカルカッタに在住している英国人に呼びかけて「英国・印度間汽船運航推進協会」(Society for the Encouragement of Steam Navigation between Great Britain &amp; India)を設立し,「汽船委員会」(Steam Committee)が6万9903ルピーの「汽船基金」(Steam Fund)を設立した．インド総督アマーストが2万ルピー,アワドの太守が2000ルピーを寄付し,残りをカルカッタの業者が拠出した．これらの寄付金を,ベンガルと英国との間(大西洋を南下する喜望峰ルート)を1回当たり平均70日間で,4回連続して航海した汽船の持ち主に8万ルピーを賞金として与える懸賞とした．
　ジョンストンは英国に戻り,外洋を航海する英国最初の汽船の建造に取り組んだ．この船には「エンタープライズ」号(Enterprise)と名づけて,長さ141フィート,搭載重量464トンで,60馬力の蒸気機関を2基装備したものとなった．計画では,途中でケープタウンに寄港して燃料を補給すれば60日以内でカルカッタに到着可能と考えていた．
　エンタープライズは1825年8月16日に英国のファルマスを出航したが,速度が遅く燃料消費も予想外に多かったために,ケープ・タウンに寄港したのは10月13日になってしまった．さらにインド洋で暴風雨に遭遇したためカルカッタに到着したのは12月7日で,航海には113日もかかってしまった．しかしベンガル管区政庁は,「スティーム」ジョンストンに賞金の半額を与え，エンタープライズ号をビルマ戦争で武器輸送に使用するために購入した．その後ボンベイ海兵隊(1830年以降はインド海軍)がエンタープライズを取得したが破損したため，インド海軍のマルコム兄弟はボンベイで新しく「ヒュー・リンゼイ」(東インド会社取締役会長の名前)号を建造した． &lt;/pre&gt;

&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　ヒュー・リンゼイ号は木造チーク材で,長さ140フィート，幅25フィート，80馬力の蒸気機関を2基装備した蒸気船だった．こうして1830年3月20日にヒュー・リンゼイ号は石炭を満載してボンベイを出航したが，アデンで石炭を使いきってしまった．燃料補給のために12日を費やしたが，スエズに到達した．アフリカ周りの帆船で燃料が供給されたが，石炭はトン当たり13ポンドとなり，ボンベイ～スエズ間の往復運賃は1700ポンドとなった．しかし，ボンベイから運んだ郵便は59日でロンドンに到着した．&lt;br /&gt;
　紅海ルートを航行したヒュー・リンゼイ号はボンベイ～スエズ間を21日間で運航した．スエズからは陸路をらくだの背で運んでカイロに届けて，平底舟でナイル河を下り，アレクサンドリアに到着し，マルタ島行きの商船が郵便物を運んだ．マルタ島より先は，英国海軍本部が汽船による定期航路を開設していた．&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/18485175.html</link>
			<pubDate>Sun, 04 Dec 2005 21:33:56 +0900</pubDate>
			<category>その他乗り物</category>
		</item>
		<item>
			<title>英国の産業革命とともに鉄製の蒸気貨物船が製作されたのは1822年</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/1133096/28/18061628/img_0?1487993575&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_799_518&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;最初に鉄製の船体を持った蒸気船は,1822年に英国のスタフォードシャーのチップトンにあるホースレイ鉄工所(Horseley Ironworks)で製作した部品をテムズ川のロザミアにあるサーレイ造船所(Surrey docks)で組み立てた．この鉄船の平底は,厚さ6.35mmの鉄板をリベットで接合した蒸気貨物船「アーロン・マンビー(Aaron Manby)」(長さ36.6m×幅7m,積載量116トン,マスト兼用煙突の高さ14.3m)で,30馬力の蒸気機関を装備してヘンリー・ベル(Henry Bell)が設計した直径12フィート×幅1.5フィートの外輪(セーヌ川では最大梁の長さが23フィートに規制されていた)を駆動していた.&lt;/div&gt;

&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;  甲板には木甲板を採用し,機関室と船倉は鉄の隔壁を使用した．5月の試運転では9ノットで航行したが,6月からロンドン～パリ間をアマニ油と鉄材を積んで定期運航した．その後フランスの観光業者が購入してセーヌ川の遊覧船として5年間運航していた．その後はロアール川で遊覧船として1855年まで使用された．鉄製の蒸気船は,当時の木造蒸気船よりも1フィート喫水が浅くなる利点があった．
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/18061628.html</link>
			<pubDate>Wed, 30 Nov 2005 23:48:16 +0900</pubDate>
			<category>その他乗り物</category>
		</item>
		<item>
			<title>北大西洋から北極海を東に航海する北東航路を実証して日本に来たのは1879年9月だった</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/1133096/84/17645984/img_0?1487993613&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_539_301&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/1133096/84/17645984/img_1?1487993613&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_215_222&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;世界史の大航海時代に残された最後の北東航路(Northeast Passage:北大西洋から北極海をアジアの北岸に沿って東に航海してベーリング海峡を通って太平洋に出る)というのは, 北極海をユーラシア大陸のシベリア北方からベーリング海峡を抜けて北太平洋へ至るルートのことだった.この航路は年間の大半が氷に閉ざされているため, 蒸気船が登場するまで帆船による航行は不可能なルートだったが, 実際に北極海の北東航路を蒸気船で横断したのは,1878年になってからである.最後の冒険航海となった北東航路は, 1879年に1年を掛けてスウェーデンのノルデンショルド(Nordenskiold)が蒸気船ヴェガにより航行に成功した.&lt;br /&gt;
 さらに途中で越冬することなく航海できるようになったのは, 砕氷船が登場した1932年以降のことになる.&lt;br /&gt;
　1879年9月2日に,スウェーデン国旗を掲げた蒸気船ヴェガ(Vega:60馬力の蒸気機関を装備,長さ43.3m×幅7.9m,排水量357トン)号が横浜港に入港した．この蒸気船の日本到着は,初めて北極海の北東航路を航海して北太平洋に貫けたものだったから世界から注目を集めた．&lt;br /&gt;
　アドルフ・エリック・ノルデンショルド(Adolf Erik Nordenskiold)が率いた30人の北極海探険航海隊は,北ヨーロッパから北太平洋の日本まで北東航路を通る初めての航海に成功した.これで北大西洋から北極海を経由して太平洋に貫ける北東航路を実証したノルデンショルドの航海は,科学探険の歴史では伝説となった．&lt;br /&gt;
　北ヨーロッパから東アジアへの最短航路と考えられていた北極海の北東航路を通って太平洋まで航海可能という予言が,何世紀にもわたってヨーロッパで信じられていた．部分的にはすでに多くの冒険者達が北極海の北東航路の周辺を航海していた.&lt;br /&gt;
　ノルデンショルドは北東航路を実際に航海して日本に到達したことによって,アジアへの冒険航海として北ヨーロッパを出発し,北東航路を西端から東端まで実際に蒸気船で航海することが可能なことを初めて証明した.探検計画はスウェーデン王オスカル２世(OscarII)によって承認され,探検航海の費用は,大部分をイエテボリ(Goteborg)の木材商人オスカル・ディクソン(Oscar Dickson)が負担し,一部は国王自身,またロシア商人アレクサンドル・シビリャコフ(Alexander Shibiryakov)も負担した.&lt;br /&gt;
　こうして捕鯨船だった蒸気船「ヴェガ号」を北東航路を探検航海するための旗艦として装備した.船長はルイス・パランデル(Louis Palander)で,乗組員は30人だったが,ロシア語通訳として探検隊に参加した20歳のフィンランド人,オスカル・ノルドクイスト(Oscar Nordquist)中尉もいた.&lt;br /&gt;
　ノルデンショルドは,これまでの北東航路への探検航海は,海岸線からはるかに離れた航路をとったために横断に失敗したと考えていた.当時は,夏はシベリアの川から流れ出る水によって北極海は凍結することはなく,海岸近くの水域であれば航行可能であると信じられていた.北東航路への実証航海は1878年7月4日に,スウェーデンのイエテボリを出発し,計画に沿って順調に航海していたが,9月28日にベーリング海峡から航海距離にしてわずか2日の120海里のピトレカイ沖で船は流氷に囲まれてしまった.もし探検隊がその場にほんのわずかに2～3時間早く到着していれば,または沿岸からさらに離れた場所を航行していれば,その夏中に北東航路の航海を完了できていたかもしれない位置だった.&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;　 一隻の米国の北極探検船がサンフランシスコを1879年7月8日に出港した.この船は米国の海軍軍人で探検家だったジョージ・ワシントン・デ・ロング少佐(George Washington De Long:1844～1881)の率いる北極探検船「ジャネット(Jeannette)」号(420トン)だった. 船にはデ・ロング隊長以下32人が乗り組んでいた. 
　これまでのほとんどの北極海を探検する船は, 大西洋側から北極海へと入っていたが, 太平洋からベーリング海峡を経て北極海に入ろうとしたデ・ロングの探検計画は, この点で目新しいものだった. 
　ゲデンシュトロムはノヴァヤ・シビリ島東方海上を調査中,1809年に途方もなく広い開氷面に行き当たり,この海域は冬でも凍らないと考えた. こうして, シベリア北方海域には広大な開氷面「シベリア開放海」がある, という説が信じられるようになった.さらにフランスの水路学者ラムペールは, 太平洋から暖流がベーリング海峡を通って北極海の奥深くへ流れているから, 北極海の中心部には氷がなく, 広い開放海になっている, とする説を1867年に発表した.この説を信じれば, ベーリング海峡から海流に乗って北極へ到達することができることになる. またドイツの地理・地図学者アウグスト・ハインリヒ・ペーターマン(August Heinrich Peterman:1822～78)もこの「北極大開放海」説に賛同していた.そしてデ・ロングはこの説に従って北極点へ到達しようと考えていたのである. 
　ところでデ・ロングの探検隊は,はじめスウェーデンの探検家であるＮ.Ａ.Ｅ.ノルデンシェルド(Nils Adolf Erik Nordenskiold:1832～1901)の「ヴェガ(Vega)号」の救出を目的としていた. ヴェガ号は1878年7月18日に北東航路(大西洋からユーラシア大陸の北方を経て太平洋へと至る航路)探検のためにノルウェーのイエテボリを出発しベーリング海峡へ向かったまま, 消息不明となっていた.
 これを知った「ニューヨーク・ヘラルド』(New York Herald)新聞社の社長だったジェイムズ・ゴードン・ベネット(James Gordon Benett: 1841～1918)は,新聞社として捜索隊を派遣することを試み,デ・ロングはこの企画に乗って北極海の探検航海に出発したのである.
 かつて「ヘラルド」紙は1869年, ナイル川の探検中に行方不明になった探検家デイヴィッド・リヴィングストン(1813～73)を捜索するために, ヘンリ・モートン・スタンリー記者(1841～1904)をアフリカに派遣し, 1871年にリヴィングストンを無事発見し報道した実績があった．&lt;/pre&gt;

&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　しかし実際にはヴェガ号は, ベーリング海峡までわずか約220kmの地点で氷に閉ざされ1878年9月28日に動けなくなっていた. だが同船は1879年7月18日に,氷から解放され20日にベーリング海峡を通過していた. そのため, デ・ロングがジャネット号で北極海に入ったころ(8月29日)に, ヴェガ号は北東航路を通過して無事に北太平洋を横浜へ向かって航行していたのである. これを聞いてデ・ロングは, ジャネット号の進路を北極へと向けた. &lt;br /&gt;
　ようやく氷海に閉じ込められていたヴェガ号まで氷の割れ目が達し,越冬を終えて1879年7月18日に航海を再開して北東航路を実証するために続行することができた.ノルデンショルドの航海前の入念な準備によって,探検隊は幸運にも壊血病やその他の不幸な事態に遭遇することはなかった．ただしベーリング海峡に到達する直前に流氷に阻止されたのが,唯一の予想外の事態だった.またルイス・パランデル船長の航海術がなければ,航海は成功しなかっただろう.ノルデンショルド自身は北極圏の探検家ではなく,当時の評判では「ノルデンショルドほど氷を恐れた学者はいない」といわれ,北極圏の船旅では,いつも船酔いをしていたという.&lt;br /&gt;
　無事に北東航路の実証航海を終えたヴェガ号は横浜を10月11日に出港し神戸に向かい,神戸には13日に到着し,そこから一行は京都と琵琶湖を訪れた.探検隊は10月21日に長崎に到着し,出島を訪れた.ヴェガ号は,長崎を10月27日に出港し,太平洋を西に航海して途中,香港,シンガポール,スリランカ,スエズ運河を通る南ルートを航行し,ナポリ,ローマ,リスボン,ロンドン,コペンハーゲンに停泊し,ストックホルムには1880年4月24日に到着した. &lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/17645984.html</link>
			<pubDate>Sun, 27 Nov 2005 02:14:43 +0900</pubDate>
			<category>その他乗り物</category>
		</item>
		<item>
			<title>◇蒸気船による大西洋の横断速度競争は,1838年に行なわれた</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/1133096/31/16392231/img_0?1487993636&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_481_260&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/1133096/31/16392231/img_1?1487993636&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_381_203&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　蒸気船シリウス号(Sirius:703トン長さ54.3m×幅7.6m/250馬力)はアイルランドのコークを4月4日に出航し,ニューヨークに到着したのは4月23日の午前中だった．このシリウス号は,ブリティシュ＆アメリカン蒸気航海会社(British and American Steam Navigation Company)が,自社船のブリティシュ・クイーン(British Queen:1850トン)号が造船所の経済問題により完成が遅れたために,蒸気船による大西洋の初横断記録を手に入れるために2航海だけの傭船契約したものである．&lt;br /&gt;
　しかし大西洋を横断する航海中に蒸気を発生する燃料として石炭を航海中に使い切ってしまったために,客室の家具やマストを1本燃料代わりの木材として燃やしてようやく,大西洋横断航海(3000マイル)を18日間と14時間22分で完了した．この航海による平均速度は6.7ノット(15km/h)だった．&lt;br /&gt;
　そしてシリウス号はニューヨーク港を5月1日に出航しファルマスには5月18日に到着した．この航海の平均速度は6.9ノットだった．その後で大西洋の往復航海は7月に行ない,もとの海峡横断サービスに戻った．&lt;br /&gt;
　ライバルの蒸気船グレート・ウエスタン号(Great Western:1350トン長さ64.6m×幅10.8m/450馬力)は,英国のグレート・ウエスタン鉄道がブリストルからニューヨークまで営業路線を延長するために,ブルネルに大西洋を横断可能な蒸気船の設計を依頼したことから大西洋航路の競争が始まった．こうしてイザンバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel:技術者)が設計し,モーズレー・サンズ(Maudslay , Sons&amp;Field)社がグレート・ウエスタン号を製作した．この蒸気船はジョシュア・フィール(Joshua Field)が考案した外輪(直径8.76m)を回転させて進む方式をとっていた．&lt;br /&gt;
　グレート・ウエスタン蒸気船会社(Great Western Steam Ship Company)のグレート・ウエスタン号はブリストルを4月8日に出航して15日後の4月23日午後にニューヨークに到着した．先に出発したシリウス号のわずか4時間後だったという．つまりグレート・ウエスタン号は大西洋横断の航海日数をシリウス号より3日間短縮し,さらに200トンの石炭を残していた.平均速度は8.6ノット(16km/h)だった．&lt;br /&gt;
　結果としてこれが大西洋横断航路の速度を競うブルー・リボン賞のきっかけとなるものだった．グレート・ウエスタン号は蒸気船による大西洋の初横断という記録はシリウス号に先を越されたが,汽船として最初にブルー・リボンを掲げるに値する大西洋横断速度記録を残した．さらに米国から英国への航海でも,シリウス号は18日間で航海したがグレート・ウエスタン号は15日間(14日17時間30分)で航海して英国に戻った．この航海の平均速度は8.6ノット(16km/h)だった．&lt;br /&gt;
　1839年になると,グレート・ウエスタン号はシリウス号の姉妹船ブリテッシュ・クィーン(British Queen)号とともに米国まで航海した(所要日数は13日6時間:平均速度9.6ノット)．こうして大西洋横断航路に蒸気船が使用されるようになった．&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;　
　コロンブスが新大陸を発見した航海のあとには,数えきれないほどの帆船が大西洋を航海していた．1819年に米国船籍の補助蒸気外輪付き帆船サバンナ号(Savannah:350トン)をヨーロッパで売却するために,5月26日に75トンの石炭を満載してニューヨークを出航し,26日後に英国のリバプールに6月20日到着した．アイルランドの海岸に着いたときは石炭は使い切っていた．このころの帆船には蒸気機関を補助エンジンとして装備し,帆船の速度が4ノット(7km/h)以下になると蒸気機関を使用する方式だった．サバンナ号では18日間は航行に蒸気機関(蒸気シリンダは直径40インチ×行程6フィートで傾斜した低圧力の蒸気エンジンだった)を使用した．
　しかしサバンナ号はヨーロッパに買い手が見つからず米国に戻る大西洋横断航海では,外輪推進機構を取り外して帆走で航海した．さらに1833年にもカナダの外輪推進式蒸気船ローヤル・ウイリアム(Royal William)号が英国に売却されたために,330トンの石炭を積み込んでノバ・スコシエを8月17日に,30人の乗客を載せて出航した．途中で嵐に遭遇して右舷の蒸気機関が故障して浸水が始まった．蒸気機関の修理が完了するまでの10日間は帆走し,ロンドンに着いたのは9月12日になっていた．この大西洋横断の航海日数は26日間だったが,船長は蒸気機関だけで大西洋を横断した最初の蒸気船と宣言した．しかし事実としては,当時の蒸気機関は4日に1日は蒸気機関を止めて海水に含まれる塩分を清掃して除去する必要があったと思われる．
&lt;/pre&gt;

&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　では現在の高速フェリーを利用した場合には大西洋を横断するのにどのくらいかかるのだろうか？&lt;br /&gt;
オーストラリアのIncat社が製作したCat-Link V(自重450トン,全長91.3m,ディーゼルエンジンを4基装備して3万4000馬力)が1998年7月20日にヨーロッパ大陸の海峡フェリーに回送する途中で米国から英国への大西洋横断航海で記録したのは,所要日数2日20時間9分で平均速度は41.3ノット(76km/h)という数値だった．160年という年月が経過しているが,シリウス号とCat-Link V(カタマラン形式のアルミ船体＋水ジェット推進)の船のサイズはかなり似たものとなっている．&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/16392231.html</link>
			<pubDate>Mon, 14 Nov 2005 22:07:17 +0900</pubDate>
			<category>その他乗り物</category>
		</item>
		<item>
			<title>フランスGPは100周年を迎えるが100回目ではない．世界大戦,第2次世界大戦中は中止したのだから...</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/23660/13/15796313/img_0?1131462627&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_356_206&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;2006年のF1GP開催日程が公表になった．&lt;br /&gt;
　新しいV8形2.4Lエンジンにレギュレーションが代わり,予選方式も新しくなるようだ．&lt;br /&gt;
　2005年と同じように19レースが行なわれるようだ(ブラジルが確定していない)．&lt;br /&gt;
3月12日のバーレーンGPから始まり,翌週19日にマーレシアGPでオーストラリアGPは4月2日となった．これはメルボルンで開かれるスポーツの祭典「コモンウェルス大会」と日程を調整したためである．&lt;br /&gt;
　ヨーロッパでは4月23日にサンマリノGP,5月7日にヨーロッパGP,翌週14日にスペインGP,モナコGPは5月28日,英国GPは6月11日に,アメリカ大陸ではカナダGPが6月25日に,US GPは7月2日に開催される予定だ．&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;　またヨーロッパ大陸に戻ってフランスGPは7月16日になった．
2006年はフランスの独立記念日の週末となる日程で,観客は3日間のグランプリを楽しむのだろう．
　なにしろ1904年6月26,27日にフランス自動車クラブがルマン近郊の公道を閉鎖したサーキットを利用して開催した第1回フランスGrand Prixレース以来の100周年記念GPレースとなるからだ．すでに2005年のF1GPシーズンは,ルノー・チームがドライバー選手権とコンストラクター選手権を獲得して素晴らしい成績を残した.タイヤもミシュランが米国GPを除けば,完全勝利といえるだろう．車体のゼッケン番号のNo1とNo2を手に入れてルノーは,第1回グランプリ・レース優勝車でも走らせるのだろうか？
　また2006年にはサッカーのワールドカップがドイツで開かれるが,日程を調整することによってTV観戦や,観客減という影響を避けて,ドイツGPは7月30日になったようだ．そのためハンガリーGPは翌週の8月6日に開催される．
　夏休みとして3週間休んでトルコGPは8月27日に,イタリアGPは9月10日で,ベルギーGPは翌週の17日になる.
アジアでは日本GPが10月1日に,翌週8日に中国GP,最終は10月22日に開催予定のブラジルGPとなっている．
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/15796313.html</link>
			<pubDate>Wed, 09 Nov 2005 00:10:27 +0900</pubDate>
			<category>自動車</category>
		</item>
		<item>
			<title>ロッキード社の高速双発旅客機による世界一周早周り飛行記録</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/62815/33/14173633/img_0?1172887424&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_432_295&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/62815/33/14173633/img_1?1172887424&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_296_271&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　米国の実業家で飛行士だったヒューズ(Howard R. Hughes Jr.)は,4人の乗員(Harry H.P. Connor, Lt. Thomas Thurlow, Richard Stoddard and Ed Lund)とともに,ロッキード14Nスーパー・エレクトラ(ライト社製サイクロンGR-1820-G102空冷星型エンジンを2基装備:燃料タンクを増設して1844USガロンにして航続距離5000マイルに伸ばした)に1939ニューヨーク世界博号と名づけて,世界一周早周り飛行を1938年7月10日～14日に行なって,5年前のWiley Postが実施した世界一周飛行時間を書き換えたのである．&lt;br /&gt;
　この飛行では,ニューヨークのフロイド・ベネット飛行場を離陸してリンドバークの大西洋横断時間も半分でパリまで飛び,モスクワ,オムスク,ヤクーツク,フェアバンクス,ミネアポリスを経由してニューヨークに戻ってきた．この飛行の所要時間は3日19時間(91時間)15分で世界一周(1万4672マイル)を実現した(平均速度=206.1mph)．これによって一時はヒューストン・ウィリアムP.ホビー空港(ヒューズの出身地)が改名されたが,まだ生存している人の名をつけるのは好ましくないと,もとに戻されるという事件もあった．　&lt;/div&gt;

&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;　世界一周飛行に使用した飛行機は,1937年に登場したロッキード社製14Nスーパー・エレクトロで,Hall HibbardとClarence &amp;quot;Kelly&amp;quot; Johnsonを中心とした設計チームが開発したダグラスDC-3旅客機に対抗する双発旅客機だった．ロッキード社が既存のモデル12エレクトラを大型化したものである．着陸速度を低減するためにファウラー・フラップを最初に装備した旅客機となった．
　胴体には3列に客席を配置して40人の乗客と客室乗務員を収容可能とし,翼内に燃料タンク,主翼に補助翼をオプション装備(あとで標準装備となった),フル・フェ－ザリング回転が可能なプロペラを装備していた．試作1号機はプラット&amp;ホイットニー社製ホーネット空冷星型S1E-Gエンジン(875馬力)を2基装備して1937年7月29日に初飛行した．ホーネットS1E-Gを装備したモデル14HとホーネットS1E2-Gを装備したモデル14H2の型式証明を1937年11月15日に取得した．
　こうしてホーネット・エンジンを装備した52機のスーパー・エレクトラが1937年7月から1940年6月までに製造された．20機がモデル14Hとなった(試作機を含めて,ノースウエスト航空に8機,ギニア航空に1機,10機がポーランドのLOT)．32機がモデル14H2だった(18機がトランス・カナダ航空で残りは5社の航空会社と1機が役員専用機になった)．
　ロッキード社はプラット&amp;ホイットニー社ホーネット2種類,ツイン・ワスプ1種類,ライト社サイクロン5種類のエンジンをモデル14の選択仕様範囲に設定した．
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/14173633.html</link>
			<pubDate>Sat, 22 Oct 2005 22:38:43 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>古いDC-9の機体に新しいエンジンと操縦システムを入れてB717に仕立てたが,B737が可愛くて....</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/62815/73/14034373/img_0?1170820670&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_563_340&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/62815/73/14034373/img_1?1170820670&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_797_302&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　ボーイング717はボーイング社では一番小さな双発の中距離ジェット旅客機である．1999年の9月より営業路線に就航しているが,古い皮袋に新しい中身を入れた新世代の旅客機となっている．なにしろ1965年に初飛行した国内線向けの小形ジェット旅客ダグラスDC-9から派生したマクダネル・ダグラスMD-95を合併したボーイング社が欠番になっていた717という型番に付け替えたのだから．&lt;br /&gt;
　ジェット旅客機は英国のコメットを含めて第一世代が国際線向けのボーイング707,DC-8,CV-880に続いてボーイング727(3発機)が近距離の国内線向けのジェット機として民間航空会社に受け入れられると,ようやくダグラス社も双発のDC-9をライバルとして投入した．するとボーイング社も2年後には双発の737を投入して民間旅客機のジェット化を一気に実現してしまった．これでターボプロップ旅客機を除くとヨーロッパ市場のジェット旅客機はフランスのシュド社のカラベル(胴体後部にエンジンを装備する形式)以外は消えてしまった．こうしてエアバスとして欧州の航空機メーカーの協同開発によって双発のA300が登場した．&lt;br /&gt;
　不思議なことにYS11の後継機とされたYX(150席程度の中距離旅客機)のサイズがボーイング717に近似していることである．ちょうどボーイング社にないサイズの旅客機を日本の通産省が予算をつけて共同開発しようとしたのだろうか．&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;　短距離を飛び頻繁に離着陸するリージョナル旅客機の上限のサイズにB717は該当する．もちろんボーイング社は,エアバス社のA318の対抗機にB717を仕立てたが,もう役目を果たしたから2006年には生産を終了する予定という,あとはB737のアップデート版で対応することにしたのだろう．
　それにしても,ジェット旅客機の販売数量ベスト3(B737,A300,DC9)にボーイング社が2種類も占めているということは,新しい時代がくるのか,ジェット時代の終わりなのか？
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/14034373.html</link>
			<pubDate>Fri, 21 Oct 2005 11:43:03 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>第1回フランスGPレースが開催されてから100年目を迎えるルノー</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-72/takamino55/folder/23660/98/13813798/img_0?1129648673&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_322_208&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;フランスのルノーがF1のコンストラクター選手権も獲得した．&lt;br /&gt;
これで来年のGPレース100周年記念には絶好の冠を手に入れたことになる．&lt;br /&gt;
そう同志のタイヤ・メーカーとしてミシュランも同じだ．&lt;br /&gt;
ただ残念ながら,フランスGPの開催時期が4月か5月になってしまうことだろう．&lt;br /&gt;
　まず,2006年に米国で開催予定のF1GPが7月2日になるらしい．これで英国GPの開催日程がこれまでの7月中旬から変更されることになった．もちろんほかのGPにも日程変更の影響が及ぶのだ．いちばん大きな問題は英国GPと米国GPの中間に予定されていたフランスGPの日程である．なにしろ100年前にフランスのルマン近郊の公道を利用してフランス自動車クラブが1906年6月26,27日に開催した最初のグランプリからちょうど100年目というイベントになるのである．&lt;br /&gt;
　米国GPの日程で,フランスGPはドイツで開催されるサッカーのワールドカップの日程との関係で6月18日も7月9日も開催できないからだ．これで6月9日から7月9日まで,つまり6月18日,6月25日,7月9日はワールドカップと日程が競合してしまう．&lt;br /&gt;
　まず6月18日はF1日程から見ると,ワールド・カップ・サッカーの3試合が午後3時～10時30分までTV視聴者を占有してしまうから絶対に避けなければならないことになる．そして6月25日にはサッカーが2試合,7月9日はワールドカップの決勝戦だからF1は視聴率をとれないことになる．米国のインディアナポリスの日程を変更すればいいのだが,今年はインデアナポリスでタイヤの問題があったために移動できないということだ．&lt;br /&gt;
　米国のレースの1週間前に行なわれるカナダGPを6月25日に動かせばいいのだが,サッカーのためにそれができない．米国GP1レースのためにすべてを積み込んで移動し,カナダGPを7月16日に開催する日程を組むと,英国GPをこれまでの日程で行なうと,米大陸のレースの合い間にスタッフがヨーロッパ大陸を往復することが必要になり費用が嵩んでしまう．さらにスタッフを10日間も高価なホテル住まいをさせなければならないことになる．これではF1の運営費用がかさんでフランスと英国の主催者がどちらも貧乏くじをひいてしまう．ということで,フランスGPを4月末に開催して,英国GPはモナコの5月28日,ニューブルクリングの6月4日,シルバーストーンで6月11日と3連続開催という日程が予想される．&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;　
　　1906年に開催されたフランスGPに,ルイ・ルノー(Louis Renault)はタイプAKを開発して3台エントリーした．エンジンは4気筒で排気量が13Lの90馬力を装備していた．ルノーAKは,油圧式のサスペンション・ダンパーとミシュラン製リム交換式タイヤを採用した点が長所となっていた．これで1周64マイルのコースを2日間で12周するレースでハンガリー人ドライバーのファレンス・シーズ(Ferenc Szisz)が2位のフィアット(フェリース・ナザロ)に32分の差をつけて優勝してしまった．
　769マイルを平均速度62.88mphで走行したのだが,タイヤがパンクして19回も交換したのだが．
翌年はフィアットに次ぐ2位,1908年はホイル・トラブルにより失格にされたため,それ以後ルノーは69年間モーター・スポーツには参加しなかった．
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/13813798.html</link>
			<pubDate>Wed, 19 Oct 2005 00:13:11 +0900</pubDate>
			<category>その他スポーツ</category>
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