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陽明学【林田明大著:日本で育った「陽明学左派」の思想、日本で育った「陽明学左派」の思想】#11
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日本で育った「陽明学左派」の思想
中国の陽明学左派は王龍渓(おうしゅうけい)を中心として、「三教一致」、つまり禅仏教と老荘思想をも取り込み、「儒教の大衆化」に貢献した。
陽明学が日本に入ってきたのは、室町期であると考えられる。そして、江戸初期の中江藤樹(1608〜48)が、日本陽明学の始祖ということになっている。中江藤樹は、近江国高島郡(現、滋賀県高島氏)に農民の子として生まれた。9歳のとき、武士の祖父の養子となり、武士になる。11歳のときから、朱子学を独学研究を始めた。33歳のとき、王陽明の語録や王龍渓の著作を収録した『性理会通(せいりかいつう)』や『王龍渓語録』にで合い、37歳の時に、『陽明全書(王陽明全集)』を熟読して、開悟した。ところが残念なことに、41歳の若さで、病死した。王陽明と同じ結核だったという説とぜんそくであったという説がある。藤樹が本物であった証拠に熊沢蕃山と淵岡山(ふちこうざん)という傑出した弟子を世に送ったことである。
藤樹の著作『翁問答(おきなもんどう)』と『鑑草(かがみぐさ)』は、江戸期のロングセラーとなった。藤樹の教えである『藤樹学』が、その後の近江商人や伊勢商人に影響を与え、やがて全国にひろがり、江戸の商人にも影響を与えるようになった。
日本陽明学がどのようなものなのかの一般書はまだでていないが、林田の解釈によると、藤樹の陽明理解は日本的ということになる。『藤樹学』のテキストとして『席上一珍(せきじょういちちん)』【(私という)儒者が、修行で学びえたたった一つの宝(大吾で得た気づき)といった意味】という本が江戸期に愛読された。『席上一珍』は四書五経の『礼記』に基づき、現在渡邊賢という林田の恩師(?)が語訳中であるという。
陽明学の日本的理解を述べるのに、中国と日本の文化的背景の違いを述べなければならない。

日本で育った「陽明学左派」の思想
中国には「良い鉄は釘に打たず、よい人は兵隊にならない」という諺がある。文人が尊ばれ、武人は蔑まれるという意味である。幕末に、日本公使をつとめたイギリス人バークスは少年時代、中国の広東の領事館に勤めていた。その時清国の知事が英国領事館で領事と話をすることになって、知事は行列をつくって音楽を鳴らしながらやってきた。ところが中国側の人数の関係か、椅子の数が不足していた。そこでイギリスの領事が腕まくりをしながら椅子を並べた。それを見た知事は、「このイギリス領事は小人である、このような人とは話ができない」と言って、帰ってしまった。つまり、中国の知事は「偉い人間はじっと坐っているべきで、椅子を並べるような体を動かす仕事をするような領事は小人である」と判断したのである。この労働蔑視の考え方は中国だけでなく朝鮮にもある。李王朝の時代だと思うが、アメリカの代表(?)がテニスをしていた。それをみた朝鮮の官僚が馬鹿にしたという話が残っている。スポーツとはいえ、汗を流して体を動かすのはゲスであると考えていたのである。
この『崇文軽武』の考え方は日本にはない。日本は承知のように鎌倉時代から武士による統治がなされた。武士は元農民で、体を動かすこと、汗水流して働くことを卑しむ考えなどもっていない。そこで、儒教も日本式解釈になる。日本には日本固有の宗教(神道)と中国伝来の「仏教」という土壌があり、それに加えて「儒教」が導入された。それも宗教色のない「儒教」として発展していった。
つまり陽明学左派の「三教一致」の中国的解釈は、仏教、老荘思想、儒教の一体化であるが、日本的解釈は神道、仏教、儒教の一体化であったのである。

徳川幕府における藤原惺窩(せいか)と林羅山の儒教への貢献
儒教が江戸幕府に受け入れられた理由のひとつに、幕府の実権を握っていたのが武士階級であったことである。それに加えて禅宗が盛んであったことがあげられる。自足自給や自助努力を強調するストイックな禁欲的な武士が、禅宗の考えに惹かれた。禅宗には作務(さむ)(掃除や食事を作ったりすること)を大事にする考えがある。つまり、肉体労働を尊重する考えがある。
江戸初期、藤原惺窩という儒学者がいた。徳川家康は惺窩を顧問として雇いたかった。ところが惺窩はこれを断り、弟子の林羅山を推挙した。結局、惺窩と林羅山と二人で、徳川幕府の儒教体制を確立するのに大きく貢献することとなった。ところで、惺窩は元禅僧であった。

日本の陽明学、右派と左派
日本陽明学には、熊沢蕃山、三輪執斎(しっさい)、佐藤一斎、最近では安岡正篤というようないわゆるエリートに受け入れれられた一派と、民衆に浸透していった藤樹派の淵岡山(ふちこうざん)の一派がある。エリートに受け入れられた陽明学を「陽明学右派」と呼び、民衆に浸透した中江藤樹の高弟の淵岡山一派の陽明学を「陽明学左派」と呼ぶ。右派は厳格主義を貫き、儒教の経典に書いてあることを厳密に習い実践していくという義務感のようなものをもち、どちらかというとか硬ぐるしい。それに対して、左派は、融通無碍にも、儒教だけでなく、神道、仏教のよいところを取り入れ、ある意味の自由さがある。登山口は違っても頂上は同じだという考え方である。そういう考えだから、幕末・明治初期、陽明学者であった人がプロテスタントに入信した人がいる。渋澤栄一は、プロテスタントの商人に感動して帰国し、「論語と算盤(そろばん)」という言い方で、新しい商人道を説いている。
伊達順之助に見る陽明学左派
檀一雄の代表作のひとつ『夕陽と拳銃』という作品がある。この作品のの主人公。伊達麟之助(りんのすけ)のモデルが伊達順之助である。伊達順之助(1892〜1948)は満洲で活躍した馬賊である。順之助は、伊達政宗の直系の子孫で、華族であった。父親は仙台藩知事をつとめ、男爵を授けれて、貴族院議員であった。順之助は海城中学を卒業後、善隣書院で東洋哲学、陽明学、兵学を学び、禅の修行にも打ち込んだ。その後、一人で朝鮮に渡り、満蒙独立運動に参画し、張作霖の顧問をつとめるなどした。石原莞爾に私淑していた順之助は、日中戦争の早期決着を目指し、山東の自治独立宣言をすることで、日本軍と中国軍との間に緩衝地帯を設け、喧嘩を引き分けに持ち込もうという計画をもった。数万もの部隊を率い、転戦するが、狭量な現地日本陸軍から白眼視され、彼の勇猛果敢な活躍は空振りに終わった。
53歳のとき、終戦を迎え、戦犯として捕まり、数年間の拘留生活のとき、陽明学の研究と修養に打ち込み、分厚い陽明学研究の覚書を書いている。57歳の時に銃殺刑に処せられる前に遺書を遺している。そのうちの一つ家族宛の「臨死刑遺書」に、次のように書いている(一部現代語訳)。
「生者必滅は宇宙の真理なり、昔より危乱の世、臣、国に死するこのこと有るや久し。我いま死に臨みこの心光明また何をか言わん。・・」
「この心光明また何をか言わん」の言葉は、まさしく王陽明の臨終の言葉である。順之助は、禅学と陽明学の併用だったのだが、まさしく陽明学左派であったといえる。

写真の説明:舞鶴にある禅寺。滴水和尚が修行した寺。滴水が茶碗に入った水を無造作に庭に捨てたのに対して、「土の上にその水を捨てれば無駄であるが、草木に与えれば草木が生きる」と師匠から諭されたたことから、この名前をつけたいわれる。滴水は禅宗史では有名な傑僧の一人。
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( ´ー`)y─┛チァーパーボェー

中江藤樹の本 来週読む予定です〜

傑作&ランクリ

2010/9/18(土) 午前 0:19 にっぽに屋にっぽん 返信する

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nipponiaさん、読み終えてから記事を書いて、トラックバックを御願いします。木庵

2010/9/18(土) 午前 0:51 [ 木庵 ] 返信する

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