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戦後GHQによる言論統制#1
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<2月1日(日)、「戦後GHQによる言論統制」について、再生会の講師として発表する。レジメを書かなければならない。

そのレジメづくりの前段階としてブログで書く。以前、『GHQ焚書図書開封』(発行所:株式会社徳間書店:著者:西尾幹二、第1刷、2008年6月)を連載したことがある。またそれを再生会で発表した。

言論統制の中に焚書があるので、以前に書いたレジメを少し膨らませれば、今回の発表のレジメになる。

現在「GHQ焚書図書開封」という同じタイトルでブログ掲載中である。この連載は、桜チャンネルで西尾幹二氏が講演されている内容に沿ったものであり、本『GHQ焚書図書開封』の延長線上にある。このテレビシリーズは延べ120回以上がもう放映されていて、木庵はそのうちの78回までを観ている。木庵>


レジメの前段階としての記事

GHQが敗戦国日本に対して言論統制をしたことすら知らない若者がいる。それに「現在の日本の言論界の風潮はGHQの仕組んだプログラムによって決定されている」と言えば、「そんなことはない、日本は表現の自由が保証されていて、日本人はそのようなプログラムに支配されるようなバカな民族ではない」と反論する人が多くいるであろう。

「人間の思考は時代の空気に影響され、つくられる」。日本の戦前と戦後の空気は全く違う。しかも戦後の空気をGHQが作ったとすれば、戦後の我々の思考はGHQによって支配されていると考えるのが妥当である。そのことを否定したい国民感情は理解できるが、悲しいかな、それが事実であるので、それを認めざるを得ない。

GHQは一般日本人への戦争追求をおこなっていない。「負ける戦争を行ったのは、好戦的な軍人や知恵のない政治家の責任である」と言われれば、戦後のアメリカ型民主主義は文句なく素晴らしいものだと思ってしまう。そして、GHQが行った言論統制をも、「別に牙を向けて反発するほどのことでもない。むしろ受け入れたことが良かった」と思う人が多い。

そう思う人が多いということこそ、GHQの思惑が成功した所以である。

1951年(昭和26年)5月3日 、 東京裁判から3年後、GHQの最高司令官だったダグラス・マッカーサーは、米国上院軍事合同委員会の公聴会で日本の戦争は全くの自衛の戦争であったと報告した。東京裁判を指示し、徹底的な検閲を行い、アメリカにとって都合の悪い情報は日本国民に知らせないようにした張本人のマッカーサーが、公聴会で、「日本は自衛の戦争をした、そして戦争をしかけたのはアメリカである」と告白しているのに、日本ではいまだに自虐史観に囚われ、なお日本の戦争責任を追求している不思議な現象が存続している。

この不思議な現象がなぜ起きたかを究明するのが今回の1つの目的である。


検閲

新聞雑誌の記事や手紙の「検閲」に携わったのはみな日本人であった。英語ができ、日本文を英語に翻訳できるエキスパート、8千から1万人以上の日本人協力者がいたといわれる。

検閲に際して、以下のことに注意がはられた。
1)「大東亜共栄圏のスローガンや日本軍の皇道を賛美したもの」、「またそれを非難したもの」。
2)「マッカーサー総司令部を賛美したもの」、「それを罵ったもの」。
3)「占領軍を非難したもの」、「歓迎したもの」。
4)「占領軍の直接行動を示唆したもの」、「占領軍の将校の現行を賞賛したもの」。
5)「現に審理中の新憲法に対する賛否両論」
  
GHQの日本人改造計画の第一弾が「検閲」であった。そして、第二弾として、「焚書」が行われた。このような大上段に振られたナタだけでなく、甘い文化面からも日本人の心を改造させた。

3S政策とは、Screen(スクリーン=映画)、Sport(スポーツ=プロスポーツ)、Sex(セックス=性産業)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにするGHQがとった日本人愚民改造政策であった。読売ジャイアンツに代表されるプロスポーツへの日本人の熱狂の裏にGHQが関与していたという事実を例示することができるが、ここではこれ以上述べない。セックス産業にとどまらず、戦後性の解放があった。まさにアメリカ人なみに路上でキスする若者まで現れている。

文化面における日本人改造計画の一番分かりやすい例示は、何といっても、映画『青い山脈』である。主題歌には、「古い上衣よ さようなら さみしい夢よ さようなら 青い山脈 バラ色雲へ」と戦前を否定し、新しい時代、GHQが切り開いた未来を歓迎している。


言論弾圧

GHQが最初の言論弾圧、言論統制は、新聞社であった。自社の出版物を最も多く廃棄されたベストスリーは、朝日新聞社140点、大日本雄弁会講談社83点、毎日新聞社81点の順である。戦前、戦中朝日は日本帝国主義をリードしていた。だからGHQによって狙われたのは、当然というところだろう。

 アメリカの占領政策の特徴は、「何をせよと」は命令せず、「何をするな」とだけ禁止した。各家の前で星条旗を揚げよと命令などしないが、マッカーサーや占領軍を少しでも誹謗すれば、厳しく処罰されるという恐怖心を植えつけた。占領軍は日本国民に反感をいだかせることはしない。代わりに違反に対しては厳しく対処した。これは効果的で、恐怖心は奥に潜んで、人から人へ無言で伝えられ、日本人が自ら進んで自分を制限する方向に促進していった。「検閲」や「焚書」は、「何をせよ」の命令ではなく、「何をするな」の禁止の最も徹底した形態であった。特に、「焚書」は何十年か先を見越した時限爆弾であった。皇室、国体、天皇、皇道、神道、日本精神といった文字が表題にある書物は、約500点ほどあり、それらは真っ先に獲物にされた。占領軍の日本信仰破壊の先を見抜いた見取り図があったのである。アメリカの歴史の見方、満州事変より後に日本は悪魔の国になり、侵略国になったため、本当は戦争をしたくない平和の使途アメリカがいやいやながらついに起ち上がり悪魔を打ち負かしたという「お伽噺」を日本人の頭の中に刷り込もうとしたのである。学者や言論人といった知識階級の弱さは顕著であった。特に東京大学文学部には「集団としての罪」がある。

   昭和20年9月18日、終戦から1ヶ月のち、朝日新聞で、鳩山一郎の原爆の残虐さを非難した談話が掲載された。その直後朝日は発行停止を食らった。また石橋湛山(当時東洋経済新聞社社長)が「東洋経済新聞」で、進駐軍兵士の暴行を非難すると、一部残らず押収されている。また、任意の抽出ではあるが、百通に一通ぐらいの割合で開封している。個人の手紙のやりとりまでGHQは関与していたのである。
 
江藤淳は『閉ざされた言語空間』という本を平成元年(1989年)に出版している。この本のサブタイトルは「占領軍の検閲と戦後の日本」である。GHQが行った「検閲」の実態をアメリカのメリーランド大学の図書館で調べ上げ、それを日本人に告知した本である。江藤の記事の中に次の記述がある。

「・・・原爆の残虐さについては戦後長いこと、記事で読むことも映像で見ることもできませんでした。サンフランシスコ講和条約が発効されて初めて、『アサヒグラフ』で見ることができるようになったのです。・・・」
日本人の当時の本当の心について江藤はこう書いている。   
「当時の日本人が、戦争と敗戦の悲惨さを、自らの「邪悪」さがもたらしたものとは少しも考えていなかったというのは事実である。「数知れぬ戦争犠牲者」は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。「憎しみ」を感じるべき相手は、日本の政府や日本軍であるよりは、まずもって当の殺戮者、破壊者でなければならない。当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。そして、このような視点から世相を眺めるとき、日本人は学童といえども「戦死した兵隊さん」の視線を肩先に感じないわけにはいかなかった。つまり、ここでは、生者と死者がほぼ同一の光景を共有していた。」


真相箱

1945年(昭和20年)12月9日、(敗戦後4ヶ月)の日曜日の午後8時のゴールデンタイムから始められたこの「真相はかうだ」は、1946年12月までの10回にわたり放送され、引き続き「真相はこうだ 質問箱」、「真相箱」、「質問箱」と、少しずつ名をかえながら、1948年1月までの3年間にわたり、週5日放送された。 しかしそれ以降も「インフォメーション アワー」として、長きにわたり、日本人は洗脳され続けた。

当時一体どれほどの人が、ここにもりこまれている事実の歪曲と悪意あるすり替えを是正し続けるエネルギーを維持出来たかと言うことだ。

敗戦直後の占領下の日本で、戦前戦中の悉くが否定された。日本国民は自分たちが信じてきた価値観を否定されつづけた。また貧しかったので価値観などということに関心さえもたなかった。食住に事欠き、思想や事実よりも、単なる生存のためにエネルギーを費やさなければならなかったのである。

そんな時代に、「真相箱」は放送された。明らかな嘘も、嘘と判じがたい巧妙な嘘もある。
いずれも日本を否定し、米国を正義として位置ずける構造である。この種のラジオ放送を3年余も継続して聞かされれば、ある時点から嘘や歪曲のすり替えを鵜呑みにするようになってくる。


焚書

昭和3年(1928年)1月1日から昭和20年9月2日までの間に約22万タイトルの刊行物が日本で公刊された。その中から9288点の単行本を選び出し、審査に掛け、うち7769点に絞って「没収宣伝用刊行物」に指定したのが焚書行為である。占領中の相手国の憲法をつくってはいけないという国際法を踏みにじっているのである。

焚書作業をアメリカ人だけで行えるはずがない。日本人の協力がなければできるものではない。その関与に協力したのに東京大学文学部であった。名前まで挙がっている。尾高邦雄(1908−1993)、金子武蔵(1905−1987)、牧野英一(1878−1970)。

GHQの民間検閲支隊 Civil Censorship Detachment(CCD)の主な活動はマス・メディアのチェック、すなわち目の前の情報の「検閲」であった。これは私信開封にまで手を伸ばしていた。実はこのCCDの一部門にプレス・映像・放送課Press,Pictorial&Broadcast Division(PPB)があり、その下部組織として、戦前の本にまで手を伸ばし、「焚書」のリストを作成しようとする調査課 Reserch Section(RS)が存在していた。CCDは目の前のマス・メディアの監視に精一杯で、RSにはわずかアメリカ陸軍軍属6人(上級係官2人、その他4人)の専属スタッフを割くだけで、没収の作業に取り掛かっていたが、手がまわらず、RSは日本人パワーに頼るしかなく、9−25人程度の日本人を加えて編成されていたようだ。PPB、RSの作成した没収指定図書リストは、終戦連絡中央事務局を通じて、日本政府に指示命令として伝達された。46回に分けて細かく指示命が出された。初めのうちは日本の警察が本の没収をおこなっていたが、昭和23年6月を境に、文部省社会教育局にこの件の業務が移管された。それに伴い没収行為の責任者はこれから都道府県の知事に定めるという文部次官通達が出された。この通達は知事に対し警察と協力して行うことを指導し、知事は教育に関係のある市町村の有識者を選んで、「没収官」に任命することを求めている。ただし、現場の教師は任命から外すように、学校の図書室からの没収は慎むように、といった細かな指示を出している。没収であるから金は払わない。「もし被没収者が捜査および没収を拒み、または没収者に危害を加える等の恐れのあるときは警察官公吏の協力を求め、その任務の完遂を期する」などと書かれている。これらの没収活動が日本国民に知られないように、秘密のうちでなされた。文部次官通達の第9に、「本件事務は直接関係のない第三者に知らせてはならない」とあった。 この秘密主義には罰則がなかったにもかかわらず、戦後60年間、一般日本社会に知れ渡ることはなかった。アメリカ占領軍の心理的罠の掛け方が巧妙だったのか、集団殺戮というようなものではなかったが焚書だと思ったのか、軍国主義の悪い本だと乗せられたのか、日本人自らが自己規制に過剰に働いたのか、見事に焚書のことを今まで知られることはなかったのである。

   個人が所有していたものと図書館が所蔵していたものは現物の形で日本に残り、GHQに押収されたものはすべてパルプとなって、日本の学童用の教科書に再生されたという。
  ある文献によれば、没収判定の見本となったオリジナルはCCDライブラリーにいったん保管された後、メリーランド大学に運ばれたと記述されている。占領期の日本で接収された図書、雑誌、新聞、その他がアメリカに移送された経路には大体二つあった。一つは、メリーランド大学教授でGHQに勤務していたゴードン。プランゲ(Gordon W.Prange)を 通してメリーランド大学に移送された(図書、パンフレットが約7万1000タイトル。雑誌が約1万4000タイトル。新聞が約1万8000タイトルの他、地図やポスターや写真類もある)。もう一つはワシントン文書センター(Washington Document Center【WDC】)にいったん収集され、米国議会図書館、および国立公文書記録管理局へと送られた。WDCコレクションは戦前・戦中の出版が中心である。

簡単には言えないが、「検閲」の部門はメリーランド大学に行って、いわゆるプランゲ文庫となり、「焚書」の対象となった没収指定図書は、日本でパルプ化を免れたものがワシントン文書センター(WDC)に回ったと言ってよい。WDCに回ったものは終戦直後、すなわち1946年という早い時期に、米議会図書館に移管が始まっており、当初は書籍と冊子を中心に27万点の文書群があったという。こうしてみると日本の歴史、ことに戦意形成の背後を知るに価する昭和史の文書類は根こそぎアメリカに運ばれたままになっているのは事実のようだ。
  プランゲ文庫の主たる収蔵文献、占領期の「検閲」に用いられた資料は、日本側に昭和40年代半ばからその存在が知られ、昭和47年に返還要求が国会でも取り上げられた。国立国会図書館はその重要性にかんがみ、マイクロフィルム化を開始し、現在までに雑誌、新聞の部門はほぼマイクロフィルム化が完了しているようだ。つまり、日本でいま閲覧が可能なのだ。

しかし、「焚書」された戦前・戦中の本のほうの行方がどうもはっきりしない。ところでWDCに接収された文書類は主米議会図書館に移管されたことはもう述べた。27万点に及ぶといわれるこの文献の中には、旧陸海軍関係の文書約2万3000冊分は昭和49年に防衛庁に返還された。そしてようやく著者西尾はネット検索の結果、「焚書」された本の大半が米議会図書館に実在していることを突きとめた。全冊検索のためではなくサンプル検索であった。日本の国会図書館に80〜90%実在している。

西尾は言う、「パラダイムが変わると歴史の見方が変わる」と。昭和20年8月15日(敗戦の日)をもって、日本の戦争の歴史に対する感覚や現実感が変わってしまった。戦後ヒットした映画「二十四の瞳」の中で、大石先生が自分のクラスの子供たちが次々に戦争に出て行くのを見て、「ああ、なんで死に急ぐのか」と嘆く。これは戦後パラダイムが変わった顕著な例である。戦争中にそんなことを公言した人はいない。また、先般放映されたアメリカ映画「硫黄島からの手紙」で、冒頭、砂浜で穴を掘っている日本兵が「こんな島、米軍にくれてやればいいじゃないか。なんでこんな苦労させられるんだ」と叫ぶ場面がある。あの時代の兵士がそのようなことを口にするはずがない。
つづく


写真:江藤淳、メリーランド大学に収納された戦前の家庭科の本

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