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「新公民」(#20)(nip*****さんのコメント)
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nip*****さんのコメント 
卑弥呼は、戦後の歴史学の人気者ですが、少し、made in Chinaの匂ひがしますね。

卑弥呼=いよいよ(弥)いやしい(卑しい)とよぶ(呼ぶ)との含意あり。
邪馬台国とは、邪(よこしま)の馬の台の国との含意がありさうです。
いずれも、「お山の大将我一人」の中華思想の現れではないか?

ヒミコとは、日の御子(ヒコ)であり、神の子のことではないか?
またヤマタイとはヤマト(ヤ=沢山のものを一つにマトメル)のことではないか。古事記によると、中心の神はアメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)です。(「天地はじめてひらけし時、たかまのはらになりませる神の名は天之御中主神」と古事記にも記載がある通りです)

陳寿がヒミコと言ったのは、当時の女帝だったのではないでせうか。陳寿には天照大御神のことを想像するだけの能力があったとは信じにくいです。

天照大御神の弟の素戔嗚尊(スサノオノミコト)は確かに乱暴者でしたが、下界に追放されてから、八岐大蛇尾を退治するといふ武勇伝も残してゐます。その子孫が出雲族の大国主になった訳で、元はと言へばスサノオノの姉君の天照大御神から来られた天孫族に、国を譲りました。大国主の息子の一人のタケミナカタノカミは、諏訪まで逃げてそこで降参し、諏訪神社を建てて貰ったらそこから出ないと約束します。(今度日本に来られたら、諏訪神社にご案内しませうか?) 

魏志倭人伝の作者の陳寿は、実際は日本に来ずに、伝聞で書いたので
侮辱的に不正確。それを戦後の半日的日本人が喜んで押し頂いたのではないか?
2018/7/10(火) 午前 2:18 [ nip***** ] 

木庵の反応
<ヒミコという語呂から、ロマンのある女帝を想像している人が多いと思う。 nip*****
さんが指摘されたように、「卑弥呼=いよいよ(弥)いやしい(卑しい)とよぶ(呼ぶ)との含意があり、簡単に胸躍らすわけにはいかない。

邪馬台国の記述においても、邪(よこしま)の字を使っているところを考えると、陳寿が日本を見下していたのは間違いない。

魏志倭人伝を勉強しよう。いつものように、ウィッキペディアの記事を参照するが、漢文のところは割愛し、日本語訳だけ掲載する。分かりやすくするために、番号をつけた。それにウィッキペディアの記事の中で興味があるところは、木庵の感想を付記する。木庵>

ウィッキペディアの記事
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
<中国で正史と認められたからと言って、書かれていることが正しいということではない。書かれている中身を検証してみよう。木庵>

概要
『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく、「東夷伝」の中に倭及び倭人の記述がある。従って倭人に関する条のみならず、東夷伝のすべてを通読しなければ意味がないという考え方もある。さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は「『三国志』の著者である陳寿(233〜297年)の世界観や政治状況は、約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之〔372〜451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、世界観を形成している儒教の経典(けいてん)に通じなければ分からない」と述べている。
<学者という人種は、「儒教の経典に通じなければ分からない」などと、一般の人と比べて己の優位さを強調する。普通の人が儒教の経典に通じるはずがない。木庵>

中国の正史中で、はじめて日本に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している。

当時の倭(後の日本)に、女王の都する邪馬台国(邪馬壹国[8])を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本を知る史料となっている。

しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと[から、邪馬台国に関する論争の原因になっている。 また一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいる。岡田は位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける点を根拠として挙げている。渡邉義浩は『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪んだ記述)が含まれている」と指摘している。<一応資料として認めてよいが、どのような偏向があるか、検証してみよう。木庵>

版本
現存する数種の版本のうち、清の時代の19世紀の影印本「百衲本」(南宋期の版本の影印)が最も善本とされる。活字本としては現在の中国で諸本を校訂し、句読点を付した「中華書局本」が(初版1959年、北京)、日本でも入手可能である。また、返り点をつけたものとして、講談社学術文庫『倭国伝』(藤堂, 竹田 & 影山 2010)がある。

「倭人伝」は、影印本の写真版を見れば段落もなく書かれているが、中華書局版と講談社学術文庫版では6段落に分けられている。内容的には、大きく3段落に分けて理解されている。

倭と魏の関係
卑弥呼と壹與
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。

卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。

卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
<「狗奴国」とは朝鮮のこと。木庵>

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の後継者(宗女)である13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。
< 「100人が殉葬された」ことを、素直に信じてよいものか? 弥生後期の遺跡から、殉葬されたと見なさエルような人骨が発見されているのだろうか。そのようなものはないと思うが・・・。木庵>

魏・晋との外交
景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た。。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
<まさに、この箇所は中国の朝貢制度がスムースに展開したことを主張する記述である。生口(奴隷)を本当に贈ったのか、気になるところである。木庵>

景初3年1月1日に12月8日から病床についていた(『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)魏の皇帝である明帝(曹叡)が死去。斉王が次の皇帝となった。

正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。

正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。

正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。

正始8年(247年)、新太守の王(斤+頁)が着任する。女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣したが、この派遣は同年の倭の報告によるものではなく、正始6年の詔によるもの。

女王位についた壹與(正始8年の派遣の時点で既に女王が壹與である可能性がある)は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

また、『日本書紀』の「神功紀」は、晋武帝泰初二年泰始2年(266年)の晋起居註に泰初二年10月倭女王が重ねて貢献したとの記述があるとしている。 魏書陳留王紀によれば、この年、禅譲に先立ち東夷が朝貢したという記事があるので 、この女王は壹與と考えられている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。

倭人のその後
3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。

邪馬台国までの行程と倭国の様子
「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。

邪馬台国までの国と行程
国名や官名には諸説がある。 Wikisource-logo.svg 魏志倭人伝の原文の抜粋とその日本語訳を示す。<原文は削除し、日本語訳だけ掲載した。番号は木庵がつけたもの。木庵>

⓵ 倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。

⓶ 帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。

③ 始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。

④ また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。

⑤ また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。

⑥ 東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。

⑦ 東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。

⑧ 東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。

⑨ 南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。

⑩ 南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

倭国の様子女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。

其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。

帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。

倭国の様子
⓵ 男性は大人も子供も、みな顔や体に入墨をしている。(黥面は顔の入れ墨、文身は体の入れ墨)<倭国の人を野蛮な人であるというような印象操作をしている疑いあり。入れ墨をしていた人もいただろうが、一部だろう。木庵>

⓶ 古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。

③ 夏(中国の王朝)の王の少康の子が、會稽に封ぜられた時、断髪して入墨をし、蛟(みずち)の害を避けたという。今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった。

④ 入墨は国ごとに異なり、あるいは左に右に、あるいは大に小に、階級によって差が有る。

⑤ その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。

⑥ その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿の布を頭に巻いている。その衣服は幅広い布を結び合わせているだけであり、ほとんど縫われていない。婦人は髪に被り物をし後ろで束ねており、衣服は単衣(一重)のように作られ、中央に孔をあけ、貫頭衣である。

⑦ 稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。

⑧ 牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。

⑨ 兵器は矛・盾・木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。

⑩ 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。

⑪ 家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は高坏(たかつき)を用いて、手づかみで食べる。

⑫ 人が死ぬと、棺はあるが槨のない土で封じた塚を作る。死してから10日あまりもがり(喪)し、その間は肉を食さない。喪主は哭泣し、他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると家の者は水に入り体を清める、これは練沐の如し。

⑬ 倭の者が中國に詣るのに海を渡る時は、いつも一人が選ばれ、頭(髪)をとかず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のごとく。名づけて持衰(じさい)という。もし行く者が善ければ生口や財物が得られる。もし病気があったり暴害にあえば、その持衰が謹まなかったからだとして殺される

⑭ 真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、おそらくはタブノキ)、杼(ちょ、ドングリの木またはトチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。

⑮ 特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う卜(ぼく)を行う。まず占うところを告げ、その解釈は令亀の法のように、火で焼けて出来る割れ目を見て、兆しを占う。

⑯ 集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。

⑰ 身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。

⑱ 女は慎み深く嫉妬しない。

⑲ 盗みはなく、争論も少ない。

⑳   法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。

歴史<この項目は木庵が記した。木庵>
⓵ 景初2年(西暦238年)6月 倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に詣いるよう遣わし、天子に朝獻を求める。太守の劉夏は吏將をつけて京都(魏の都)に送った。

⓶ その年の12月、倭の女王に報いる詔書が出された。曰く(中略)

③ 正始元年(西暦240年)、太守の弓遵が中校尉の梯儁らを遺わし、倭國に詣りて詔書・印綬を奉じ倭王に拜假した。また、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物をもたらした。倭王は謝恩の上表文を詔した。

④ その4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹木・拊(搏拊)・短弓矢を獻じた。掖邪狗たちは善中郎將の印綬をさずかった。

⑤ その6年、倭の難升米に黃幢を賜えと、郡に假授するよう詔が出された。

⑥ その8年、太守に王頎が到官。倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は元より不和で、倭は載斯・烏越たちを郡に遣わし、互いに攻擊している状態を説明した。塞曹掾史の張政たちを遣わし、詔書と黃幢を難升米に拜假し、告喻しこれを檄した(木札に書いた)。

卑彌呼は死んでおり、塚が大いに作られ径100歩ほど、狥葬者は奴碑100人ほど。つぎに男王が立つが國中が従わず、互いに殺し合い当時1000人くらい殺された。その後また卑彌呼の宗女の壹與という13歳の者が王になり、國中がついに定まった。そういう訳で政(張政)たちは壹與に告喻し檄したのである。壹與は倭の大夫の率善中郎將の掖邪狗たち20人を遣わし、政(張政)たちが還るのを送るとともに、臺(魏の都)に詣り、男女生口30人、貢白珠5000孔、青大句珠2枚、異文雜錦20匹を獻上した。

倭および魏の使いを年代順に西暦で書くと、238年倭使、240年魏使、243年倭使、247年倭使・魏使・倭使となる。238年12月の文は詔が出された記事で、実際に届けられたのは240年である。同様に245年の難升米に黃幢を賜える記事も、この年に詔が出され、実際に届けられたのは247年であることに注意。またよく誤解されるが、247年に魏使が倭に来たのは245年の詔のせいであり、247年の倭使の訴えがあったためではない(ただし檄などはこれによるものであろう)。

年表邪馬台国論争
倭国への道程を文字どおりに距離を測ると日本列島を飛び越えて太平洋の海の上になってしまうため、邪馬台国の位置や道程の比定は決定的な説がない。位置についての有力なものに畿内説と九州説がある。道程についても「連続説」と「放射説」がある(邪馬台国#位置に関する論争を参照)。

「魏志倭人伝」と『後漢書』倭伝との関係
范曄の『後漢書』「東夷伝」に、倭についての記述がある。 その内容は「魏志倭人伝」と共通点があるが、『後漢書』倭伝には「魏志倭人伝」には年代が特定されていない「桓霊間倭國大亂」等の記事

<所詮、他国の人があたかも日本を見てきたように書いているにすぎない。魏志倭人伝にかくかく書いてあるので,当時の日本はかくかくであったという発想は、現在の森友・加計問題において、籠〇という虚言癖のある男の言葉に振り回されていうようなものである。木庵>

写真:卑弥呼
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戦後の日本は国家観がいい加減であり、心もとない感じがします。
みんな、GHQが遺した日本弱体化憲法・占領政策によるものです。
このまま放っておいたら、事態はますます悪化するでせう。ではどうしたらよいか。それは万難を排して、日本弱体化憲法に一つでもいいから改正し風穴を開けることです。

2018/7/11(水) 午前 0:58 [ nip***** ] 返信する

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