誰かのために時間を割くということ

2006年の病気入院をきっかけに始めたブログです。今日を大切に、ゆっくりしたペースで綴っていきます。

過去の話

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「過去を振り返る必要はない」と言う人もいますが、
「過去を悔やむ」ことはしたくない。
そういう思いを込めて振り返ります。
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じこちゅう その2

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 「棟方志功とその妻」というドラマがあったが、その夜は留守になるので録画しておいた。

 10年ほど前に、棟方志功を引き合いに出してDからあることを言われたことがあったのだ。
 文字で残っているわけではないので、記憶は少しあいまいなのだが。

 
 棟方志功は版木との距離を取らない。
 描こうとする対象物とも距離を取らない。
 それは彼が極度の近視だったからということではなく、彼の生き方がそうだったということ。

 精神的に距離を取らないということ。
 それが棟方の対象の捉え方だった。
 それが愛し方であり、表現だった。
 かぶりつくように愛する。 距離を取らないから愛することができる。

 でもデッサンしようと思うと、距離を取らないと全貌は見えない。
 初心者が人物や風景を描くときに難しいのは、きちんと引いて見ることができないから。
 気持ちが近づきすぎると・・全体を掴むのは難しい。

 「君はいつもデッサンするように僕を見てる。
 僕だけじゃなくて、何でもそうなのかもしれない。
 距離を縮めて、距離を無くして・・身包み愛そうとしないんやな。」

 Dは別に棟方のファンだったわけでもないのに
 何故彼のことを持ち出したのかは全くわからなかったのだが・・。

 それは離婚届を差し出される少し前に言われたことにも繋がる。

 『借りは作らない』『貸し借り勘定がきっちりしている』。
 京都人の近所付き合いの仕方を、私は合理的で悪くはないかも・・と思ってきた。
 でも本当に頼り合える関係なら、『借り』はいくらでも作っていいのかもしれない。

 そのことを根っからの京都人のDに指摘された。

 「お前は水臭い。」「僕のことを頼ってないんやな。」
 「信頼してないんや。」
 「それって、愛してないんやな。」

 そうだったのかもしれない。
 『頼り』『甘え』『弱いところは無理せずに出し』『借りも作り』『我侭も言い』
 それが『愛している』ということなら、
 私は大きな勘違いをしてきたのかもしれない。


 やっと録画しておいたドラマを見た。
 呆れるばかりに一途な作家の姿がそこにあった。

 まあ何というか・・『じこちゅう そのもの』!!
 人は皆『自己中』とは言うものの、絵に描いたような正真正銘の?『自己中』がそこにいた。

 ものを作り始めると周りは何も見えない。生活のことすら何も考えない。
 周りに迷惑をかけ倒しても・・気づかない。
 芸術家と呼ばれる人には、そういう人は多いのかも知れない。

 でもそれは、有名になったから許されるというものでもなく・・
 『世界のムナカタ』になったから許されるというものではなく・・
 名も出ず、売れず、そのまま貧しい暮らしで生涯を終えたとしても許されたのだ。

 人と人の関わりというのはそういうものなんだな・・。
 「愛する」というのはそういうことか・・。

 志功のあまりの身勝手さに怒りをぶつける妻。
 それに対して「お前には何の宗教心もないのか?!」と逆切れする志功。
 「あるなら言ってみろ! あるなら言ってみろ!!」

 妻は叫ぶ。
 「私の宗教は・・私の宗教は・・ムナカタシコウです!」

 「愛する」というのはそういうことなんだな。
 「信じる」というのはそういうことなんだ。

 ぶつかり合うことも無く、ただ距離を取って眺めていることも
 「愛する」ことだと私は思っていた。

 今でもそうなのかもしれない。

 
 
 

雨の朝の思い出

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 激しい雨音が夢の中に滑り込んできた。

 まだ夜明け前だし起きるには早すぎるぞ〜。
 それにしてもなんという雨だろう・・。

 夢の中で考えている。
 (今日何着て行こう・・。これは・・駅までにずぶ濡れになるぞ〜。
  レインコートを着ていかないと・・。長靴を履いた方がいいかな・・。)

 夢の中で起きている。
 シャワーを浴びようか・・。
 いや、どうせこんな雨なら髪の毛はくしゃくしゃになってしまうだろうし
 やめとこう・・。

 冷蔵庫にお茶を冷やしてあるが、熱いお茶がいいかな・・。
 やかんに水を入れて火にかける。
 そうだ長靴を出さないと・・。

 激しい落雷の音と地響きで、ハッと目が覚めた。


 そう、あの朝も同じように始まった。
 起きるまでにはまだ時間がある。
 激しい雨音を聞きながらまどろんでいる幸せを感じていた。

 突然階下で叫び声が聞こえた。
 「??」
 「ああ〜〜!」
 私よりも早くDがガバっと飛び起きた。

 義母から呼ばれても、普段は決して起きることなど無かったDが階下に走って行く。
 「何?」
 私も慌てて後に続く。
 台所の冷蔵庫の前で、義母が倒れて泣いていた。

 「どうしたんや!こけたんか〜〜?!  こんな日に限って〜〜。」
 彼が抱き起こそうとすると、痛い痛いと泣き叫ぶ。
 とにかく両方から抱えて部屋の方に連れて行こうとすると、「トイレ!」と叫ぶ。

 目が覚めて、トイレに行こうとして転んだようだった。
 また二人で抱えてトイレまで行き、何とか済ませて布団に寝かせた。
 
 「大丈夫や。びっくりしただけや。骨がどうかなってたらあんな風には立てへんから。」
 そう言いながらも彼はイライラと考え込んでいた。
 その朝から出張だったのだ。

 「救急で行かなあかんような状態じゃないよね。」
 手を貸すと何とか布団に坐ることはできたが、自力で立ち上がることは無理のようだった。
 でも横になると、それほど痛むようでもない。

 「私は今日休みやから、とにかく時間になったらタクシーを呼んで整形に連れて行くわ。」
 「一人では無理やろう・・Mちゃん(妹)を呼ぶわ。」電話をかけに行こうとする。
 「大丈夫やって。それにまだ6時前やん。」

 私の言葉を無視して、Dは電話をかけに行ってしまった。
 何か、どうも様子がおかしい。
 いくら今日から出張だといっても、普段ならそんな風に気を回す人ではないのに。
 (それに、小さい子を連れて来られても、かえってややこしくなりそうなのに・・)

 急いで朝食を済ませて出かけようとする。
 「明日の晩には帰るんやね。」
 「いや、あさっての晩になる。」「え?そうやった・・?」

 妹が来るのを待って、タクシーを呼んでかかりつけの整形外科に連れて行くが
 レントゲンを見ても特に骨折は無いということで、シップと痛み止めをもらって帰される。
 トイレまで介助するのもかなり大変なので、やむを得ずポータブルトイレと紙おむつも買いに走った。

 タクシーは使いにくい場所だったので、
 激しい雨の中を両手に荷物で、傘もさせずにずぶ濡れで歩いた。

 Dは何度か電話をかけてきたが、このまま様子を見るしかない。
 結局妹と姪っ子の食事の用意が増えてしまった感じで、夜には帰って行った。

 あの激しい雨の朝。
 この時の転倒が、後に義母の足をさらに不自由にさせることになり、
 この時の出来事が、Dの嘘に気づくことにもなったのだ。

 夜は義母の部屋で一緒に寝たし、翌日の日曜もポータブルトイレに立たせるのがやっとだった。
 痛み止めは少しは効くようだったが、一人で立てるようにはならない。
 明日はもう一度病院に行って、この状態をわかってもらえないと仕事にも行けない。

 2日間でくたくたに疲れ果て、日曜の夜に義母が寝たあとで、パソコンに向かった。

 それはDが主に使っているパソコン。
 私は彼が使っていないときに少し借りる程度だった。
 いつもなら夜はDがずーっと使っているが、今日は開いているのだ。

 何気なく電源を入れると、まだ何も操作していないのにプリンターが音を立てた。
 えっ?何??
 するすると紙が出てくる。
 何で出てくるの〜〜?

 気にも留めずにそのままにしていたのだが、ふっとその紙を見た。
 「YAHOO!トラベル国内宿泊予約」
 ふーん。
 どこに泊まってるんだろう・・。
 ふーん。

 次の瞬間のドキドキは忘れられない。

 「ツイン・2泊朝食付き」
 「2名1室(男:1人 女1人)」

 そのときの「予約完了」の紙は今でも捨てられずに持っている。
 もう捨てればいいのに・・。

 
 
 

先斗町の朝日

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 夜明けの先斗町は見事に凛と静まり返って、ゴミひとつ落ちていない。
 仕事を終えて鴨川を眺めると、ちょうど朝日が昇る時刻。
 清清しい空気の中で、ほんの5分ほどたたずむだけだったが、何となく生きる元気をもらっていた。

 大げさな話でも色っぽい話でもない。
 私は朝刊を配達していたのだ。
 学生の頃には山ほどアルバイトをしたが、これはわずか3年前の話。

 Dが目の前に離婚届を出したとき、たしかに一瞬頭の中は白くなった。
 (これが「頭の中は真っ白!」っていうあれかな〜〜)
 次の瞬間思い浮かべたのは実家の両親のこと。

 えっ、ちょっと待って〜。うちの親に何と言えばいいんだろう・・。
 えっ、ちょっと待って〜。お義母さんには何と言えばいいん?
 (ああ・・それはDがきちんと説明してくれればいいのか・・)

 でも私が口にしたのは「これって実印でなくてもいいんでしょ。」だった。

 相手が「離婚したい。」と言っている以上、断ることはできない。
 調停とか裁判とか・・そういうことも、全く考えも及ばない、というかあり得ない。
 
 引越しも終えて一人になり、ようやく少し落ち着いたとき急に不安に襲われた。
 えっ、これからどうして食べていけばいいん?
 えーーっ、バッカやな〜〜!!

 何となく「潔くいたい」という思いがあったのだが、そんなものは何の役にも立たない。
 これまでの非常勤の仕事だけではとうてい食べてはいけない。
 とりあえず短期でもいいからとバイトを探した。

 大型チェーン店(スーパー)の電算室の商品発注入力のバイト。
 ファミレスの裏方(調理・洗い場)のバイト。
 それに、早朝の新聞配達。

 新聞配達は自分ひとりだし、気を使うことも何も無い。
 早起きの習慣をつければ健康にも良いと思ったのだが・・。
 3時起きというのは・・・。あの頃睡眠は毎日3時間くらいだったわけだ。

 早朝4時。まだ暗い。
 オフィス街から入れ始める。
 ビルの中に入るのにカードが必要な所が数箇所あり、それらは首からかけている。

 いろんな新聞社があるのだが、ライバル社の新聞も取るんだな・・。それも5部も?
 「NTT」には全ての新聞社のポストがズラーっと並んでいる。
 それから東に移動しながら、マンションに入れていく。
 
 そして・・寺町、京極、河原町といった中心部を過ぎて、木屋町。
 一番の夜の繁華街。

 黒づくめのホストのお兄さんたちが並んで、最後のお客さんを見送っている。
 ゴミと間違えそうなところに人が倒れている。
 若い子だったら、思わず自転車を止めて怖々見てしまう。

 まさか〜〜死んでるんじゃないよね〜〜。

 こういうお店でもちゃんと新聞を取っておられるんだ・・。
 毎朝同じ時間に出会うホストのお兄さんと挨拶を交わすようになる。
 「お疲れさま〜^^!」と声をかけ合う。
 まだまだあちこちから酒の匂いが漂ってきそうな夜明け。

 そして・・締めくくりが先斗町(ぽんとちょう)。

 そこはやはり別世界だった。
 外が白む時刻には、表はすでに打ち水がしてあり、ひっそりと静まり返っていた。
 夜に来ることは無いかな・・と思いながら、そっと自転車を押していく。

 最後の新聞を入れ終えると、ちようど鴨川が見える。
 東山から静かに昇る朝日。

 それを眺めていると・・
 自分も潔く生きていけそうな気がした。



(残念ながら先斗町の写真は、その頃携帯で撮ったピンボケのものしかありません)





 

 

 
 
 
 
 

  
 
 

 

 
 
 

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 老人ホームを出て駐輪場に行くと、サドルが少し濡れていた。
 あんなにいいお天気だったのに・・・。
 見上げると、何だか嫌な黒い雲が広がっている。

 道のりは長い。
 黒い雲から逃れるように一生懸命ペダルを漕ぐ。
 今日は雨具もビニール袋も持っていないのだ。でも絶対濡らせない大事な預り物がある。

 ボトッ、ボトッと大粒の雨が落ちてきた。
 くっそ〜〜!!
 Tシャツの中に封筒を入れ、落ちないように裾をGパンに突っ込む。

 首も胸元もごわごわして気持ち悪いが、そんなことは言ってられない。
 必死に漕ぎながら何とか商店街に飛び込んだ。 
 間一髪!!
 
 アーケードを打つ激しい雨音が轟音のように響いた。
 ホッとしながら封筒を取り出す。あぶないあぶない・・。
 雨から守っても、汗で濡れてしまうところだった。

  *****     *****     *****
 
 「養子娘」という言葉があるらしい。
 近所の人がそう言っていたのだ。「○子さんは養子娘さんやから・・。」
 義母は、妹を幼くして亡くしてからは、あの年代の人としては珍しく一人っ子同然で育った。

 比較的晩婚で結婚し、彼女を溺愛した父親は亡くなり、
 職人の夫(養子)と自分の母親と、Dと妹の5人家族で暮して来られた。
 Dのおばあちゃんは88歳で亡くなる直前までお元気で、家事は全てされていたらしい。

 義母は夫の仕事を手伝っていた。
 おばあちゃんが亡くなり、翌年妹が結婚し、その次の年に私が嫁いだのだ。

 元気でお喋りで、シャキシャキした人だった。
 我侭に育った人なのだということは感じたが、天真爛漫な、とても正直な人だったと思う。

 嫁いだとき、料理とかでもいろいろ言われるのかな〜と心配したのだが、
 「takaoさん、よろしゅうお願いしますわ。もう何でも好きなもん作っとくれやす。」
 「??!!」 
 
 そうか・・あんまり自分で料理されたことがないんだ・・。
 たまに野菜の煮物とかのおばんざいは作って下さったが、レパートリーは数品だった。
 そして、私の作ったものは大抵「美味しい〜。」と食べて下さった。

 牛乳が嫌いな人だったので、ダメな食べものはあったのだが・・。

 義父の看病も途中でバテてしまったし、
 孫(妹の子)の面倒も気が向かないと投げ出してしまう人だったが
 私たちはとてもうまくいっていたと思う。
 Dは相変わらず独身の頃のように気ままに暮していたけれど・・・。

 でも義父を見送ってからわずか1年後、
 彼女は早朝、強く尻餅をついたはずみで腰椎の圧迫骨折をしてしまい、
 それからは歩行が不自由になってしまったのだ。

 年齢的にはもっと回復するはずだったのだが、しびれが取れず、
 リハビリに励んでいた意欲も萎えて・・彼女はだんだん愚痴だけの人になってしまう。
 そして・・Dはそんな母親を露骨に敬遠するようになってしまった。

 両隣の奥さんやおばあさんは、私のことをいつも心配して良くして下さった。
 そして・・言われたのだ。
 「○子さんは『養子娘』やから・・我侭に育ってはんねん。」
 「そやな〜Dちゃんもな〜。takaoさん、我侭な親子に振り回されたらあかんえ〜〜。」

 私は返事に困りながらも、ひょっとしたらこの奥さん達が唯一の理解者かもしれないという気がした。

 波はあったけれど、欝っぽくなったり、時にパニックを起こして泣き叫んだり
 過呼吸になったり・・。
 私がかかっていた精神科にも相談したが、精神科への偏見は強くて、
 心療内科にも連れて行ったが、それも嫌だと言い・・。

 原因となる『不安』の最たるものは、やはり息子のDの態度だったのだと思う。
 たまにDが通院について行ってくれたりすると、その時だけはご機嫌になるのだから・・。
 あまりの単純さに呆れてしまう。
 
 ただDと話していて感じたのは、男の子は母親に幻想を抱いているということだった。
 彼は自分の母親は、大好きだったおばあちゃんのように老いると思っていたのだろう。

 自分の母親は、凛と老いてほしい。

 誰だってそうだよ。自分の親は凛と老いてほしい。
 でも、もっと若くして認知症になる場合もあるんだよ。
 いくら愛をもって世話をしても、誰なのかさえわかってもらえない場合もある。

 (数年分を端折ってしまうが)
 
 離婚を決めたとき、私は義母に何と言おうかと思った。
 そのときに・・つくづく自分がまだまだ未熟者だな〜と感じてしまった。
 
 『あなたの世話が嫌で、逃げ出すわけではないのです』。
 それだけは、どうしても伝えたかったのだ。
 (本心のどこかには、いつまで介護が続くのだろうという思いはあったかもしれなのに・・)

 それでも、それでもその気持ちは伝えたかった。
 
 「Dがもう私とは一緒にやっていけないと言いましたから・・ごめんなさい。」
 
 義母にはそのことが理解できないようだったが、息子のことを責めたりはしなかった。
 ということは・・やはり私はよそ者だったのだ。
 そしてDが母親に何と説明したのかはわからない。
 「takaoがあんたの世話が嫌になったから・・別れた。」と言っていたのかもしれない。

 でも、家を出てからも時々私の携帯に義母から電話がかかった。
 「来て欲しい」と言われれば、Dの居ない時間帯には何度か行ったことはある。
 彼女は何事もなかったかのように私に甘えた。

 それは、無邪気な義母のしたたかさだったのかもしれない。
 そして・・出かけて行く私は、自己満足のためだったのかもしれない。

 間もなく友人からDの再婚を聞いて、それ以降はもちろん行かなくなった。
 当然新しい奥さんが同居して、面倒を見ているのかと思ったからだ。
 
 私と義母との関係は終った。

 それからしばらくして、時々心配して電話を下さるお隣の奥さんから聞いた。
 「○子さんはしばらく入院してはったけど、今はずーっとヘルパーさんに来てもろてはるよ。
  新しい奥さんは見かけたこともないよ。」

 そして間もなく義母は老人ホームに入った。

 そこは、今の私の住まいのほんの近くだった。
 
 
 

 

 
 
 
  
 
  
 

 

義父のこと

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 祭りが来ると思い出す。

 義父は本当に無口な人だった。
 話などほとんどしたことがない。
 でも気難しいという感じではなく、いつもにこやかな人だった。

 8月の末に嫁いできて、急に9月から週に1日だけ夜間のクラスを頼まれた。
 9時半頃大阪の職場を出ると、家に帰り着くのは11時近くになる。
 急ぎ足で厨子の角を曲がり、うちの前の通りに出ると・・
 遠くに人影が見えた。

 義父だった。

 私の姿を認めると、すっと家の中に入ってしまわれる。
 そのまま奥の間に入ってしまうので
 「ただいま〜。」「お帰り〜。」と言葉を交わすこともない。

 遅くなる嫁が心配で、思わず外に出て待ってしまうのだろう。
 『気にしないで寝てくれればいいのに』と、いつもそう思っていた。
 
 義父は伝統工芸の職人だった。
 広島生まれで、16歳で修行に出てきて、36歳で養子として義母と結婚。
 Dは38歳のときの子どもということになる。

 私が嫁に行く数年前に軽い脳梗塞で倒れてからは、仕事量も大幅に減らしておられたようだ。
 それでも、初めて台所にある大きな冷蔵庫を開けたときの驚きは忘れられない。
 何と!大小様々な絵具の瓶がびっしりと並んでいたのだ。

 何の色なのか、一つ一つにラベルが貼ってあった。
 食材はどこにあるの??。
 卵とか牛乳とか・・わずかなものがやっと見えるだけ。「!!!!!。」

 Dは仕事用の冷蔵庫を買おうかと言ったが、私はこのままでもいいと思った。
 今日食べる食材を買いに市場に走るのも悪くないかも・・。
 仕事に出た日は帰りに買って帰ればいいのだから。

 私は非常勤講師として週の半分働き、あとの日は家事をした。
 休みの日には少しだけ「絵付け」を手伝わしてもらえるのも嬉しかった。
 義母は賑やかな人だったけれど、穏やかな暮らし。

 でもその暮しは半年しか続かなかった。
 嫁いでわずか半年。
 阪神淡路の震災から1ヶ月にもならない2月の寒い朝に異変が起きた。

 間口が狭く奥に長い、古い町屋。いわゆる「うなぎの寝床」。
 外気と変わらぬ寒い室内。
 私は朝ごはんの用意をしながら、義母と義父にお茶を入れた。

 しばらくすると・・
 「おとうちゃん!何してんのん〜〜!もう〜かなんなぁ〜!」
 義母の甲高い声が聞こえた。
 「すんませんなぁtakaoさん・・ちょっと雑巾と台拭きを・・!」

 慌てて行くと、義父は服の前を濡らして、情けない顔をして私を見た。
 「??」「飲めんのや〜〜。」と口ごもりながら絞り出すような声。
 「お義母さん・・。お義父さんの顔・・!」
 義父の片方の頬が下がって、垂れていた。

 Dを起こして、すぐに近くのかかりつけの先生に往診に来てもらい、
 先生から連絡をしてもらって救急車で○○脳外科へ行くことになる。
 「大丈夫やから、あんたは仕事に行き。何かあったら職場に電話するから・・。」

 まだ携帯電話は持っていなかった。
 昼休みに家に電話をして、妊婦の妹から「落ち着いているから大丈夫。」と聞いた。

 意識もあり、命に別状無く、ホッとしたのもつかの間、
 3日後に突然重体?に。
 個室に移された義父は気管切開して点滴だらけになっていた。

 事情は後になってから聞かされたのだが、とにかく何とか持ち直して・・。
 それでも昼夜付き添いが必要となった。
 しばらくは義母とDが交替で泊まっていたが、義母が音を上げてしまう。
 そして・・私も3月から週に半分は泊まることになったのだ。

 今から思えば、病院で付き添った時間は本当に貴重なひとときだったと思う。
 
 脳梗塞の後遺症で右半身が麻痺し、最も困るのが嚥下障害。
 そのために口からの摂取が難しく中心静脈栄養で命をつないでいた。
 重度の肺炎の後遺症で喉元の穴にはカニューレという器具が入ったままの状態。

 痰の吸引を覚え、身体の向きを変えるのも上手になり、夜中には下の世話もする。
 最初は尿瓶をあてがうのも戸惑ったが、おまるを使うのも上手になった。
 流動食のような食事が出始めると、時間をかけて「ごっくん」の練習をする。

 そして・・無口な義父と筆談をする。
 カニューレのところを指で塞ぐと声は出るのだが、麻痺もあった。
 スケッチブックに大きな字を書かれるのだが、なかなか読めない。

 「ごめんなさい・・わからない。」というと悲しそうな顔。
 何とか読もうと必死になる。
 義父は顔にも麻痺があって表情も読み取りにくかった。

 「おかあちゃんはうるさい。」
 「Dはこわい。」
 読めた!

 私が口に出して読むと、かすかに笑顔になった。
 「おかあちゃんはこんでいい。」
 今度ははっきりと笑顔になったような気がした。

 途中で腸閉塞を起こして開腹手術をしたり、なかなか良くならなかったのだが・・
 口からの「ごっくん」も少しずつできるようになり、肺の状態も少しずつ良くなり、
 手を貸すとベッド脇のポータブルトイレで用が足せるまでに回復してきた。

 5月に妹が赤ちゃんを無事出産し、義母はほとんど病院には来れなくなったのだけれど、
 彼女は赤ちゃんの世話をすることで元気になってきた。

 7月が近づいてくる頃、義父はしきりに家に帰りたがるようになる。
 日が落ちると聞こえてくるお囃子の音。 そう・・お祭りなのだ。
 私にとっては嫁いで初めてのお祭り。

 医者はまだIVH(中心静脈栄養)を止めるのは早いと言ったのだが・・
 喉のカニューレも外れた。
 おとなしい義父が、自分の口で一生懸命退院を申し出た。

 そして・・「鉾立て」の始まる7月10日に退院できたのだ。

 この土地に住むお年寄りの方たちの思いを知った気がした。
 祭りの「お囃子」を聞くと、この1年無事に生きながらえたことを感謝する。
 そして・・来年もまた「お囃子」が聞けることを願う。

 1年の区切りは「除夜の鐘」ではなく、祭りの「お囃子」なのだ。

 車椅子で鉾を見て回ったときの義父の幸せそうな顔は忘れない。
 そして・・これからも祭りのお囃子を聴くたびに義父のことを思い出すだろう。

 それから2ヵ月後、まだ残暑の厳しい9月22日。
 「夕べはぐずぐず言うて、ちっとも寝かしてくれへんかった!」と義母がひどく怒っていた。
 「私は今日休みですから、お義母さんゆっくり昼寝して下さい。」

 その夕刻、義父は静かに眠っていた。
 「もう〜〜おとうちゃんは・・!!夕べは何やったんやろ〜〜。
  自分は昼間はずーっと寝てて、また今晩起こすんちゃうやろか・・。」
 義母はまだ怒っていた。

 私は義父の好きな、野菜と鳥ミンチと餃子の皮を煮込んだ料理を作っていた。

 「takaoさん!!ちょっと来て!!
  お父ちゃんが・・なんかおかしい〜〜!!」

 義母は部屋の隅に飛び退いて固まっていた。
 私は額に手をあて、首に手を当てた。
 それから・・震える手で手首の脈を取った。

 言葉が出なかった。
 

 



 

 

 

 
 

 
 
 

 

 

 

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