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「棟方志功とその妻」というドラマがあったが、その夜は留守になるので録画しておいた。
10年ほど前に、棟方志功を引き合いに出してDからあることを言われたことがあったのだ。
文字で残っているわけではないので、記憶は少しあいまいなのだが。
棟方志功は版木との距離を取らない。
描こうとする対象物とも距離を取らない。
それは彼が極度の近視だったからということではなく、彼の生き方がそうだったということ。
精神的に距離を取らないということ。
それが棟方の対象の捉え方だった。
それが愛し方であり、表現だった。
かぶりつくように愛する。 距離を取らないから愛することができる。
でもデッサンしようと思うと、距離を取らないと全貌は見えない。
初心者が人物や風景を描くときに難しいのは、きちんと引いて見ることができないから。
気持ちが近づきすぎると・・全体を掴むのは難しい。
「君はいつもデッサンするように僕を見てる。
僕だけじゃなくて、何でもそうなのかもしれない。
距離を縮めて、距離を無くして・・身包み愛そうとしないんやな。」
Dは別に棟方のファンだったわけでもないのに
何故彼のことを持ち出したのかは全くわからなかったのだが・・。
それは離婚届を差し出される少し前に言われたことにも繋がる。
『借りは作らない』『貸し借り勘定がきっちりしている』。
京都人の近所付き合いの仕方を、私は合理的で悪くはないかも・・と思ってきた。
でも本当に頼り合える関係なら、『借り』はいくらでも作っていいのかもしれない。
そのことを根っからの京都人のDに指摘された。
「お前は水臭い。」「僕のことを頼ってないんやな。」
「信頼してないんや。」
「それって、愛してないんやな。」
そうだったのかもしれない。
『頼り』『甘え』『弱いところは無理せずに出し』『借りも作り』『我侭も言い』
それが『愛している』ということなら、
私は大きな勘違いをしてきたのかもしれない。
やっと録画しておいたドラマを見た。
呆れるばかりに一途な作家の姿がそこにあった。
まあ何というか・・『じこちゅう そのもの』!!
人は皆『自己中』とは言うものの、絵に描いたような正真正銘の?『自己中』がそこにいた。
ものを作り始めると周りは何も見えない。生活のことすら何も考えない。
周りに迷惑をかけ倒しても・・気づかない。
芸術家と呼ばれる人には、そういう人は多いのかも知れない。
でもそれは、有名になったから許されるというものでもなく・・
『世界のムナカタ』になったから許されるというものではなく・・
名も出ず、売れず、そのまま貧しい暮らしで生涯を終えたとしても許されたのだ。
人と人の関わりというのはそういうものなんだな・・。
「愛する」というのはそういうことか・・。
志功のあまりの身勝手さに怒りをぶつける妻。
それに対して「お前には何の宗教心もないのか?!」と逆切れする志功。
「あるなら言ってみろ! あるなら言ってみろ!!」
妻は叫ぶ。
「私の宗教は・・私の宗教は・・ムナカタシコウです!」
「愛する」というのはそういうことなんだな。
「信じる」というのはそういうことなんだ。
ぶつかり合うことも無く、ただ距離を取って眺めていることも
「愛する」ことだと私は思っていた。
今でもそうなのかもしれない。
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