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都府楼の古瓦 ケータイ投稿記事

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昨日で一年にわたる名古屋〜埼玉の往復生活を終えたたかぽん。
おもえば、昨年の今頃、埼玉で初めて買った骨董は伊勢出土の器胎に丹が残る土師器であった。

この度、仕事を終えるに当たり、埼玉の地名は数多く残る古墳群と勾玉の出土によるという話を伝え聞いて、是非とも考古の遺物の一つも欲し。と思い出かけた骨董屋さん。

床に置いてある数片の土塊(つちくれ)が目に留まった。
そっと取り上げてみると布目跡と明らかになんらかの模様が施された平瓦の破片の裏に『都府楼』の古い墨書。

「『都府楼』って何ですか?」私の問いに、

「九州の大宰府の庁舎の跡のことです。」との返事。
そういえば、ご主人は福岡のご出身で、幼い頃はよく遠足で都府楼址にでかけたそうである。
そしてこの古瓦の数点をこの骨董屋さんに売ったのがI堂のAさんである。

「この下に敷いてあるのが、元々、これらの瓦が入っていた匣の蓋なんですけどね。」

裏返してみると、そこには『筑前國 都府楼址 出土 古瓦 明治二十六年 云々』とあった。

Aさんは、匣の身の方はすでに朽ちてしまって匣の蓋だけでもと残したそうである。

大宰府といえば、古代〜中世における九州地方の要。また、菅公、菅原道真公が大宰府に流されるとき、「東風(こち)吹かば思い起こせよ梅のはな あるじなしとて春を忘るな」と詠んだ故事が思い出され、明治の人々も、菅公が、「わずかに都府楼の瓦をみるのみ」と詠んだことを思い起こしてさぞ、歴史のロマンに胸踊らせたことだろう。私も昔読んだ、永井路子さんの小説、『この世をば』のなかで主人公の藤原道長との政争に敗れた甥、伊周(これちか)の弟、隆家が大宰大弐として大宰府に下り、刀伊の入寇に際して陣頭に立って奮戦した。という一節を思い出した。

そんなことを考えたら、このうちの一片が是非、欲しくなった。

頒けていただいてその帰り、調べてみると大宰府は、古き和名を『おほみこともちのつかさ』と言ったそうで、その政庁部分の発掘は公式には、昭和18(1943)年を嚆矢とするそうである。その遺構は3期に分けられ、その最表層は10〜12世紀のものと云う。
かつて、明治26(1893)年にこの瓦を初めて手にした人々は菅公が詠んだ古瓦を、I堂の主(あるじ)は、この瓦が明治に発掘されたという事実を、骨董屋のご主人は昔、遊んだ都府楼址を、そして、私は永井路子さんの小説を、そして一年にわたる往復の思い出を、この一片の古き瓦を通して眺めたわけである。
古瓦は千年の悠久の時の流れのなかで様々な人の想いをうけとめながら、ただそこに在る。

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刀伊の入寇までの北東アジア情勢

926年に契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。
当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。
10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。
女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。

1005年に高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。
1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる。

2018/3/21(水) 午後 2:41 [ 歴史の真実を世紀ごと学ぶ ]


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