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今年の夏のはじめにふらりと寄った骨董屋さん。 週末しか開いていない、正直、何とてとりとめてあるわけでもない(店の主人自ら仰るくらいだからわけもないが。) そんなお店の隅の戸棚の中の隅っこに無造作に置かれていた一本の瓶。 「これ、なんですか?」と訊けば、 「あ〜、それね、それはニッキ水の瓶だよ。」 そういえば、私が習字の塾に通った昭和50年代の半ば、しもた屋のような、駄菓子屋さんに、あった気がするなあ、ニッキ水。 塾の帰りに親にせがんで買ってもらったものの、正直、小学生低学年の自分にはあまり、どころかさっぱり美味しくなかった覚えがある。 思わず懐かしさに駆られて、手にとると、そこには『非売瓶』の文字が。 そういえば、ニッキ水に限らず、コーラの瓶も返せばいくらかお金が戻ってきた気もするなあ。 ヒョロっとした瓶はあきらかに真っ直ぐではない。 思いがけない破調の美しきモノの代価は高いものではなかった。 そして今、この瓶はムラのある硝子の内に鈍い光とともにノスタルジーという『時間』を宿しながらわが家の机の上に在る。 |
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無造作に机の上に転がし、掌のなかにそっと包みこむと青銅の触感が冷たく心地よい。 イギリス帰りの新進気鋭の骨董屋さんから頒けてもらった古代ローマの鈴。 詳しい年代までは知らないが、確かに古代から中世に及ぶローマの雰囲気。 7つのうち、音色のよい2つを残して、1つはあげ、4つは乞われるままに手放してしまったが、時折、ふと取り出してみてはその奏でる音に癒されている。 |
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すっかり秋も深まり、肌寒さにそろそろ酒にも燗が必要かなあ。と思うのだか、生来の無精さで未だ燗をなさない。 ならばせめて気分だけでも暖まろうか。と盃選びには熱心になれるのだから不思議である。 とはいえ、さほど選択肢が多いわけでもなければ目の覚めるような名品を所持しているわけでもないのでとりあえず身近のモノで間に合わせることとする。 で選んだのが黄瀬戸の鹿文の小皿。 といっても桃山、江戸初期といったものではなくせいぜい江戸時代後期から幕末くらいのお手軽なものである。 ただ皿のなかの鹿が可愛らしく、時代の割に銹た雰囲気の黄色が心身ともに吹きすさぶ寒風にほんのりとした暖かさを感じながら、皿の端に酒の肴を少し添え、それを舐めつつ、ちびりちびりと酒を酌むのである。 |
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「そうだ、蕎麦を食べに行こう。」とでかけたのは、信州治部坂の『おにひら』。
まあ、すごい混雑を堪え忍び、「蕎麦はザルにかぎるね。」と取り出したのは、高麗青磁の盃。 「この丸っこいカタチが好きさ。」と蕎麦汁を注ぎ、猪口として用いる。 次いで嗜む蕎麦湯を楽しみながら、一九の『膝栗毛』の、弥次喜多が箱根でごまのはいに遭って、一杯の蕎麦を啜るあの一節を思い起こしたり。 満腹の後に眺めたる路傍の蕎麦の身はどこか可憐ならんか。 次に、まあ食後のコーヒーでも。とひる神温泉郷のどんつきにある、『十文字 珈琲店』へ。 奇妙でありながら愛嬌あるオジサンの人形がお出迎え。 人形はさておき、店内の雰囲気は抜群であった。 ここでまたおもむろに取り出した先ほどの盃。 これにコーヒーを注ぐ。 我ながら変な客である。 そして、帰宅後はこれで一献。 一盞三役の盃である。 |
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こんな日はちびりちびりと一杯呑むさ。と取り出したるは、先日と同じく半泥子の、やや小振りな唐津の片口。相方である盃は、内田鋼一さんの鎬白磁の小盃で下戸の独酌にはちょうど良い。 大の大人が、ほろ酔いながら空になった片口の高台をなで回すさまは、端から見れば奇妙というほかなく、小盃を掌の上で玩ぶのも酔い人の狂態としかいいようがない。 かくして秋の夜長は更けていくのである。 |




