情報政治学の小部屋

不定期ブログです。HPは https://takase.nufsrings.org/

G20 大阪開催

読売新聞,大阪経済部から取材を受け,記事に名前がでた。
G20の地元経済に対する影響について,である。
「長期的に名声効果をどう生かすかが大事」と指摘した。

地元利益の程度についての判断はむずかしい。取材陣と警備関係者だけで相当な人数になるから,経済効果がないわけはないが,その後の観光への影響となると,確たることは言えない。

伊勢志摩サミットのときの取材でもそう言ったのだが,そもそも経済効果の有無でサミットは評価されるべきではないのである。開催地は,歴史に残るような判断が下された場所となった「栄誉」を最も大切に思うべきで,それによって観光が上向くなら「なおよい」くらいに思っておくほうがよいのではないか。 
中日こどもウィークリーから取材を受けた。国民栄誉賞の政治的利用についてである。

記事でのコメントはこんな感じ。
「受賞者はその時々の人気者。すばらしい功績を持つ人と一緒に大きく報道されれば、首相も輝かしく見える」。
「今回は、日本の伝統文化(囲碁将棋)に興味を持って,という願いも込められているのではないか」。
「政治的に利用しようと思えばできる仕組み。賞の基準を、国民がみんなで考えることも必要でしょう」と話す。

「そんなわけない」についての無茶ぶり取材だけに,コメントは”普通”になりました(笑)。

 
フランスのマクロン大統領のように,新党をつくって左右の既存政党を打破し,凝り固まった既得権益政治の一部に自由競争原理を導入して,社会の活性化を図る。そういう政治は,日本でも「第三極」と呼ばれた新党によって模索されてきた。だが,小泉政権を第三極の先駆と呼ぶなら別だが,第三極の政党活動はいずれもうまくいかなかった。理由を考えてみよう。
 
1  しがらみのなさ過ぎ
既得権益政治は,政治家にとっては安定的な支持母体の獲得を意味する。「しがらみ」はお互い様なのだ。「しがらみのない」第三極の政治家は,不安定な都市部の無党派層に依拠せざるをえず,選挙は「風頼み」になって,支持基盤は安定しない。
そんな政党に身を置くリスクを取れる自負心の強い政治家は多くはなく,しかも彼らは個が強いために分裂しやすい。また新し物好きの都市部の有権者に呼応するように新しい政党に走りやすい。
 
2  縦軸の政治理念の不明瞭
イデオロギーの左右(保革)で「横軸」を設定し,それを団体重視の面倒見政治としてまとめて否定しても,じゃぁ,第三極が有意な「縦軸」を設定できるかというと,そう簡単にはいかない。
単なる「改革」では縦軸にはならないのが日本なのである。横軸政党は,行政改革も地方分権も規制緩和もすでに取り込んでいる。両極端を別にすれば,日本の政党はあまりに柔軟なのである。
保守政党が「大革命」を唱え,新自由主義はよくないと叫ぶ政治家がリベラルを名乗る。こうした状況で,第三極は縦軸を明確化する政治哲学や政治争点を示せず,結局,横軸の真ん中に中途半端に身を置くことになる。これでは大政党にはなれない。

3  争点のイデオロギー性
今回の選挙はとりわけ「横軸」が際立った。憲法改正が争点に上がったからである。安全保障や憲法改正という争点は,一部の人たちに投票行動を促すレベルの「危機感」を与えたようだ。本来の社会主義的な左翼は,福祉国家=大きな国家による国民の生活保障を強調する。面倒見政治が強調される。しかし,今回は違った。漠然と「国家的なるもの」が私生活に干渉するような気分が毛嫌いされたのである。なので,「自由人」でいたい人たちは,人権を大事にし排除もしない「立憲」を好んだ。ならば「リベラル」で合っているのかもしれない。
余談ながら,立憲民主党の宣伝戦略は巧みであった。民進党内の左派的な人が排除されて形成された政党だが,社会党の復活という印象を与えないように,左右ではなく上下であると主張した。つまり,上から目線の自民党と下から目線の立憲民主党という対比を強調したのである。
 

争点ということで言えば,経済はたいした争点にはならなかった。ほどほど経済成長している以上,言い換えれば閉塞状況でない以上,「しがらみ政治が成長を阻む」という指摘は説得力を感じさせない。しがらみや無駄で「身動きが取れない感じ」がするとすれば,それは地方行政の問題点であって,アベノミクスを含め,「何かやっているように見える」国の政党政治の争点としては,説得力に欠けたのではないか。



細川政権から民主党政権までのおよそ20年間は「小沢政局」の時代であった。それはざっくりいえばバラマキ政治の行き詰まりに新たなバラマキ政治で対抗するような政局であった。では,今回の「政局」は,どう特徴づけられるのだろう。
 
現段階では,地域への利益誘導政治に都市の無党派層で対抗しようとする構図がほのめかされる一方,左右ではイデオロギー政治の再来になってきている。つまり,縦軸がはっきりしないなか,左右の軸は鮮明になってきたのである。これでは縦軸に依拠する政党は伸び悩んでしまう。前回の「顔」の話を横に置けば,選挙結果は縦軸の見せ方しだいだという気がしてきた。
 
確かなことは,政局の構図が新たなフェイズに入ったということだ。久しぶりの政局選挙なのである。消えた「第3極」の再来になるのか,それとも左右の新しい政党配置の軸を生み出すのか。選挙のゆくえが楽しみである。
党首イメージを悪くしようと願う取材をよく受ける。政治家の言葉の分析を専門にしているので,言い訳の適切さや,カタカナ言葉の多用について,よく尋ねられる。表面上の取材趣旨はそうなのだが,結局は党首の特徴にまで踏み込まざるをえなくなるような含みを持っている。某紙である党首に対し「誠実さにかける」と言ったことにされてしまい,それ以来,選挙期間中の取材は受けないようにしようと決めた。
 
さて,政党と党首イメージの混同の話である。マスコミは,政策を比較して一票を投じるようにうながす一方,顔で選べと言わんばかりに党首の写真・映像をやたらと使う。この混同を「いけない」と言いたいのではない。そんなものだ,と言いたいのである。
 
庶民の多くは,自分に利益がある政策には関心を持つが,難しい政策はわからない。マスコミで今回の重要政策を人々に尋ねているのを見ることがあるが,多くは自己利益の観点からの発言である。批判したいわけではない。政策による選択は高尚な判断に裏付けられたものとは限らない,と言いたいだけである。余談だが,新手のバラマキ政策に「無償化」というのがあるが,これなどもう少し批判されてもよいのではないか。
 
実際の投票では,政策だけでなく,党首や候補者のイメージが大きく影響する。だれでも社会生活では,他人の「顔色」をうかがいながら,その人の値踏みをすることがある。顔で判断する経験は,政策判断の経験よりも多いのが普通である。選挙で「顔がものを言う」のは当然なのだ(右に写真が出ている拙著にも書いた)。
 
マスコミもそれはわかっている。政治家もそれはわかっている。なので,政策で政党を選ぶように言いながら,マスコミは首相候補の明示をしつこく求める。党首の資質を問題にし,それだけで政党全体の体質まで語ろうとする。若いイケメン政治家がいれば,役職が何であっても発言を求め,大きく報じる。
繰り返すが「いけない」と言いたいわけではない。政策でなく「人」で政党政治が動いたって,それを不思議がる必要はないという,みんなが知っている事実を確認したいだけである。新しいことをやろうとする人が,政策理念は同じでも古臭い顔はいやだから,といって排除の論理を働かせても,それは政治では批判されるべきことではないのではないか?
政策重視の政党政治がタテマエになってはいても,ホンネは人物重視の劇場政治,というのが今回の総選挙である。しかも,このホンネでタテマエのほうも動きだし,憲法論なども活発になされていている。大いによかったではないか。
選挙が盛り上がれば,政治への関心も高まる。総選挙で初めて投票する18歳も大いに活気づいて,政治を論じるとよい。そうなれば,万事,めでたし,である。
久しぶりにブログを書く気になった。取材が多くなって困っているせいでもある。
 
多くの質問には2点の混同がみられる。1つは政局と政策の混同,もう1つは政党と党首イメージの混同である。劇場政治・言葉政治の専門家を名乗る以上,はっきりさせておくべきだろうと考えた。(後者は次回)。
 
いくら指摘してもなかなか理解されないことだが,選挙が「有権者が政策を選択する場」であるのは事実であっても,それは選挙や民主政治の一面でしかない。その本質において,選挙は社会システムが内包する場面転換の手段であり,祭と同じく感情的動員を伴う秩序感の再構築である。だから,政局が動くときには劇場的要素が伴う。登場人物の入れ替わりも激しくなる。
 
人間が社会生活を送るために作り出す制度やルールは時間経過とともに疲弊し,環境の変化に適応できずに行き詰まる。そうした「行き詰まりの打開」こそ,政治の本質的機能である。太古では(王殺しを含む)儀礼や(革命,クーデタなどを含む)内乱が「政治」だった。さすがに殺し合いはマズいということで,選挙になった。繰り返すが,選挙は,政策選択の手段というよりも,行き詰まり打破の手段なのだ。
 
なので,政局が大きく転換するときの選挙は,理屈度外視になりやすい。政策は官僚でも学者でも書けるが,政局は根っからの政治家にしか動かせない。友と敵をはっきりさせるためだけに動くこともある。だが,したり顔の理屈屋にこの「政局政治」はわからないらしい。「しがらみのない政治」や「まっとうな政治」では意味がわからない,などと嘆いてみせる。
今,久しぶりに政局が,日本の政党政治が,動いているのである。日本の政党政治に久しぶりに動きがあった。今回の総選挙は,それだけで十分「大義」があったと言えるだろう。

主権者教育

選挙権を18歳から認める改正公職選挙法が成立した。

18歳選挙権はわたしの年来の持論であるから大いに満足なのだが、
それに伴って必要だと言われている「主権者教育」なるものには不満がある。

たんに投票のまねごとに終始しているように見えるからだ。
正しくは「模擬投票」というらしく、世界でもやっていることだから、という理由で日本でもこれから流行るらしい。
だが、スマホ世代の若者に、投票用紙に字を書いて投票箱に入れる練習をさせることにどれほどの意味があるのか。
機械で預金を引き出す練習をさせて、どうだ金融についてよくわかっただろう、と言っているような気がするのは、わたしだけなのだろうか?

必要なのは、政治とは何かをしっかり教えることである。それは三権分立の知識ではなく、戦略的に考えたり、意見のちがう他者を説得したり、といった「政治的振る舞い」に親しむことである。そして、公共的なるものと私的なるものの相克を意識しながら、なにを価値とし、なにを志向して生きるべきかを悩むことである。

たしかに、模擬投票の前には、各党の公約などを検討させるらしい。ないよりマシだが、これもまた形式である。
利益の誘惑もなければ、政治家の巧妙な演説に幻惑されることもないからだ。諸外国では政治家を呼ぶこともあるらしく、それなら結構だが、日本では無理だろう。

いずれにせよ、リアリティのない「おままごと教育」で、はたして立派な「主権者」が育つのか、はなはだ疑問に思った。
わたしは「主権者教育」ではない、子どもむけの「政治教育」の本を書こうと決めた。


「イスラム国」による日本人の殺人について,安倍総理大臣の中東政策スピーチがいけなかったという意見をよく見る。じつは二週間ほど前,ある前国会議員がブログに外務省の英訳がおかしいのではないかと書いたとき,ある新聞社から確認の取材が来たのだが,わたしはその解釈を否定した。だが,その後も同種の批判は続き,昨日はA新聞のコラムにも安倍首相がイスラム国と戦うと言ったかのような記事が出ていて,ちょっと驚いた。

 

問題とされているのは,117日の「日エジプト経済合同委員会合における安倍内閣総理大臣政策スピーチ」で,「イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。」の下りである。

 

外務省の英訳では「We are going to provideassistance for refugees and displaced persons from Iraq and Syria.We are alsogoing to support Turkey and Lebanon. All that, we shall do to help curb thethreat ISIL poses. I will pledge assistance of a total of about 200 millionU.S. dollars for those countries contending with ISIL, to help build theirhuman capacities, infrastructure, and so on.」となっている。

 

「闘う」と「contend」は,「戦う」や「fight」と違うのだから,これを戦争支援のように解釈するのは,実態はともかく,少なくとも言葉の上からは「ためにする解釈」のように思えた。

 

そもそも「闘う」は,勝敗を決する「戦い」とはニュアンスが違う。どこかの政党が「平和のために闘おう」と呼びかけたりしているように,価値を守ったり,健康を守ったり(闘病)するときの「がんばり」なのだから,「脅威を少しでも食い止める」という文脈なら「闘う」という単語を使うことにさしたる問題はない。

ちなみに,日本政府は「国際社会と連携しつつ、人道支援を更に拡充し、テロとの闘いを進める国際社会において、その責任を毅然として果たしてまいる所存」を表明している。まさか,この「テロとの闘い」という表現まで「軍国主義的でけしからん」とか言って,問題視するんかい? 

 

一方,「contend」だが,共に(con)手を伸ばす(extend)だから,何かを得ようと競争するという意味で,相手を屈服させたり滅したりしようという意味の言葉ではない。英英辞典を見ていたら「fights break out between the members of contending groups.」という例文もあったから,contendfightbattleの前段階である。

 

いずれにしても,言葉政治的に見て,今回のケースで政府はむしろ「無難な表現」に気を配っていた。少なくとも,なにかを政治的に煽ろうとしたようには思えなかった。

 

憲法前文に「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と掲げた以上,日本としても,「専制,隷従,圧迫,偏狭」のかたまりのようなイスラム国とは対立せざるをえないんじゃないかい? 

それでもなお,イスラム国と「contend」する国への人道支援は日本人を危険にさらすからいかん,と言うんかい?

18歳選挙権

2014年12月の総選挙に関するテレビの政治討論番組に出たとき,
出演者が,選挙権年齢を引き下げて18歳にすると,もっと投票率が下がる,と指摘した。

指摘じたいは正しいのかもしれないが,投票率が下がるから選挙権年齢を下げるのはやめましょう,的な言い方はどうよ,と思った。どーせ彼らは投票に行かないでしょう,的な先入観にもカチンと来るものがあった。
反論する時間はもらえなかったけど・・。

若い世代に気に入られたいわけではない。
いまどきの18歳は,せっせとバイトに励む大学生も含めて,その多くが働いている。そして税を納めている。代表なくして課税なし,が原則なんだから,選挙権は与えるのがスジなんじゃないかい?

判断力がないとかなんとか言って,若者の政治参加を阻む議論もあるらしい。ちゃんと公民教育をしないままに与えると,その場の感情的な投票になってよくないとか言う者もいるようだ。でも,そんなに「大人」たちはしっかりとした判断力をもって投票しているのかい? 判断力が必要なら,それを失った高齢者からは選挙権をとりあげるのかい? 

ちなみに,選挙権年齢は世界の標準が18歳。ブラジルやオーストリアは16歳。先日のスコットランドの独立投票は,将来世代への影響が大きいからという理由で,16歳以上に投票権を与えた。日本でも,市町村合併についての住民投票で「16歳以上」とした例がある(神奈川県大和市)。
日本はいま,赤字財政=将来世代へのツケがどんどん増えている。ならば,なおさら,将来世代が投票権をもつのは当然なんじゃないかい?
義務教育が終わったら,日本社会で生きていくのに必要な勉強は
ひととおりした,ということになる。だったら,16歳選挙権だって,あながち非論理的とは言えないんじゃないかい?


総選挙が年末だったため,正月もいろいろと政治評論を読み,考えさせられた。
今年は,とにかく政治についての素朴な疑問を書いてみたいと思った。
ということで,まず選挙運動期間についての疑問を2つ。

1 政治学者にも,2014年12月の総選挙について,「選挙があるとわかってから投票日までの期間が短かった」点に文句をつける者がいた。安倍首相が有権者に考える時間を与えず,選挙をしたから勝ったのだという説明だった。
 だったら,安倍首相のやり方がいかにも悪いという言い方をしないで,公職選挙法が選挙運動期間を「12日間」と定めている点を問題視すればよいんじゃないかい? そもそも,選挙では「事実上の選挙運動期間」の長さが問題なのかい?

2 投票率が低かったことについて,期日前投票が増えているから,もっとこれを利用したらよい,という話もあった。期日前投票は公示・告示の翌日からできる。たしかに便利だ。
 しかし,立候補者の政見放送や選挙公報を見ないうちに,あるいは街頭演説を聴かないうちに投票することは,そんなによいことなの? そんなに積極的にうながすべきものなのかい? 
 そもそも,選挙運動期間は有権者に候補者が政治姿勢や政策などを説明するための時間である。期日前投票をやるなとは言わないけど,「投票日前一週間」くらいに制限したほうがよいんじゃないかい?

[ すべて表示 ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事