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金沢経済同友会での活動 地方に於ける建材の販売施工の事業は、当然だが商品や販路が限定され、日常の業務も、十年一日の如く、とまでは云わないが、単調になり易い。又、情報量も範囲も狭くて少ないのは事実で、何か世界の流れから取り残されて行くような錯覚に襲われるものである。 とりわけ、私の場合は、同族企業の所為もあって、勢い話題も身近な視野の狭いものになってしまうので、交友の範囲を広げ、同時に情報を多く取り入れようと、誘われるままに青年会議所や経済同友会に入り活動した。 世間では、あれは単なる遊びの場だ、と評する向きもあろうが、活用次第では大変に有意義な修行の場であり、情報の入手先でもある。 実際に、ビジネス面では非常に有効で、有難い場であったと実感する。 40歳までの青年会議所では、広報の一環として半年間担当した、ラジオの生放送番組“JCアワー”が、人前で話をするトレーニングとしては最高の修行になったし、その後の経済同友会では、各種の提言に必要であった、行政マンや学者との交流が、視野や知識の拡大と涵養に役立った。又、代表幹事を団長とし、行政の幹部や大学教授を含めた各方面への視察旅行では、一般人の経験出来ない分野もあり、いささかなりとも世界的な視野を持つ事が出来たと思う。中でも、1985年にバンクーバーで開催された、世界交通博見学の際は同市の交通担当者との懇談で、都市交通システムに対する彼我の考え方の差に愕然とすると共に、目から鱗が落ちる思いをしたのが印象深い。公共交通システムは上下水道や通信、送電網と同様に都市インフラとして必要不可欠と看做し、市財政からの支出をメインに、更に各市民の消費電力、各企業の社員数に応じた費用分担を当然とする彼等と、公共交通システムを乗客運賃からの採算性のみで論じている我が国との違いは、“公共“の概念の基本的な差異にあると痛感したものである。 又、在籍期間を通して、会員である地域の有力者に強い人脈を持つようになり、ビジネスのみならず色々な面で大いなる恩恵を受けたのも事実である。 在籍中に委員や委員長となって取り纏めた提言の中で、とりわけ印象に残るものを二、三挙げたいと思う。 昭和58年6月 現在、石川県や金沢市は“観光立県”とか“観光都市”を標榜し、観光産業を基幹産業の一つとして重要視しているが、この風潮は決して古くからあったのではない。せいぜい20数年くらい前からだが、実はそのきっかけを作ったのは、金沢経済同友会の観光問題委員会であったと自負している。 何故だったか思い出せないが、私は当時この委員会に所属し、若手の会員として加賀屋の小田氏と共に中心的に活躍していたのである。委員は殆どが観光事業を営む人達で、私一人が観光とは全く縁のない異業種の人間であったので、新鮮な感触に惹かれたのかも知れない。 当時の観光産業は“水商売”と俗に云われ、他の産業に比し、一段と程度の低い商売と看做されていたのである。だから、産業としては優秀な人材が集まり難く、一流の銀行も中々相手にしては呉れないのが実態であった。然し、当時から私は、東京や名古屋での生活体験から、郷土の自然が如何に素晴らしいか実感しており、これを生かす産業としては観光業が最も適していると考えていたのである。 委員会は当時石川の観光業の重鎮だった山代のホテル百万石の吉田社長や和倉温泉、加賀屋の小田貞彦専務(当時)等のお歴々の他に、観光バス会社経営者などがメンバーで、石川の観光産業の実態調査を行い、今後のあるべき姿を提言書として業界はもとより、県、市等の行政機関やマスコミへ提出する事を目指した。事務局を通じて、行政や業界の資料を集め、金沢大学や経済大学の先生を呼んで勉強会を持ったり、非常に多忙な人達ばかりだったが、実態調査のため全員でバスを貸し切って県内を一巡したりした。 印象に残っているのは、奥能登のランプの宿へ全員で泊まった際に、国内でも超一流とされる温泉ホテルの経営者連が電気も来ていない鄙びた宿で、「これが観光の原点だなぁ」と感慨にふけっていた姿だ。 確かに、採れたての魚を串刺しにして囲炉裏でゆっくりと時間をかけて焼いて食べさせてくれたが、実に美味かったのを忘れない。 唯、ここは例外で、全般的に云って、現地の人達の観光へのアプローチは決して適切とは云い難かった。例えば、この視察旅行で我々が珠洲の市役所を訪れた際に、市は我々を歓迎し昼食会を兼ねて意見交換会を催してくれたが、市の観光部門の責任者が、観光客を増やすにはどうすれば良いのか、ご意見を伺いたい、と聞かれ、私は、地域の優れた面を自覚し、全面に押し出すことに尽きるのではないか、と答え、次のように云ったのを覚えている。「只今は美味しいトンカツをご馳走になりました。ご馳走になっていながら、けちをつける訳ではありませんが、実はここに能登の方々の観光に対する考え方のズレを感じました。我々も含めて当地へ観光に訪れる者が期待するのは、美しい自然と風景であり、素朴な人情であり、地場産の食材と郷土料理です。トンカツは日本全国何処にでもある料理で、東京などではもっともっと美味いトンカツが食べられるのですから、遠方からの客には地元で採れる海産物や野菜を主体にした料理を出すべきではないでしょうか。皆様は、日常の食べ物を遠来の客にだすのは失礼と思い、トンカツにされたのでしょうが、観光客の方は能登でしか食べられないものを求め、又、喜ぶのですよ。」 この様な活動をして、半年後に提言を纏める仕事を引き受けた時に私はタイトルをどう付けようか考えた。多少はインパクトのあるものにしたいと思っていた処、丁度、当時の世界的ベストセラーであった、アルビン・トフラー著“第三の波”に便乗し、“第三の基幹産業・・”あすを開く石川の観光のために“・・・”と題名を付けることにした。 内容的には、県内の観光産業が、表面的な数字よりも遥かに大きな経済的波及効果を持ち、繊維産業や織機、工作機械等の鉄工業に次いで三番目の基幹的産業となっている実態をグラフや資料で示し、付加価値の大きい産業実態であることを認識すべきであり、将来性も期待出来る点を強調したものであった。 この提言書は、昭和58年6月に金沢経済同友会の提言書として出され、会員はもとより、マスコミ、県、市の各部署にもくまなく配布されたが、それ以後は目に見えて観光産業に対する世間の見方が変わり、今日では観光事業は押しも押されもせぬサービス産業の雄として石川県の基幹産業の一つとして、県民に認知されているのはご承知の通りである。とりわけ、当時のメンバーの小田貞彦氏が、ご自分の事業に実践され、現在は観光カリスマとして全国的な活躍をされているのを見て、実に嬉しく思っている。 中村教授の推論を裏づける詳細なデーターと、それに基づく論文(“新しい金沢像を求めて”ー転換期の都市経済戦略―)が同友会から発刊され、私は、その要旨と、同友会の常任幹事だった清水忠氏の意見などを加味し、更に少しばかりの提言を書き加えた、金沢経済同友会としての提言書“オーバミックポリスへの道”を約一ヶ月かけて執筆した。 提言書の骨子は、一言で云えば、“金沢は、一般に認識されているような単なる消費都市や管理中枢都市ではなく、内発型の発展をして来た、れっきとした工業都市であり、然も極めてバランスの取れた産業構造を持つ稀有な都市で、今後の地方都市のモデルケースであるから、これを維持発展させていくべきであり。その為には、有為の人材が集まる都市機能と景観を維持すべし”とするもので、従来からの、百万石の遺産で食っている町だと云う金沢に対する常識やイメージを覆し、県や市の政策に多大な影響を与えたと自負している。 因みに、オーバミックとは、Original 個性的 独自性 Balance 調和の取れた
Middle Class 中規模
の頭文字を合成した私の造語である。 |
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