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立法趣旨の尊重を

立法趣旨の尊重を

年明け早々に今年の10大ニュース入りが確実と思われる、ライブドア社の経済事犯疑惑が報じられた。
小泉内閣成立以来、グローバル・スタンダードの名の下に推し進められた規制緩和政策は、硬直化しつつあった政官財の体制を揺さぶり、IT産業の急速な発展と重なり、一部の新規事業や企業の爆発的な伸張を見せ、時代の波に乗った六本木族と呼ばれる人種が生まれ、連日、マスコミの脚光を浴び、自民党も自党の政策の成果とばかり選挙戦でも大いに利用した。
その様な風潮の中で、どうも胡散臭いと言うか、不可解な部分があり、釈然としなかった私にとり、今回の摘発は当然と思う。

随分以前の話になるが、巨人軍に江川選手が協定の隙間につけ入って入団し、”エガワル”と云った流行語を流行らせた頃を境に日本はおかしくなって来た。
法律に触れなければ何をやっても良い、と言う、(古来、日本社会に無かった)考え方が主流になり、然も、絶対価値が”お金”と来れば、結果は自ずからこうなるのは当然であろう。

然し、不文律と言うように、法とは元来明文化されていない”掟”が起源であるが、社会の幾何級数的発展の結果、予期せぬ事態がしばしば生ずる。現代の法治国家は、罪刑法定主義を採り、全ての罪刑は明文化した法律で定めているのだが、今日の様に激動する社会では、法律は常に後追いの形にならざるを得ず、従って、今回のライブドア社のごとく法規制の前に行動する事で不当な利得を得ようとする者を防止出来ない。故に、この風潮の対応策として、”立法趣旨”を重視する社会的合意が必要と思われる。

あらゆる法律には必ず立法趣旨がある。何を目的に創られた法律なのか、が重要な要素であるから、仮に明記されていない事項であっても、法の趣旨に反する行為を違反と看做す風潮が強くなれば、社会を敵に回すような行動を取る者は自滅する筈である。

我が国古来の優れた”含羞””清貧”の精神文化を、現在の拝金主義的風潮のアンチテーゼとして再認識しようではないか。

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金沢経済同友会での活動

地方に於ける建材の販売施工の事業は、当然だが商品や販路が限定され、日常の業務も、十年一日の如く、とまでは云わないが、単調になり易い。又、情報量も範囲も狭くて少ないのは事実で、何か世界の流れから取り残されて行くような錯覚に襲われるものである。

とりわけ、私の場合は、同族企業の所為もあって、勢い話題も身近な視野の狭いものになってしまうので、交友の範囲を広げ、同時に情報を多く取り入れようと、誘われるままに青年会議所や経済同友会に入り活動した。

世間では、あれは単なる遊びの場だ、と評する向きもあろうが、活用次第では大変に有意義な修行の場であり、情報の入手先でもある。

実際に、ビジネス面では非常に有効で、有難い場であったと実感する。

40歳までの青年会議所では、広報の一環として半年間担当した、ラジオの生放送番組“JCアワー”が、人前で話をするトレーニングとしては最高の修行になったし、その後の経済同友会では、各種の提言に必要であった、行政マンや学者との交流が、視野や知識の拡大と涵養に役立った。又、代表幹事を団長とし、行政の幹部や大学教授を含めた各方面への視察旅行では、一般人の経験出来ない分野もあり、いささかなりとも世界的な視野を持つ事が出来たと思う。中でも、1985年にバンクーバーで開催された、世界交通博見学の際は同市の交通担当者との懇談で、都市交通システムに対する彼我の考え方の差に愕然とすると共に、目から鱗が落ちる思いをしたのが印象深い。公共交通システムは上下水道や通信、送電網と同様に都市インフラとして必要不可欠と看做し、市財政からの支出をメインに、更に各市民の消費電力、各企業の社員数に応じた費用分担を当然とする彼等と、公共交通システムを乗客運賃からの採算性のみで論じている我が国との違いは、“公共“の概念の基本的な差異にあると痛感したものである。

又、在籍期間を通して、会員である地域の有力者に強い人脈を持つようになり、ビジネスのみならず色々な面で大いなる恩恵を受けたのも事実である。

在籍中に委員や委員長となって取り纏めた提言の中で、とりわけ印象に残るものを二、三挙げたいと思う。



提言 “第3の基幹産業―あすをひらく石川の観光のためにー”

昭和58年6月

                  

現在、石川県や金沢市は“観光立県”とか“観光都市”を標榜し、観光産業を基幹産業の一つとして重要視しているが、この風潮は決して古くからあったのではない。せいぜい20数年くらい前からだが、実はそのきっかけを作ったのは、金沢経済同友会の観光問題委員会であったと自負している。

何故だったか思い出せないが、私は当時この委員会に所属し、若手の会員として加賀屋の小田氏と共に中心的に活躍していたのである。委員は殆どが観光事業を営む人達で、私一人が観光とは全く縁のない異業種の人間であったので、新鮮な感触に惹かれたのかも知れない。

当時の観光産業は“水商売”と俗に云われ、他の産業に比し、一段と程度の低い商売と看做されていたのである。だから、産業としては優秀な人材が集まり難く、一流の銀行も中々相手にしては呉れないのが実態であった。然し、当時から私は、東京や名古屋での生活体験から、郷土の自然が如何に素晴らしいか実感しており、これを生かす産業としては観光業が最も適していると考えていたのである。

委員会は当時石川の観光業の重鎮だった山代のホテル百万石の吉田社長や和倉温泉、加賀屋の小田貞彦専務(当時)等のお歴々の他に、観光バス会社経営者などがメンバーで、石川の観光産業の実態調査を行い、今後のあるべき姿を提言書として業界はもとより、県、市等の行政機関やマスコミへ提出する事を目指した。事務局を通じて、行政や業界の資料を集め、金沢大学や経済大学の先生を呼んで勉強会を持ったり、非常に多忙な人達ばかりだったが、実態調査のため全員でバスを貸し切って県内を一巡したりした。

印象に残っているのは、奥能登のランプの宿へ全員で泊まった際に、国内でも超一流とされる温泉ホテルの経営者連が電気も来ていない鄙びた宿で、「これが観光の原点だなぁ」と感慨にふけっていた姿だ。

確かに、採れたての魚を串刺しにして囲炉裏でゆっくりと時間をかけて焼いて食べさせてくれたが、実に美味かったのを忘れない。

唯、ここは例外で、全般的に云って、現地の人達の観光へのアプローチは決して適切とは云い難かった。例えば、この視察旅行で我々が珠洲の市役所を訪れた際に、市は我々を歓迎し昼食会を兼ねて意見交換会を催してくれたが、市の観光部門の責任者が、観光客を増やすにはどうすれば良いのか、ご意見を伺いたい、と聞かれ、私は、地域の優れた面を自覚し、全面に押し出すことに尽きるのではないか、と答え、次のように云ったのを覚えている。「只今は美味しいトンカツをご馳走になりました。ご馳走になっていながら、けちをつける訳ではありませんが、実はここに能登の方々の観光に対する考え方のズレを感じました。我々も含めて当地へ観光に訪れる者が期待するのは、美しい自然と風景であり、素朴な人情であり、地場産の食材と郷土料理です。トンカツは日本全国何処にでもある料理で、東京などではもっともっと美味いトンカツが食べられるのですから、遠方からの客には地元で採れる海産物や野菜を主体にした料理を出すべきではないでしょうか。皆様は、日常の食べ物を遠来の客にだすのは失礼と思い、トンカツにされたのでしょうが、観光客の方は能登でしか食べられないものを求め、又、喜ぶのですよ。」

この様な活動をして、半年後に提言を纏める仕事を引き受けた時に私はタイトルをどう付けようか考えた。多少はインパクトのあるものにしたいと思っていた処、丁度、当時の世界的ベストセラーであった、アルビン・トフラー著“第三の波”に便乗し、“第三の基幹産業・・”あすを開く石川の観光のために“・・・”と題名を付けることにした。

内容的には、県内の観光産業が、表面的な数字よりも遥かに大きな経済的波及効果を持ち、繊維産業や織機、工作機械等の鉄工業に次いで三番目の基幹的産業となっている実態をグラフや資料で示し、付加価値の大きい産業実態であることを認識すべきであり、将来性も期待出来る点を強調したものであった。

この提言書は、昭和58年6月に金沢経済同友会の提言書として出され、会員はもとより、マスコミ、県、市の各部署にもくまなく配布されたが、それ以後は目に見えて観光産業に対する世間の見方が変わり、今日では観光事業は押しも押されもせぬサービス産業の雄として石川県の基幹産業の一つとして、県民に認知されているのはご承知の通りである。とりわけ、当時のメンバーの小田貞彦氏が、ご自分の事業に実践され、現在は観光カリスマとして全国的な活躍をされているのを見て、実に嬉しく思っている。



提言 “オーバミックポリスへの道”   昭和61年8月 



この数年後に、私は、地域経済発展委員会の委員長として、当時、既に我が国では有数の地域経済学者として嘱望さていた、金沢大学の中村剛治郎教授の助けを借り、金沢の経済発展を分析し将来に繋げる提言を出す作業に入った。この提言を出すに至るまでの勉強と討論は、私の郷土に対する認識を変え、同時に世間の常識が決して正しいものばかりではないと知ると同時に、北陸に於ける金沢の存在感は時間と共に益々増強され、決して揺らぐことはないと確信するに至ったのである。

中村教授の推論を裏づける詳細なデーターと、それに基づく論文(“新しい金沢像を求めて”ー転換期の都市経済戦略―)が同友会から発刊され、私は、その要旨と、同友会の常任幹事だった清水忠氏の意見などを加味し、更に少しばかりの提言を書き加えた、金沢経済同友会としての提言書“オーバミックポリスへの道”を約一ヶ月かけて執筆した。

提言書の骨子は、一言で云えば、“金沢は、一般に認識されているような単なる消費都市や管理中枢都市ではなく、内発型の発展をして来た、れっきとした工業都市であり、然も極めてバランスの取れた産業構造を持つ稀有な都市で、今後の地方都市のモデルケースであるから、これを維持発展させていくべきであり。その為には、有為の人材が集まる都市機能と景観を維持すべし”とするもので、従来からの、百万石の遺産で食っている町だと云う金沢に対する常識やイメージを覆し、県や市の政策に多大な影響を与えたと自負している。

因みに、オーバミックとは、Original 個性的 独自性

             Balance 調和の取れた

Middle Class 中規模

の頭文字を合成した私の造語である。



ともあれ、私は金沢経済同友会の各種委員会に所属し、後には都市ビジョン委員長や常任幹事として活動したが、その間に、福光、渋谷両代表幹事や清水 忠常任幹事を始め多くの知人、更には、地域内の各大学の諸先生など博学、有識の諸氏から多くを学ぶことが出来た事を心から幸せに思う。

人生の岐路 2

(<1)

次の転機は大学卒業時にあった。
私は子供の頃から、手が器用で、遊び道具類も自分で作った物が多く、命中率抜群の引き金の付いたゴム鉄砲やスチームで動く船など作って庭で遊んだものだ。
長じて、対象が自動車やバイクになり、特にバイクは親父にせがんで買って貰った、ホンダやハーレーなどを中学生時代に既に無免許で乗り回していた。今からは想像も出来ないが、交通量も少なく、のんびりとした時代だったと思う。
大学時代も友人と一緒に、バイクで箱根や伊豆方面をツーリングして楽しんだが、留学断念もあって関心は次第に自動車に移り、就職を考える時期となった際に、当時の日本の自動車メーカーのトップだった日産自動車に勤めたいと考え、大学の掲示板で、同社入社に学校推薦の枠がある事を知り、早速、申し込んだ。
当時、日産は企業の将来性を買われ、人気会社の筆頭で入社希望者が多く、入社試験での採用を行なっていたが、在京の6つの大学からは毎年各6名だったと記憶するが、計36名を優先的に採用する制度を採っていたのだ。
勿論、希望者が殺到するので、大学では、成績順で推薦者を決めていたが、私は幸いにも枠内に入って推薦を受け、同社からも内定通知を受け、事実上入社が決まった。
早速、その旨を手紙(今と違い、未だ市外通話は料金が高かった)で両親に知らせたのと行き違いに、その晩に親父から電話があり、お前の勤め先を決めたぞ、と云う。私は驚いて、何処?と聞くと、興亜火災と云う中堅の損保会社だと判った。
実は、親父は戦前には石川県で合同運送なる運送会社を経営していたが、国策で全国の運送会社が一本化され、日本通運となった際に、身を引いた経歴があるのだが、当然に日本通運社内には既知の人物も多く、特に当時、同社の社長で、経済界でも名を馳せ、後に日通“金の延べ棒”事件で新聞紙上を賑わせた、福島敏行氏とは昵懇の仲で、時折上京し旧交を温めていたらしいが、数日前の上京の際に、家族の話になり、先方から是非、息子さんを我が社の系列損保に、と云われ、それじゃ頼みます、と応諾してしまったとの事だった。
寝耳に水とは将にこれで、冗談じゃないよ、と叫んだのを覚えているが、親父から、俺の顔を潰す気か、と云われ、不承不承ながら承諾してしまった。現代の若者には想像出来ないくらいに、親父の権威があった時代だし、私も従順だったのだと思うが、その様な経緯で就職先は興亜火災海上保険(株)に変わったのであった。
勿論、正式に入社試験を受けてのことではあったが・・・・。
日本橋の袂にあった本社で、数ヶ月の研修を受け、希望して名古屋支店に配属となった。此処では、初めての本社採用の大学卒新入社員が来た、と、一寸した騒ぎで、支店長はじめ総務課長が色々と面倒を見てくれた。独身寮がなかったので、賄いつきのアパートを探してくれたが、見つかるまでの間、会社御用達の料亭に約一ヶ月間逗留させて貰う歓迎振りだった。名古屋ではその後一年半のサラリーマン生活を送ったが、営業畑の支店長の方針で、のっけから営業に回され、支店随一の腕利き社員の助手となった。処が、幸か不幸か、当の腕利き社員の村瀬氏が突然に中堅商社にスカウトされ、急遽、ピンチヒッターとして彼の業務を全て新入社員の私が担当させられることとなり、凄いプレッシャーの中を毎月の業務成績表の数字に追われながら、炎天下の名古屋市内を主に愛知、三重両県内を大型スクーターで駆け回ったものであった。凄腕の後釜だから、支店で最も大きい目標数字は当初はとても達成出来ず、寝ても覚めても数字、数字の毎日でげっそり痩せてしまい、帰郷した際に両親から退社を迫られた程だったが、努力の甲斐があったのか、ある時点から成績が急上昇し、名古屋支店のトップの成績を収める程になった。私の持論である“営業即農業論“はこの時の実感で、畑を耕し、種を撒き、時には肥料を施し、雑草は取り除き、柵をして鳥獣の食害を防ぐ、一連の作業は、将に営業活動そのもので、全く同じである事に気付いたのだ。この様にみっちりと営業の基本をを叩き込まれ、ある種の自信をつけた事が後の脱サラと郷里での会社経営に繋がって行ったのだ。
話は変わるが、最近になって、当時の名古屋支店の緒先輩と再会したり、メール等で近況を知らせ合う機会が出来たが、当時の私の印象がかなり強かったらしく、色々と良く覚えておられ、女子社員の注目の的だった、なんて冷やかされ、面映い思いをした。
保険会社に就職せずに、興味のある自動車企業の日産自動車へ就職し、アメリカ市場でも開拓していた方が楽しかったかも知れないが、いずれが良かったのかは、これも判定は不可能だろう。然し、親父がこの時も私の行く道を変えたのは間違いない事実である。
さて、次なる分岐点は、多分、脱サラして、辻商事を立ち上げた時だろうし、別項で書いた、北陸ヤマハホーム機器設立とその解散、更には、辻商事社長を辞め、辻興産を造った時、等々数え上げれば幾つも思い当たるが、いずれも金沢を地盤に建設関連の零細企業を経営する点では同じだから、枝分かれ程度のものだろう。
又、ビジネスの面だけではなく、個人的な結婚、子供の誕生、両親の死等も分岐点に違いないので、いずれ機会があれば、それ等に就いても書いてみたいと思う。

人生の岐路 1

人生の岐路

70歳を超えたが、自覚的には4〜50代のままで、自分が年をとったとは露程も思っていない、とは云うものの、肉体的には、色々と衰えを自覚する所もある。とりわけ、網膜剥離の手術後、目の疲労が酷いのには往生する。朝、新聞を二紙読むのが習慣だが、これで、その日は終日、目が霞むのだ。だから、テニスをやる日は新聞を読むのはプレーの後にしている。テレビやパソコンも悪い。だが、不思議なことに、自然の風景はどれだけ見ていても全く違和感が無い。人工的なものを見て居ると疲れるのは何故だろうか。
いずれにせよ、情報の80%以上は、目から吸収するのだろうから、目が完璧でないのは困ったものである。
さて、ここまでの自分の人生を振り返ると、あれが分かれ道だったのだな、と思う出来事が幾つかある。場合によっては、全く別の人生を送っていたかも知れないのだ。その場面や出来事を思い起こしながら、幾つかの人生を想像するのも一興かも知れない。

その最初は、大学時代にあった。実は、高校3年の末期に、骨髄縁を患い、肋骨を一本切除し、私は危うく死を免れたが、その時に大量に投与されたサルファ剤が原因で肝機能障害を患い、一年留年を余儀なくされ、その後の大学時代はもとより、40歳過ぎまで、体調は非常に悪かったのである。
戦後10年を過ぎ、欧米では既に抗生物質(ペニシリン)の使用が一般化していたが、我が国では、漸く、特効薬として大学病院などが輸入品を試験的に使い始めた頃で、医者もその効果に自信が無かったと見え、平行して、従来からの対症薬であるサルファ剤を大量に注射し、肝臓を極度に損傷させてしまったのだ。
余談だが、それ以来、私の薬品に対する不信感は根強く、余程の事がない限り薬は用いないようにしている。風邪などで、薬を飲むことは、まず、ない。
さて、慶応大学に合格し、上京する際に、医者から云われた事は、「絶対に麻雀には手を出すな」だった。当時の学生の娯楽の筆頭は、麻雀とパチンコだったが、麻雀はのめり込む奴が多く、しかも若さに任せての徹夜マージャンなど当たり前の時代だから、体の弱い者には危険と判断したのだろう。
パチンコは嫌いで、全くやらなかったから、アルバイトもしない学生には授業に出るのが唯一の時間つぶしで、自分で云うのも何だが実に真面目に講義を聞き、勉強したものだ。慶応大学の教授陣は、夫々の分野で著名な学者が多く、自説を強調するので講義も面白いので、熱心に勉強した。だから当然、自分で云うのも何だが成績は良かった。特に、あの教授の“A”(成績はA.B.C.DでDは不合格)は絶対に取れない、と噂される科目は、執念を燃やして勉強したから、軒並み”A“を取って皆に自慢したものだ。大学の各専門科目の講義時間は、春休み、夏休み、期末休み、更には時に欠講があったりして、意外に少なく、真面目に講義に出席していれば、その教授の主張点が良く判った。だから期末試験は、その数項目の中から、直前2年間の試験問題を除けば殆どの出題が予想出来た。故に十分な準備をし、場合に依っては、模範答案まで作って各試験に臨んだから、好成績は当然だったろう。
専攻は国際政治学で、ゼミも優秀な学生が集まっていた藤原ゼミナールに入った。担任教授の藤原博士はハーバード大出身の政党政治学の権威だったが、私が4年に進学した時にフルブライト留学生としてハーバード大へ推薦するがどうかね、と打診があった。同留学制度はアメリカ上院議員、フルブライト氏が中心となって創設された制度で、授業料はもとより生活費に至るまで全額が支給される垂涎の制度だったから、私は勇躍して郷里の父母に伝えた処、案に相違し両親から大反対されてしまった。理由は、私の健康を憂慮したからで、水の違う遠隔地へ行けば、病弱な体がもたないからダメ、と云う。
確かに、航空機で、一眠りする間に飛んで行ける現在と違って、半世紀前の当時は未だ船で数週間かけて渡航するのが一般的で、“あこがれのハワイ航路”なんて流行歌が歌われていた時代だから、アメリカ大陸へ渡るともなれば、“水盃もの“だったのである。両親とすれば、病弱な息子が誰一人身寄りの無い海の向こうで、病気にでもなったら大変、と懸念したに違いない。現代と違って、親父の権威は絶対だったから、私は残念ながら断念せざるを得なかった。今から思えば、実に勿体無い事をしたと思う。そしてこれが人生の転轍機を学者から経済人の方向へ切り替えた瞬間で、もし、あの時に留学していたならば、その後は母校の慶応大学に戻って教授にでもなって、全く別の人生を送っていただろう。どちらが良かったのかは判らないが、少なくとも、自分がやりたかった事が実現しなかった悔いは残った。だから、後年、娘のまゆみが、イギリスへ留学したいと云った際に、本人の意思を尊重し、許したのも、実は自分の過去を思い起こしたからだ。

バイクと自動車 2

(< 1 )

傍目から見れば、危ないと感じるかも知れないが、レースの様な走り方は一般道路ではやらないし(出来ないと云った方が正しい)、完全装備をしている限りは、余程の事、例えば、車と正面衝突するとか、谷底に落っこちる、等しない限り、大きな怪我をする確率は極めて低いもので、現に、私は中学生時代から、中断している期間はあったが60歳過ぎまで10台のバイクを所有したが、その間に転倒した事も何度かあるが、怪我は一度もしなかった。一般には、子供がバイクにのるのを禁ずる家庭が多いが、私の場合は、むしろ勧めたくらいで、娘も大学への通学にヤマハのアメリカンタイプのビラーゴ(400cc)使っていたし、息子はイタリア製バイクに乗って楽しんでいた。
これまでに乗ったバイクで、最も印象に残るのは、スズキGS650GとBMW1100RSだ。共にシャフトドライブのロングツーリング用バイクだが、これで山野を駆ける楽しさはバイク乗りの醍醐味を味わわせてくれた。早朝、静かな住宅街をバイクを手押しで大通りまで出し、そこからエンジンをかけて走り出し、2時間半程で乗鞍岳の頂上までひとっ走りする等は文字通り朝飯前だった。10年程前までは、上高地も夏以外のシーズンオフ期は河童橋まで一気に乗り入れる事が許されていたから、早朝に家を出て、大正池湖畔で一眠りして昼過ぎには家に帰るツーリングはよくやったものだ。
それ程好きなバイク乗りを止めたのは、60歳の時に患った、網膜剥離が理由だ。治療は目なのに全身麻酔をする大掛かりな手術で、術後の痛みは将に言語に絶するものであったから、眼科の医者から、バイクで転んだりして頭に強い衝撃を受けると、再発する可能性があると脅かされ、あの痛みだけは二度と経験したくないばかりにバイクに乗るのを諦めたわけだ。
処が、網膜剥離の手術で入院中に、妻が買って来た自動車雑誌が、次の“玩具“を購入するきっかけとなったのは皮肉としか云いようがない。スーパーセブン・バーキンがその玩具である。
イギリスには、古くからのスポーツカーが多い。ジャガー、アストンマーチン、MG、ロータス等の名前がすぐに浮かぶだろう。
その中で、ロータスは天才的技術者と云われた、コーリン・チャップマンが独創的な車の数々を世に送り出し、レース界でも度々栄冠を得たブランドだが、その中のスーパーセブンは極めてシンプルな構造で、車が好きでガレージ作業を楽しむ人達向けに作られた組み立て式キットカーだった。しかし、シンプル・イズ・ベストの典型とも云うべき傑作車で人気が高く、完成車として売られ始め、今では全世界に愛好家が居て、本家のロータス社が当車種の製造を中止して数十年経た後もライセンスを得て製造する会社が世界に数社も現存する。
バーキンはその中の一社で南アフリカ連邦にあるが、エンジンやミッション等の主要部分は宗主国イギリス製で、最もオリジナルに近いセブンと云われているので、購入したのだ。
北陸にディラーが無かったので、大阪の代理店まで車の専門家と一緒に出向き、現物を確かめ、試乗した上で購入契約をした。
私は、これまでに十数台の車を愛用したが、乗っていてこれ程に面白い車は初めてであった。感覚的に、バイクと同じで、ドライバーの意思と車の動きが連動するのである。
走り出し、左右に曲がり、停止する事が、自由自在と云うか、意のままなのだ。そんな事は当たり前だ、とお叱りを受けそうだが、他の如何なる車とも違う感覚で、例えば、高速道路を走っていて、前の車を追い越そうと思った瞬間に既に追い越してしまっているのである。一瞬の裡に追い越し車線に出て、追い越し、再び走行車線に戻る動きが意識と連動して可能なのだ。これは正しくスーパーカーでも真似の出来ない性能だが、理由は簡単、徹底した軽量化のなせる技なのだ。
車体はパイプフレームにアルミを張った、屋根もドアも無い車で、車重は僅かに500キロ。軽自動車よりも軽いこのボディーに1700CCツインキャブの135HPエンジンを積むのだから、俊敏この上ないのは当然で、僅かにアクセルを踏むや否や後輪から煙を上げて脱兎の如く飛び出すのである。スタートダッシュだけではなく、100キロのスピードで走行中でも、更なる加速は抜群で、しかもハンドルはクイックで手首を一寸曲げる感じだけでヒョイッと方向を変えるから、追い越して又元の斜線に帰るのが瞬間的に出来る訳だ。運転席から手を垂らせば、指が地面に着く程に車高が低く、車幅は広く、タイヤも幅広、ときているから、ミズスマシの様な動きが出来、しかも車重の軽さが慣性を抑える為に傾いたりタイヤが鳴ったりせずに、スイスイ走れるのだ。追い越された方も、あれっと競り合う間もないのだから競走にもならない。
カヌーにエンジンを載せ、4輪を取り付けた様な車、と云えば判り易く、まさに4輪のバイクだから、これで山野の駆け巡る痛快さは最高で、実に楽しい乗り物だった。特筆すべきは、本来のスポーツカーの持つ、一種のスパルタンな性格が強く残っている点だろう。
フロントウインドウは平面ガラスで直立に近くて小さい上に、左右の窓ガラスもないから、風の巻き込みは物凄く、帽子などは余程きっちり被っていないと簡単に吹き飛んでしまうのだ。帽子どころか、助手席に置いた物でも、軽い物は負圧で空に吸い上げられてしまう事が度々あった。
その点、最近のスポーツカーは空力学的に色々と配慮されているので、オープンカーであっても、殆ど室内に風を巻き込まないのは良いが、私の個人的な好みから云えば、何だか物足りない感じがする。又、安全性に配慮し、ボディーも強化され、エアバックやら何やらいろいろ装備が付けられ、重くなってしまい、本来の俊敏さを失ってしまった。重い車に、どんなに馬力の有るエンジンを載せても、慣性の法則には従わざるを得ないので、直線での走りは兎も角、ワインディングでは軽量なスーパーセブン・バーキンの方が文句なしに身のこなしが早く、操る面白さが勝るのである。
このバーキンは、約4年間程乗ったが、ある時、わき見運転をしていて道路側溝に突っ込み、ボデイーが大破し、廃車にしてしまった。
処で、現在乗っているのは英国ジャガー社製のディムラー4.0で、既に17年間愛用している。優美なボデイーと上品な内装が気に入って長期間の使用となったが、故障も殆ど無く、しかも全く飽きが来ない。運転席に座っているだけで豊かな気分になれるのは、内装が本物のウッドと仕立ての良い皮製シートのなせる技だろうか。
イギリスの田舎道ではよくクラッシックカーに乗った白髪の老夫婦が車をゆっくりと走らせている風景を見掛けるが、中々渋くて良いものだ。私も是非、あやかりたいと思っているのだが、車も建物と同様で古くなるガタが来るし、当方も体力的に反射神経や視力も衰えるから果たして今後、どれだけ運転を続けられるかは判らない。

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