|
下記サイトに試聴あり
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3530876
多彩な音色と重すぎない打鍵に無限のイマジネーションを持っていて、(知らないけど)恐らくネアカなピアニストをもう一人知っている。エラートに全集を録音しているモニク・アースだ。フィリップスに全集を録音しているウエルナー・ハースと同じくHaas姓だが別人なので注意が必要だ。フランス人はHは発音しない。
私が学生の頃、ドビュッシーの演奏で評論家うけが良かったのはミケランジェリ、フランソワ、ギーゼキングといったところだった。だがフランソワは私が期待したほどではなく、ミケランジェリは最初の71年の「映像」は良かったが、78年と88年の前奏曲集あたりから腰が重くなってしまった感じがする。
ミケランジェリはまじめすぎるぐらい大変生真面目な音楽家で、そうであるがゆえに音を奏でることが恐くなってしまったことは理解できる。晩年のクライバーと一緒だ。だがそれが音に出てしまうと音楽が前に進まなくなってしまうのだ。ベートーベンやショパンのようなガチっとした音楽はそれでも形になるだろうが、ドビュッシーの場合はそれはいかがなものだろうか?
(語弊のある言い方かも知れないが)ドビュッシーは「鬱」の状態でなく「躁」の状態で弾く音楽なのではないだろうか。ミケランジェリが84年に録音したが発売をOKしなかったシューマンのコンチェルトも最近発売されたが同じように音楽が停滞している印象を受ける。ミケランジェリの全盛期は70年代前半までだと私は思う。
maskballさんお勧めのギーゼキングも実は学生当時かなり聞いた。だがモノラルの古い音からドビュッシーの無限のイマジネーションを聞きとるには音に入っていない部分を聞き手の側で補完しなければならないので、聞き手にも高いイマジネーション能力が求められる。maskballさんのような耳の肥えた方であればそれが可能だが、少なくとも当時の私には難しかった。今なら可能かも知れないのでいつか再チャレンジしようと思う。maskballさんにはギーゼキングのドビュッシーの「ツボ」をご教授頂きたい。
そういう訳で、もっと良い演奏がないかなあと捜し歩いて私がたどり着いたのがアースおばちゃんのこの全集だ。多彩な音色に、落ち着いているがそれでいて前へ前へと進むわくわくする気分、まるでおばあちゃんが孫に絵本を読んで聞かせるような絶妙の語り口だ。アースおばちゃんはきっと幸せな人生を送った方に違いない。
ドビュッシーのピアノ音楽はつまらないと実は思っている方にこそこの演奏を聴いてほしい。おばあちゃんに絵本をせがむ子供のように「もっと、もっと」状態になることは請け合いだ。
当時エラートの国内販売権を持っていたRCAビクター(後のBMGビクター)のLPやCDを聞きながら、評論家の言うことはあんまり当てにはならないものだなと思ったのもこの頃だ。日本では地味な評価だが海外では数々のそうそうたるディスク大賞を受賞した名盤だ。エラートの販売権は現在はワーナーミュージックが持っているが、ワーナーはこの演奏の価値が分かっているようでSIM−CDにまでしてくれている。ぜひ多くの人に聞いてほしい。
Disc 1
ドビュッシー:
・ボヘミア風舞曲
・2つのアラベスク
・夢
・バラード
・舞曲
・ロマンティックなワルツ
・ノクチュルヌ
・マズルカ
・ベルガマスク組曲
・ピアノのために
・ハイドン賛歌
Disc 2
ドビュッシー:
・練習曲集第1巻
・練習曲集第2巻
・喜びの島
・スケッチ帳より
・仮面
・レントよりおそく
・英雄の子守歌
Disc 3
ドビュッシー:
・映像第1集
・映像第2集
・前奏曲集第1巻
・小さな黒人の子
Disc 4
ドビュッシー:
・前奏曲集第2巻
・版画
・子供の領分
モニク・アース(ピアノ)
録音:1970年12月-1971年4月、パリ、リバン聖母教会
|
おめでとうございます。また今年も昨年同様によろしくお願いいたしますね!
ギーゼキングのドビュッシーの「ツボ」ーというよりも、モノラルの古い録音を聞く場合のリスナーは、演奏家の解釈の本質を掴み取ることが肝要だと思われます。演奏の録音というものは周知のように現在でも必ずしも100%演奏家の思いをそのまま伝えているものとは思えません。そこが実演と異なる所以ですね。フルトヴェングラー、シュナーベル、ボダンツキー、ヒュッシュなどのモノラル録音になれば一層それは顕著になってくるものと思われます。
従って古いモノラル録音の演奏を理解するにはスコアの解釈だけではなく、演奏家の精神との高い次元での同化が必要条件になってきます。録音に残された音のみから演奏を判断すればとても現代の演奏には及ばないのは歴然とした事実でしょう。事実この点で古い録音を敬遠されるリスナーが多いこともまた事実です。それでは一体なぜフルトヴェングラーやカザルスの演奏が現在でも聞かれているのでしょうか。
2011/1/1(土) 午後 5:34 [ maskball2002 ]
モノラル時代は現在と異なり厳選された演奏家のみがレコードに演奏を残すことができました。つまりそれだけ名演奏家の名演奏が残されているということですね。
彼らの演奏が現在でも聞かれているのは、彼らがそこにスコアを超えた音ー楽譜の彼方にある音楽を追究し、それを音として具現化することができたからです。従ってスコアのみの研究では決してこれを理解していくことはできませんし、昨今の録音の良い演奏だけを聞いていても理解することができません。これはもはやリスナーの人格に関ってくる問題だからです。
以前フルトヴェングラーの42年の第九を聞かれて、批評ができないとのコメントを頂いたことがありましたが、まさにこの一点がギーゼキングのドビュッシーの演奏を理解できなかったことに通じるものかと思われます。もちろん「音」が良いのに越したことはないのですが、モノラル録音ではそうは言っておられません。大切なことは「音」を聞くことではなく、そこで聴かれる演奏家の真証の「音楽」に耳を澄ませていくことではないかと思います。
2011/1/1(土) 午後 5:35 [ maskball2002 ]
<今なら可能かも知れないのでいつか再チャレンジしようと思う>
是非モノラルの古い名演奏もこの機会に多く聴いて見てくださいね!現在のたかさんであれば必ず出来得るものと信じています。
2011/1/1(土) 午後 5:39 [ maskball2002 ]
小生はドビュッシー、特にピアノ曲は正に苦手です。正直ラヴェルの方がはるかにしっくり来るんですが、人気投票があると必ずラヴェルがドビュッシーを上回るのは日本もフランスも同じなので、この頃は私だけが例外ではない普遍的現象と理解してます(笑)。音楽史的評価では比べ物にもなりませんが、新古典主義的色彩が強く形がはっきりしてるラヴェルの方が誰にでも親しみやすいんでしょう。オケ曲だって仏でも演奏会に頻繁に掛かるのは「海」だけで、時々「夜想曲」の2曲がやられるだけで、「牧神」さえ稀なのは考えてみると不思議です。「ペレアス」は嫌いじゃないんですが、やっぱりオペラでもラヴェルの2曲の方が好きかも。伝記を知らずともラヴェルの慎み深さ、ドビュッシーの女たらし、傲慢さは音楽から聞こえてくるような気がするのは小生の偏見かもしれませんが(笑)。
2011/1/2(日) 午後 0:53 [ 助六 ]
ドビュッシーのピアノに生真面目さはマイナスというのはなるほどと思いました。私のドビュッシー受容と言うと、演奏会でのブーレーズとポリーニの存在が大きいんですが、2人ともまあネアカ・タイプでしょうが、演奏はクソ真面目型ですよね。ブーレーズのドビュッシーは大好きですが、ピアノ音楽で音響結晶体みたいな演奏聴かされても、何だか底が見透けて退屈ですよね。最近では見事なメシアンを弾くエマールも、ネクラ、クソ真面目型ですね。
アースとエドシーク、早速Youtubeで聞いてみましたが、確かに見事!才気煥発な駄弁みたいな次に右に行くんだか左に行くんだか分からないようなひょうきんさが愉快ですね。ご紹介に感謝します。
一方オケ演奏にはフランスにはブーレーズ以前にもアンゲルブレシュトとか「真面目で」鋭角的なドビュッシー演奏の伝統が存在してますよね。昨年6月にオペラ・コミックでガーディナーが革命・ロマン期オケで「ペレアス」やりましたが、ピリオド楽器ですと、音色が溶けずに明確に分離し、もやもやしない線のきついドビュッシーになっていたのが興味深かったです。
2011/1/2(日) 午後 0:54 [ 助六 ]
maskballさんコメントありがとうございます。
私も古い録音は嫌いでない(というか常識から見ればかなり好きな方)ですが、バッハ〜モーツァルト〜ベートーベンぐらいまでの音楽に関しては戦前と現在ではあまりにも前提が変わってしまったと思うのです。当時のようにマタイを3つ振り(×4)で振るのは誤りだということを我々はすでに知っています。にもかかわらず敢えて耳を当時の基準に逆戻りさせてスローで大げさなバッハを受け入れる必要があるのかどうか私は確信が持てません。
博物館にある国宝は第一級の美術品であることは間違いありませんが、それが今の我々にとって本当に美しいかどうかは別問題ですし、それで構わないと私は思います(平安美人は下ぶくれだったそうです)。
いつの世も常識は時代と共に変化してしまいます(何が常識かを定義するのは難しいですが)。歴史的価値と(現時点における)芸術的な価値は分けて考えなければいけないと私は思います。フルトヴェングラーのモーツァルトやベートーベンについても同じことが言えると思います。ワーグナーあたりになると状況はだいぶ異なりますが。
2011/1/3(月) 午後 0:17 [ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
助六さんコメントありがとうございます。
私はピアノソロの場合はオケの指揮者よりももっと自由に演奏する選択肢が演奏家に与えられているのではないかと思っています。オケの場合は指揮者が楽譜に書いていないことを自由にやりだすとストコフスキーみたくなってしまって収拾がつかなくなります。それはそれで面白い演奏にもなりますが、ドビュッシーのように微妙な音楽の場合は本来の色合いを損ねる可能性の方が高いでしょう。耳が良くて精緻に振れる指揮者の方が向いていると思います。
でもピアノソロは自己完結できるのでこういうある意味でファジーな音楽の場合は楽譜に書いていなくても(非常に極端でなければ多少楽譜をいじってでも)自分のインスピレーションとイマジネーションで説得力のある演奏を聞かせてほしいと私は思います。
2011/1/3(月) 午後 0:35 [ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
いつの世も常識は時代と共に変化してしまいます(何が常識かを定義するのは難しいですが)
まずは、この確固とした常識という概念を培うことが大切なのではないでしょうか。時代とともに変わる常識と変わることのない常識があることは周知の事実です。
その常識の範囲でも(常識という言葉を使えば)フルヴェングラーやカザルスの演奏の価値は消えることがないと思います、録音が古くても新しくても良いものは良い、悪いものは悪いとうことでしょうか。
私の人格はフルトヴェングラーの演奏によっても培われています。たかさんの判断ですと私という人間は歴史の彼方に葬られてしまいそうですね(笑)
解釈は時によって変わりますが、やはり彼らが表現した「音楽」の奥底(おうてい)に耳を澄ますことが肝要だと思います。歴史的な価値であれ、現時点での芸術的価値であれ、その演奏本質を掴むことが大切だと思います。
2011/1/3(月) 午後 2:07 [ maskball2002 ]
彼らがそこで何を意図したか、また現代の演奏からはとても考えられない様式のソノリティから一体何を聞き取るのか。その貧弱な音から彼らの魂の慟哭が聞こえてくればしめたものです。
要は、それらの演奏から今に生きる私たちが何を自身の人格に取り入れていくかということーどのようにそれを現実に生かしていくのかということになるのではないでしょうか。音楽(芸術)は人格の表出ですから、演奏と対峙する時は人格と人格の触れ合いであり対決であるとも思います。
しかし相性というものもありますし、考え方も様々でしょうから、私の指摘することを理解して頂けるか否かは分かりませんが、私のコメントはこれまでにしたいと思います。
本年もまたよろしくお願いしますね!
2011/1/3(月) 午後 2:15 [ maskball2002 ]
maskballさんコメントありがとうございます。
思うに戦前の演奏を聞いて、なぜ彼らがそういう演奏をしたのか(あるいはそう演奏せざるを得なかったのか)を理解するには、時代の背景や演奏家の思想、あるいは当時の楽譜、当時の楽器や編成、演奏会場などに関する考証が必要なのではないかと思います。
世の中が(基本的には)平和であることを前提とした戦後〜現代の演奏と、そうでなかった戦前の演奏とでは音楽の持つ意味が根本的に異なっているように思うからです。
その溝を埋める知性を私は残念ながら現時点で持ち合わせていないので、このあたりについては一度maskballさんにご意見をお伺いしたいと思っております。
ただ、こういう状況は文学でも同じで、戦前の作品を文語体のまま鑑賞できる知性を持った人はかなり少ないはずです。戦前のほとんどの作品は誰か知性のある方が口語に変換しています。
戦前読み書きができる人は現在の常用漢字の倍の4000字ぐらいの漢字を使いこなしたそうなので、私ももっと漢字の勉強をしなければと思っています。
2011/1/6(木) 午後 1:05 [ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
戦前の文学と音楽とはまた次元の異なる問題だとは思いますが、ご指摘のように、往年の演奏を理解するためにはそれなりの下地となる勉強=自己練磨が必要であることは事実だと思います。しかしどのような勉強が必要であるかは個人によって異なることと思います。
現在フルトヴェングラーの演奏(代表的な演奏家として例に挙げてみます)がこれほど広く聞かれているのは、それだけ練磨をされた方が多いという証でしょうね。
しかし演奏というものは、時としてそれらの総ての事象を乗り越えて直接音楽そのものがこころに大きな感動を与えることがあります。私の場合42年のフルトヴェングラーの第9がまさにその演奏でした。ここが音楽と文学の大きく異なる点です。一切の介在するものを必要とせず「音」のみがリスナーを感動させる!
2011/1/6(木) 午後 3:23 [ maskball2002 ]
これはもはや個人のこころの問題に関わってくるものですね。この42年の演奏をかつてロック・バンドでの演奏活動を行っていたある方に聞いていただいたところ、「"もの"が全然違うね」=「演奏が他の人のものとは全く異なっていて感動した」とのコメントをきました。これなども演奏がリスナーのこころを直接感動させた例の一つであると思います。この時、私は彼にこの演奏の大まかな説明しかしていませんでした。
しかし、多くの音楽を聴く経験と勉強=自己練磨、この二つは往年の名演奏を理解する上では鍵になるものと思われます。
2011/1/6(木) 午後 3:27 [ maskball2002 ]
モニク・アース、私も大好きです。お婆ちゃんが昔話を語るように、とは、素晴らしい表現ですね。彼女の演奏は流れが良く滑らかなのですが軽すぎず、しっとりと心に染み込んでくる気がします。評論家が彼女のことをあまり取り上げないのは不思議です。
2018/5/19(土) 午前 0:02 [ fuj***** ]
日本の評論家にはフランスのエスプリが分からないのでしょうかね。ローラ・ボベスコ(出身はルーマニアですが)も「楽器がストラディやグァルネリでない」というつまらない理由で評論家の評価は低いようですが、立派な楽器でない演奏を高く評価すると耳が悪いと思われるとでも思っているのでしょうか??
2019/9/1(日) 午後 7:04 [ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]