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ちょっと前の話題になってしまったが今年もAKB48の総選挙が行われた。去年は震災直後だったし多額の義援金もあったので良かったが、今年は(見ていないが)フジテレビ系で全国生中継までされて少々違和感があった。本来AKBは地元密着がコンセプトなので、名古屋や大阪、博多は別々に選挙するべきではないだろうか。
その上で収益の一部を地域に寄付するとか、ファンと一緒に地域の清掃活動を行って参加者に投票権を与えるなどの工夫をして地域に愛されるタレントを育ててほしい。今年の総得票数は138万票と昨年の108万から3割近くも増えているのに、上位7人(神7と呼ぶらしい)で前年比3割増を達成しているのは1人(指原莉乃)しかいないではないか。
・ツェムリンスキー:抒情交響曲Op.18
ユリア・ヴァラディ(ソプラノ)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ロリン・マゼール(指揮)
録音時期:1981年3月11-12日
録音場所:ベルリン、イエス・キリスト教会
録音方式:デジタル(セッション)
インドの詩人であるダゴール(アジア初のノーベル文学賞受賞者でインド国歌の作詞者)の散文詩を基に(原文は英語)1922年に作曲されたこの曲は、「マーラーの大地の歌の流儀で」書いたと作曲家自身も述べており、東洋の題材をもとに、男声ソロと女声ソロが交互に歌う歌付きの交響曲の体裁をとっている。ただし大地の歌が人生の悲哀を歌っているのに対して、抒情交響曲は男女の恋愛、それもすれ違いでかみ合わない恋愛を描いている点、全7曲で男声が1曲多い4曲を歌う点、ほとんどの楽章間が途切れなく連続して演奏される点では異なる。
アレクサンダー・ツェムリンスキー(1871―1942.3.15、今年が没後70年)はアルマ・シントラー(1979年〜1964年)がマーラーと結婚する前にアルマに作曲を教えていたことでも知られ、助六さんの情報によるとアルマはツェムリンスキーと恋愛関係にあったことを自伝で認めているそうだ。
ツェムリンスキーはマーラー(1860年〜1911年)より11歳も年下だが、作曲家としてはマーラーよりも先に成功していた。しかしマーラーは19歳も年下のアルマと結婚してしまい、その後は指揮者としてだけでなく作曲家としても成功を収める。マーラーはまぶしい存在だったに違いない。1903年に作曲されたツェムリンスキーの「人魚姫」という交響詩は、王子に捨てられた人魚を自分にたとえた作品だという説がある。また、ツェムリンスキーはマーラーやシェーンベルクと共に1904年にウィーン創造的音楽家協会を設立しているが、心中は穏やかではなかったのではないだろうか。
一方アルマは、1902年にマーラーと結婚した後も作曲への関心を持ち続けたようだが、マーラーは自作の清書を手伝わせる一方でアルマが作曲活動をすることを望まなかった。ツェムリンスキーに師事していた時代の歌曲を1910年になってから出版しているが、これは晩年のマーラーがアルマの機嫌をとるために出版を勧めたものだ。マーラーの没後、アルマは画家のココシュカとの交際を経て建築家のワルター・グロピウスと1915年に再婚したが、1915年と1924年にも歌曲を出版している。これらの作品はいつ頃の時代に作曲したものなのだろうか?
(追記:1910年出版の5つの歌曲と1915年出版の4つの歌曲の楽譜をIMSLPで見ることができる)
http://imslp.org/wiki/Category:Mahler,_Alma
助六さんが寄せて下さった情報よるとマーラー没後にアルマがツェムリンスキーに再び作曲を師事したことはないそうなので、アルマからすればとっくに「昔の男」だったのかもしれない。しかし、ツェムリンスキーが大地の歌の影響を強く受けた作品、しかしすれ違いの恋愛を歌った作品をマーラーの没後10年以上もたった時点で書いているという事実から、アルマへの断ち切れない思いがこの作品の創作原動力になっていることは間違いないだろう。抒情交響曲はツェムリンスキーの久々の傑作となり、ベルクはこの作品にインスピレーションを得て作曲した抒情組曲をツェムリンスキーに献呈している。
アルマのような魔性の女(ファム・ファータル)は私は苦手で逃げてしまいそうだが(笑)、アルマが芸術の女神だったことは疑いようのない事実だろう。彼らの芸術をアルマが本当に理解していたかどうかは別としても。
さて、フィッシャー=ディースカウ(F=D)の偉業や名演は数多いが、特筆すべきこととして近現代の比較的珍しかった作品を積極的に取り上げたことが挙げられるのではないかと私は思っている。この作品が現在ではツェムリンスキーの代表作として認識されているのはこのF=Dの演奏に依るところが大きい。1981年に録音されたこの演奏は、この曲の初の国内盤で、輸入盤を含めても4番目の録音だったそうだ。
1975年の総目録にはツェムリンスキーの国内盤は1点もない(ちなみにこの曲日本初演は1978年の若杉弘指揮京都市交響楽団だそうだ)。私がツェムリンスキーという作曲家を知ったのもこのCDだ。当然のことながらこの曲の初めてのデジタル録音で、1982年のCD実用化とほぼ同時に発売された点でも思い出深いCDである(当時のCDは今と製造方法が若干異なっていて内周まで全部アルミで埋まっている)。
このような作品ではF=Dの歌唱は説得力がある。正直この曲の歌詞はどういう意味なのか、対訳を読んでもよく分からない。大地の歌以上に観念的で抽象的な世界だが、それでもF=Dの歌にかかるととにもかくにも納得してしまう。言葉の読みが深く、世界観がしっかりしているからだろう。やはりこの人は歌曲の人だとつくづく思う。1曲目の「私の心は落ち着かない」から、大きな嘆きを感じさせる歌で、叙情的な音楽であっても緩さは少しもない。
この演奏はF=Dとヴァラディ夫妻のそれほど多くない共演盤の一つでもある。歌曲やアリア集以外の正規録音としてはorfeoのアラベラとPhilipsのナクソス島のアリアドネ(R.シュトラウス)と、DGの青ひげ公の城(バルトーク)、それにデッカのショスタコ14番があったぐらいだろうか。全盛期のヴァラディの硬質な声はこのような近代作品にもフィットし、F=Dの引き締まった声との相性も良い。
マゼールのシャープな指揮も作品にマッチしている。この曲は抒情的なだけにいかにも抒情的に演奏すると生ぬるくなってしまうのだ。クリーブランド管を辞してベルリンフィル、ウィーンフィル、フランス国立管を中心にヨーロッパで活動するようになった時期のやる気満々の演奏だ。マゼールはシェーンベルクやウェーベルンは振らないようだし、ベルクもウィーンでルルを振ったぐらいだと思うので、なぜここでツェムリンスキーを録音したのかは分からないが、マゼールを代表する演奏の一つだと思う。テンポや音量の変化でところどころ他の演奏にはない表情がついているのがドラマティックだ。これが楽譜の指示なのかマゼール独自の解釈なのか知りたいところだが、残念ながら楽譜が手元にもIMSLPにもない。
なお特徴的なジャケットはカンジンスキーが1907年に書いた「夜」という絵だ。この演奏は現在、外盤でブリリアントがライセンス販売している廉価盤が入手可能だがジャケットは異なる。
(これも追記)
この曲の対訳が梅丘歌曲会館に昨年11月に掲載されたのを見つけた! 素晴らしい!
http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs/Z/Zemlinsky.htm
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マゼール録音は私も当時FMで聞いた記憶があります。オケ含めオールスター・キャストでマゼールらの長所が全面的に出た素晴らしい演奏だったと思います。
演奏会でも私は同じ頃文化会館で若杉指揮都響と日本人歌手で聴いた憶えがあるので、あれは京都市響での初演に続く演奏だったのでしょう。
その後96年にA・ジョルダン指揮仏放送フィル、E・ヴィーンズ、デイル・デューシングで、さらに04年にはエッシェンバッハ指揮パリ管、ディーナー、ゲルネでぶつかったことがあります。結構演奏機会は多いし、私もシュレーカーほどじゃないにしてもツェムリンスキーは嫌いじゃないもんで。
でもやっぱりジョルダンやエッシェンバッハだと何だかふやけちゃうし、ゲルネも実演では声のプロジェクションがかなりヤワなんですよね。
2012/6/24(日) 午前 10:57 [ 助六 ]
マゼールはマーラーを重要なレパートリーにしているからツェムリンスキーやベルクを少し振るのはロジックでしょうが、言われてみればシェーンベルクとヴェーベルン振った話は耳にしませんね。ヴェーベルンはともかく少なくとも後期ロマン派期の「グレの歌」や「浄夜」はピッタリ来そうですからちょっと意外。個人的相性ということか。
21歳のアルマは1900年初めにツェムリンスキーに出会って作曲を師事し、2人はすぐ恋仲になりますが、2年も経たぬ翌年11月にはマーラーが彼女の前に現れ、マーラーとアルマは02年3月には結婚してしまいます。ツェムリンスキーはマーラーを尊敬しつつも一生アルマに対する恋慕を失うことはなく、この別離からついに立ち直ることはできなかったようです。
2012/6/24(日) 午前 10:59 [ 助六 ]
アルマ自身は1960年に出版した回想録でツェムリンスキーについて、「私が大層な醜男だったツェムリンスキーに恋したのは殆ど運命みたいなものだった。(…)こうして私たちは相思相愛になった。最初からすでに友情ではなかったから。その晩の内に私は彼に作曲の教授を依頼した。(…)彼は醜い小人のようで小さく顎がなく歯欠けで、風呂に入らずワイン臭かった。でも彼はその恐ろしく鋭い知性ゆえに信じられないほど魅力的だった。(…)彼は一度ピアノで私に『トリスタン』を弾いてくれた。ピアノにもたれて聴いていた私は膝が振るえ、私たちは抱擁した」などととんでもないことをホザイてます。
マーラーとの結婚後もツェムリンスキーとの作曲のレッスンは続けていたようですが、「マーラーは謂われもなく嫉妬した」そうです。マーラーもオジン・コンプレックスがあったのかも。
2012/6/24(日) 午前 11:01 [ 助六 ]
また05年の「人魚姫」初演ゲネプロの際に「私はようやくツェムリンスキーの不思議なパーソナリティを理解した。(…)マーラーと私はよく『ツェムリンスキーは音楽にも顎がない』と言っていた。ゼクヴェンツ、エンハーモニック変奏、半音階ばかり、表現ゼロ」などと、これは音楽上のアールヌーヴォーみたいなツェムリンスキー様式を言い当ててますね。
写真見るとツェムリンスキーは確かに美男ではないにしても、そんなに醜男かなと思うんですが(それなら小生などどうなるんだ!)、彼自身はコンプレックスに苦しみ、アルマに捨てられた後は、彼女との別離経験の反芻が彼の音楽上の「固定観念」になっている趣があります。1905年初演の「人魚姫」は明らかに蠱惑的悪女であるアルマへの当てつけでしょう。1917年初演のオペラ「フィレンツェの悲劇」(03年にA・ジョルダン指揮仏放送フィル、フェアミリオン、ドーメンらのコンツェルタントで聞いたことがあります。ジョルダンのツェムリンスキーとしてはよい出来で華麗に鳴りました)はイタリア・ルネサンス期を舞台に富裕商人が妻と通じた美男の貴族を殺す話です。
2012/6/24(日) 午前 11:02 [ 助六 ]
これはツェムリンスキーの実妹でシェーンベルクと結婚したマティルドが画家のゲルストルと出奔した後、結局夫の元に返り画家は自殺という1908年の事件を想定しているにしても、ツェムリンスキーのアルマ体験も投影されているでしょう。この事件はもちろん09年作曲のシェーンベルクの「期待」に色濃く影を落としています。さらにとりわけ22年にケルンでクレンペラー指揮で初演されたオペラ「小人」(98年にガルニエでコンロン指揮R・ジョーンズ演出、シェファー、キューブラーらの上演を見たことがありますが、指揮のせいか否か響きは地味でした)は、スペイン王室に召抱えられた小人が鏡で自分を見たことがなく矮躯であることに気付かぬまま王女に恋しておもちゃにされた挙句、鏡に映った自分の姿を見せ付けられて悶死するという感情移入が顕著な作品で、これらはアルマに対するツェムリンスキーのラヴコールと怨嗟が入り混じった作品群であることは間違いないと思います。ただアルマはマーラーが死んだ1911年後にツェムリンスキーとの作曲レッスンを再開したことはないようですが。b
2012/6/24(日) 午前 11:04 [ 助六 ]
「小人」の2年後に初演された「叙情交響曲」もアルマを意識した芸術的ラヴコールの面はあると思いますが、交響的歌曲という体裁も手伝って、自分のアルマ経験の内的咀嚼という面が強まってるように感じます。ベルクは、人妻(アルマの夫となる作家ヴェルフェルの実妹ハンナ・フックス)との不倫経験を密かに誇示した作品である「叙情組曲」の最終楽章ラルゴ・デゾラートでトリスタン主題を引用していますが、4楽章アダージョ・アッパッショナートではツェムリンスキーの「叙情交響曲」でバリトンが歌う第3楽章の旋律を引用しています。引用部分の歌詞は「君は僕のもの」です!事情に通じていたベルクは「叙情交響曲」が密やかなラヴレターであることを直ちに悟ったに違いありません。
面白いのはツェムリンスキーの「小人」に限らず、この時期イタリア・ルネサンスを題材に醜悪な矮人の悲哀を扱ったオペラが多く出ていていることです。ザンドナーイの「フランチェスカ・ダ・リーミニ」(1914)、シュレーカーの「烙印を押された者たち」(1918)、ジョルダーノの「愚弄の饗宴」(1924)とか。
2012/6/24(日) 午前 11:05 [ 助六 ]
ツェムリンスキーのような個人的経験を別にしてもハプスブルク帝国の崩壊、第一次大戦、労働騒擾などの社会不安の反映ということか。
マーラー、ツェムリンスキー、シェーンベルク、ベルクが揃って自分の私生活上のドラマを芸術ドラマ化してしまってるのは彼らが最後のロマン的音楽家である証しでもあるんでしょうが、ファム・ファタルを敬遠する現代からするとカッコいいともナルシシックとも。
2012/6/24(日) 午前 11:05 [ 助六 ]
助六さん熱い投稿をありがとうございます。
なるほど。アルマは自伝でツェムリンスキーと交際していたことと、作曲家としては(マーラーより)ツェムリンスキーを評価していたことを公式に認めているのですね。これは興味深い。
そうすると、マーラーにアルマを最初に紹介したのは実はツェムリンスキー自身だったのではないか(つまりツェムリンスキーは11歳も年上のマーラーに恋人を寝取られるとは夢にも思っていなかったのではないか)と思うのですが、その点についてアルマの自伝は何か触れていますか?
もしその仮説が正しければ、マーラーがアルマに作曲を禁止する一方で自作の清書をさせるという不可解な行動は、実は作曲を止めさせたかったのではなくて、略奪婚を成功させたマーラーとしてはツェムリンスキーの元へ通わせるとよりを戻してしまうのではないかと恐れたことになってつじつまが合います。もし自伝で何かそれらしきことが書いてあったら教えて下さいますか。
2012/6/25(月) 午前 2:31 [ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
>アルマはマーラーが死んだ1911年後にツェムリンスキーとの作曲レッスンを再開したことはないようですが。
なるほど。そうすると1915年と1924年に出版した作品はツェムリンスキーに師事していた時代の古い作品なのか、新しく作曲したのか気になりますね。どんな作品なのか聞いてみたくなりました。
ツェムリンスキーはさぞ悔しい思いをしたでしょうが、でもマーラーは結局死んでしまうしグロピウスとも離婚するので、ツェムリンスキーにもその気になればまだチャンスはあったのではないかと思います。未練がましい作品をいくつも書く女々しい性格のほうが問題だったのではないでしょうか(笑)。彼がどうしてブ男と言われるのか私も不思議ですが、やっぱりブ男コンプレックスがあったのでしょうか。いずれにしても抒情交響曲は結構好きな作品です。
2012/6/25(月) 午前 2:41 [ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
>1902年にマーラーと結婚した後もアルマはツェムリンスキーに作曲を師事しようとしており、アルマは作曲家としてはマーラーよりもツェムリンスキーを高く評価していたと考えられる。
まず訂正ですが、小生「マーラーとの結婚後もツェムリンスキーとの作曲のレッスンは続けていたよう」と書きましたが、これは私のアルマ手記の読み違いでした。アルマはマーラーとの結婚後1年余を経た「1903年夏」付けで「私は自分の曲を弾き返した。ピアノ・ソナタやたくさんのリートを。私は再び思った。これ、これ、これよ!もう一度作曲がしたい。(…)勉強のためにツェムリンスキーさえいてくれたら。でもマーラーは謂れのない嫉妬心を抱いている」と書いています。つまり結婚後もツェムリンスキーに習いたい気持ちはあったけれど、実際にはレッスンは受けていなかったということですね。
ただ彼女が作曲教師としてマーラーでなくツェムリンスキーを選んだのは、作曲家としてツェムリンスキーをより評価していたからというより、帝室歌劇場総監督という多忙で高い位置にいたマーラーに習うのは実際性がないという現実的条件のせいだろうと思います。
2012/7/1(日) 午後 0:16 [ 助六 ]
アルマはツェムリンスキーを大作曲家とは見なしていないものの、作曲教師としては高く評価し「生れながらの教師」「その能力と技量は比類がなく」「父コルンゴルトがマーラーに息子の作曲教師推薦を依頼してきたとき、私は『ツェムリンスキーしかいない。他はだめ。』と即答した」と書いてますね。
>マーラーにアルマを最初に紹介したのは実はツェムリンスキー
最初に紹介したのは、ヴィーンの有名な解剖学者エミール・ツッカーカンデルの妻で社交サロンの花形だったベルタです。1901年11月7日、ツッカーカンデル邸でのことで画家クリムトと著作家・劇場監督のマックス・ブルクハルトが同席しています。マーラーはベルタとは気が合い、ベルタは当時帝国最大の風景画家と目されていたエミール・シントラーの美人娘アルマを当然知っていたわけです。パリから帰郷中だったベルタの姉ゾフィーも同席していました。ゾフィーは仏技術者のポール・クレマンソーと結婚してパリ在住で、マーラーはパリでゾフィーと会って意気投合し、ヴィーンの彼女の妹ベルタを紹介されたのでした。
2012/7/1(日) 午後 0:19 [ 助六 ]
因みにポール・クレマンソーはパリにおける仏墺文化交流の立役者です。第3共和制下の仏政治家で「対独復讐の鬼」ジョルジュ・クレマンソーはポールの実兄で音楽好き、ミュンヘンの「千人」初演も聞いてます。
>実は作曲を止めさせたかったのではなくて、略奪婚を成功させたマーラーとしてはツェムリンスキーの下へ通わせるとよりを戻してしまうのではないかと恐れた
その通りと思います。アルマは「婚約期間中マーラーは自作演奏のためにしばしばベルリンやドレスデンに呼ばれていたが、私はその間もヴィーンでツェムリンスキーと作曲の勉強を続けていた。ある日私はマーラーにいつもより短い手紙を書き、勉強しなければならないからこれ以上書けないと言い訳した。これが私にとっての試練の始まりとなった。マーラーは手紙で私に直ちに作曲活動を断念するように言ってきた。マーラーの音楽のためにだけ生きろというのだ。マーラーは例えばシューマンとクララの結婚は「滑稽」だと言い。私に選択を迫った」と書いています。
2012/7/1(日) 午後 0:20 [ 助六 ]
一方マーラーは01年12月19日の長文のアルマ宛書簡で、まずアルマを巡るライヴァルであるツェムリンスキーとブルクハルトを「パーソナリティがない」、「君の青春、君の人生はああした連中の混濁した精神に絶えず脅かされてきた」と貶め、「君の考えは何なんだ?ショーペンハウアーの女についての章か?いかさまで厭うべきニーチェの超人の反道徳か?メーテルランクの曖昧でアル中のイデオロギー的夢想か?」などと言ってます。続けて「僕たちが幸せになるためには、君は僕が必要とする女でなければならない。同僚ではなくて妻だ。(…)君が自分の作曲を全部止めて、僕の音楽を所有し僕のものになるとしたら、それは君が欠かせない自分の存在の重要な瞬間を捨て去ることになると思う?」とか述べたて「このことは僕たちの間ではっきりさせておかなければならない。(…)『私はあれから勉強してないから』『これから勉強するから』ってどういう意味?『勉強』って『作曲』のこと?君の楽しみのため?人類の共通財産を豊かにするため?」と攻めたてた挙句
2012/7/1(日) 午後 0:24 [ 助六 ]
「君のツェムリンスキーに対する態度は冷たく不可解だ。彼を愛したのか?何で君は彼に哀れな教師役を演じさせたのか?彼は君に偉大で男らしく映ってるようだけど、それは彼が礼儀正しく無口で苦痛を宿して君の前に立ち、『命令に従う』から?」と本音を漏らしたりしてます。
マーラーとしては妻が「進歩的」思想に染まって創造者を気取り、自分の仕事上のライヴァルになるのは耐えがたかったこともあったんでしょうが、それ以上にツェムリンスキーへの嫉妬と警戒心が顕わに思えますね。
それにしてもえらいエゴイスティックな手紙で、マーラーの性格の悪さについては色々証言が残ってますが、確かに実生活でこういう人物が近くに現れ、おまけに才能は明らかとなれば、これは面倒ですわな。
アルマはツェムリンスキーにすべてを打ち明けたそうですが、「彼はいつものように少し嘲弄気味だったが親切で、それは心に滲みた」と言ってます。
2012/7/1(日) 午後 0:25 [ 助六 ]
凡人の私としてはそれでも最後までマーラーに忠実で、誠実な人柄で、音楽家としても卓越した才能だったツェムリンスキーのパーソナリティーに親しみを覚えますね。
でも写真見るとアルマってそんなに美人なのかなぁっていつも思うんですが。ちょっとクルベローヴァを思わせると言うか、ヴィーンでその辺を結構歩いてる娘さんの感じ。
>1915年と1924年に出版した作品はツェムリンスキーに師事していた時代の古い作品なのか、新しく作曲したのか
作品24に含まれ後に夫となるヴェルフェルの詩に付けた「Der Erkennnede」だけは1915年作曲だそうですが、他の曲は年代不詳ながら大半はマーラーとの結婚以前の作品だろうと考えられているとのことです。でもマーラーの死後、アルマは少しは作曲を再開したということですね。
彼女には少なくとも50曲のリートの他、器楽曲、ホフマンスタールのテクストに付けたオペラの出だしの作曲もあったそうですが、紛失して残っていないそうです。
2012/7/1(日) 午後 0:26 [ 助六 ]