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最近評判のパソコン用の眼鏡を初めて作ってみました。効果はあるようですが、まだまだ辛いのが現状で左目が痛くなります。記事1本を書くのに普段の4倍ぐらいの時間がかかったような気がしますが、週に1回ぐらいの無理をしない範囲で更新を再開してみようと思います。
http://www.zoff.co.jp/sp/zoffpc/
体調は大変しんどいこの夏でしたが、自分自身について、また人を、周囲を思いやるとはどういうことなのか振り返る貴重な時間を得ることもできました。これもさらなる飛躍のための必要なステップだと前向きに捉えたいと思っています。コミュニケーションとは「他人が見ている自分」を本当の自分としてまず受け入れること、つまり自己実現とは「自分しか見ていない自分」を追求するのではなく、他人が認める自分を変えていくことなのではないか、というのが現時点での私の結論です。
そして、思うように動けない日々も音楽は常に自分のそばにあり、いつも味方でいてくれました。ブログを通じて皆様とコミュニケーションできるのも音楽のおかげです。音楽と皆様への感謝を込めて今回はこの曲を取り上げます。
Schubert:An die Musik (音楽に寄せる) Op. 88 No. 4/D. 547
D. フィッシャー=ディースカウ / G.ムーア
1960頃
http://www.youtube.com/watch?v=ayIrOHMKFFQ
D. フィッシャー=ディースカウ / H. クルスト
1954
http://ml.naxos.jp/work/636189
D. フィッシャー=ディースカウ / G. ヴァイセンボルン
1954
http://ml.naxos.jp/work/426338
フィッシャー=ディースカウ(F=D)を追悼する上でやはりシューベルトの歌曲(リート)は欠かせない。この曲は数多いシューベルトのリートの中でも指折りの名曲で、戦前から多くの歌手が愛唱してきた。ひと頃はリート歌手のシューベルティアーデのプログラムやアンコールでこの曲が入らないコンサートはなかったほどだが、こういう曲になるとF=Dの読みの深さはさすがだ。
シューベルトが女声を想定してこの曲を書いたのか、男声を想定していたのかは存じ上げないが(歌詞の内容は男性が歌っても女性が歌ってもおかしくはない)、この曲はもともとニ長調(D dur)で書かれている。この曲の楽譜はIMSLPでもダウンロードできる。しかしF=Dはこの曲を原調より1音下げてハ長調(C dur)で歌っている。
http://imslp.org/wiki/Category:Schubert,_Franz
この曲はナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)で数十種類の演奏を聞くことができる。女声やテノール歌手は原調で歌うことが多いが、半音上げたり下げたりしているケースもあり、バス歌手は原調より2音低い変ロ長調(B dur)に移調するケースが多い。IMSLPにも低声用の楽譜がアップされている。
http://ml.naxos.jp/opus/103386
どの調で歌うのかによって曲の印象はかなり異なる。オペラと違ってリートの場合は自分で好きな調に移調して歌うことができるのだ。歌手がオペラ以上にリートで自分の世界を表現しやすい理由の一つはここにある(このためリートの伴奏ピアニストは移調して弾くという特殊能力が求められる点がピアノソロと大きくことなる)。
この曲の音域は非常に広くはないので、プライや戦前のシュルスヌスのようにバリトン歌手が原調で歌っているケースもある。F=Dも原調で歌うことは可能だっただろう。どの調で歌うかは単に音域の問題ではなく何を表現したいかによるのだ。F=Dより7歳年上(1918年生まれ)のバリトン、ジェラル・スゼーや、バスのジュール・バスタンもこの曲をハ長調で歌っているが、バス・バリトンのジョセ・ヴァン・ダム(映画用の収録で1番のみ)はこれより低い変ロ長調で歌っている。プライの明るい声にはニ長調が合っているし、ダムの深い声には変ロ長調が合っている。
(プライ、音声のみ)
http://www.youtube.com/watch?v=YXMQg0cqQOc
(ヴァンダムの映画)
http://www.youtube.com/watch?v=0yyIqN-E96Q
F=Dの落ち着いた声にはハ長調が合っている。ハ長調/ハ短調はあまりにも王道すぎるので作曲家にとってある意味難しい調性でもある。ベートーヴェンの9曲の交響曲のうちハ長調は1番だけ、ハ短調は5番だけだ。しかし天真爛漫なシューベルトはハ長調をしばしば用いており、交響曲第9(8)番、弦楽五重奏曲、さすらい人幻想曲やピアノソナタなど何曲かのピアノ作品をハ長調で書いている。
リートはどの調で歌うのが正解ということはないのだが、NMLで見る限り50年代ぐらいまでは女声やテノールによる録音の方が多かったこの曲が、現在ではバリトン歌手の愛唱歌という印象の方が強くなったのはF=Dの名唱による影響が大きいのではないだろうか。テンポも戦前のロッテ・レーマンが3分30秒かけたものから、バスタンのように2分18秒であっさり歌ったものまで様々だが、F=Dの2分30〜45秒程度のテンポが落ち着いていて私は好きだ。
ユーチューブでは他にもシュヴァルツコプフやベイカーの映像、ポップ、ヴンダーリヒ、ターフェル、ホッター、クンツなどの音声を聞くことができる。ロッテ・レーマンの戦後の1948年の再録音はテンポが3分弱に速くなっている点も興味深い。世相を反映しているのかもしれない。
http://www.youtube.com/results?search_query=An+die+Musik
またNMLでは他にもたくさんのフィッシャー=ディースカウの演奏を聴くことができる。
http://ml.naxos.jp/artist/145795
An die Musik
Du holde Kunst, in wieviel grauen Stunden,
Wo mich des Lebens wilder Kreis umstrickt,
Hast du mein Herz zu warmer Lieb' entzunden,
Hast mich in eine beßre Welt entrückt!
Oft hat ein Seufzer, deiner Harf' entflossen,
Ein süßer, heiliger Akkord von dir
Den Himmel beßrer Zeiten mir erschlossen,
Du holde Kunst, ich danke dir dafür!
音楽に寄せて
やさしい芸術よ、
灰色の時が何度となく訪れ、粗暴な環境が僕を惑わせた時も、
君は僕の心に暖かい光を灯し、より良い世界に僕を導いてくれた!
君の竪琴から流れる吐息、その快い清らかな和音は
より良い天国の時間を僕にいつも開いてくれた。
やさしい芸術よ、僕は君にそのことを感謝する。僕は君に感謝する!
(追記)
ショーバーによる詩はシュルツェの「魔法をかけられたバラ」を原詩として翻案したものだそうで、この詩はショーバーの詩集には収められていない。シューベルトはシュルツェの詩による歌曲も9曲残しており、魔法をかけられたバラをオペラ化する計画もあったそうだ。
なお、IMSLPにあるように、シューベルトはこの曲の楽譜を2つ残しており、出版されたのは改訂稿の方である。
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「音楽に寄す」は奇跡的な曲ですね。
シューベルトが秘術を尽くしたと言うよりは、音楽に対する誠実な賛辞が自然に滲み出て音化してしまったような。彼の天才を感じます。
90年くらいにプライがパリでオール・シューベルトのリサイタルを組んだことがありました。私は基本的にプライよりも文句なくFD派なんですが、やはりプライのシューべルトはこみ上げる感動を抑え切れなくなるほど素敵でした。例の通りアンコールの最後に出してきた「音楽に寄す」では止めを刺された感じで家まで寒さの中を20数分歩いて一直線に帰りました。
シューベルト在世当時からさすがに人気があって、シューベルティアーデでこの曲で終えられることも多かったそうですね。
ただプライはその翌年だったか「白鳥の歌」を歌ってくれるというので駆けつけたら、これはやや失望。結構出来不出来のある人だという話も後で耳にしました。
2012/10/15(月) 午前 8:09 [ 助六 ]
詩の作者のフォン・ショーバーはシューベルトを寄宿させていたこともある友人で、シューベルティアーデの常連、音楽と同時にシューベルトへの賞賛としてこの詩を提供したようですから、バリトンだったシューベルトもまず男声を想定して曲をつけただろうと想像します。
どうぞご自愛第一で少しずつ復帰して下さい。
私も最近聴覚に問題を生じ幸いほぼ完治しつつありますが、数日たいへん不安な日々を過ごしました。幸い音楽が商売ではないので世の終わりではないのですが、ベートーヴェン、スメタナ、フォーレの身に降りかかったことを考えないわけには行きませんでした。
確かに病気になると世の中と人の見え方がガラリと変わりますから、悪いことではなかった思うことにしてます。
2012/10/15(月) 午前 8:11 [ 助六 ]
>「他人が見ている自分」を本当の自分としてまず受け入れること
素晴らしい言葉をありがとうございます。
他人から自分を紹介されるというのは大変奇妙な経験で、褒められるにせよ貶されるにせよ聞いてる間中「それは私のことではない」と思い続けるものですが、私も徐々に自分の内にあると思っている「本当の自分」などというのはナルシシックな虚構にすぎず、自分とは社会の中で自分が演じている役割自己の集積にすぎなくて、ラッキョウの皮をむくように実は芯など存在していないのが本当ではと思いつつあります。
他者の眼に映る現実の自分を受け入れることは難しい経験で、哲学なども「あるがままの自我」よりも「そうありたい自我」を、つまり実は信じていないことを描いているケースの方がはるかに多いように思います。
2012/10/15(月) 午前 8:12 [ 助六 ]
助六さんこんばんは
>「音楽に寄す」は奇跡的な曲ですね。
本当にそうです。日本語の訳詞にはなかなかしづらいですが、日本語では(感動して)歌を歌えないのではないかと思うくらい感動的な歌です(ショーバーはシューベルトの飲み友達でシューベルトの生活を乱したと非難されることもあるそうですが)。
この曲をプライで聞かれたのですね。それはうらやましい。F=Dと比較して感情たっぷり目のプライのシューベルトもこれはこれで素晴らしいと思います。プライは90年代に入った頃にすでに体調が悪かったようで出来不出来が激しくなったという話を私も当時聞いた記憶があります。最後の来日の3大歌曲はテレビ放送で見た限りまずまずのようだったので聴きに行かなかったのが悔やまれます。
2012/10/15(月) 午後 9:53 [ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
>どうぞご自愛第一で少しずつ復帰して下さい。
ありがとうございます。病とどう取り組むか姿勢の違いが、その後の人生を大きく左右することはガンの生存率などからも証明されているそうですので前向きに考えましょう。
>素晴らしい言葉をありがとうございます。
助六さんのような人生の先輩からそのようなお言葉を頂くのは恐縮です。人間誰もが水分とアミノ酸とカルシウムでできあがってるだけなので「本当の自分」なる個性は実は周りが作ってくれているものなのですよね。八重洲ブックセンターの二宮尊徳像のようにみんなが100円で金箔を貼れば銅像も金ピカに輝きます。ですので「この人にやらせてみよう」と周りに思ってもらえるような自分であることが大事なのではとも思います。
2012/10/15(月) 午後 9:54 [ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
私の父は、ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウの大ファンで、若いとき、来日ライブを聴きに行ったほど。やはりシューベルトのドイツリートと言えば、彼の追随を許さないと言うくらい、大歌手でした。彼のすごさは、ピアノ伴奏パートも揺るぎない名演奏。晩年のレッスン番組で、フィッシャー・ディースカウが生徒にレッスンを付けているときだ。ピアニストにも、「もっとここは感情を込めて!そうじゃない!」とかなり注文を付けていたことだ。シューベルトの音楽に常に真摯に向き合った。彼は100年に一度、出るか出ないかの名歌手、ドイツリートにおいては、彼に匹敵するバリトンは、しばらくはでないだろう。そう思えてならない。
2012/10/16(火) 午後 2:36
Marriage家のパパさんはじめまして。お返事が遅くなって済みません。
NHKのレッスン番組ありましたね。97年頃だったと思います。あの頃は忙しかったのと、がさばるVHSで録画するのを半分あきらめてしまっていた時期でもあり、あまり見ていなかったのが残念です。NHKにはぜひ再放送か、DVD化を機体したいですね。
2012/11/16(金) 午前 7:56 [ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]