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わが友グスタフ・マーラー〜ナターリエの日記
[出演]ぺトラ・モルゼ(ナターリエ・バウアー=レヒナー)アディナ・フェッター(若き日のナターリエ)ロバート・リッター(グスタフ・マーラー)ステファン・レオンハルツベルガー(若き日のグスタフ)ニコラス・フッツァー(ジークフリート・リピナー)ペーター・ホッフペフラー(エンゲルベルト・ペルネルストルファー)ハンネス・A・ペンドル(ヴィクトル・アドラー)トビアス・フォクト(フーゴー・ヴォルフ)アルマ・ハスン(アルマ・シントラー)ブロンウィン・メルツ=ペンツィンガー(ナターレエの声)ミヒャエル・スムリク(マーラーの声)ヨハンナ・ゴドウィン=ジードル(アルマの声)デニス・コジェルフ(ナレーター) 他
[監督&脚本]ベアテ・タルバーグ[制作]2010年オーストリア/ドイツ/スイス
これはマーラーの友人だったヴァイオリン・ヴィオラ奏者、ナターリエ・バウアー=レヒナー(1858-1921)の残した日記を基に構成した2010年制作のドキュメンタリーだ。アルマ・マーラーの回想録には都合のよい誇張や歪曲があるとされるが、淡々と書かれたナターリエの日記はより事実に近いマーラーを記録したものとして注目される。
ナターリエの父はウィーンで出版業を営んでいた。ナターリエは裕福だが自由のない生活を送り、17歳の時に22歳も年上の父の友人と結婚させられた(後に離婚する)。2人が出会ったのはマーラーがウィーン楽友協会音楽院の学生だった頃だった。当時から「理想が高く偏屈」と言われていたマーラーの作品は教授に全く評価されなかったが、ナターリエはその才能を評価した最初の人間であり、マーラーがアルマと結婚するまで心の支えになった。
学生時代のマーラーは学費や生活費にも困る状態で2週間おきに引っ越すような生活をしていた。「ニーチェクラブ」という秘密結社(注:と書くと何やら怪しげだが恐らく会員制のサロン・クラブのようなものだろう)に参加して、作曲家のヴォルフや医者のアドラーなどと議論を交わしていた。ヴォルフとマーラーはお互いの音楽を認めようとしなかった。またマーラーはワーグナーにならって菜食主義者で、人間は蘇ると信じていた。
ナターリエは別の人生を歩みたいという動機でマーラーと親しくなった。ナターリエは「嘆きの歌」を賞賛したが、この作品もベートーヴェン賞のコンクールに落選した。マーラーは作曲では食べてゆけないと判断、指揮者としてのキャリアを積むがライバッハやプラハ、ライプツィヒ、どの劇場でも長続きしなかった。ライプツィヒでは既婚の夫人と恋仲になったことがばれて問題になったこともあった。
マーラーは28歳でプタペスト王立歌劇場で音楽監督の職を得て、赤字を大幅黒字に転換し興行的には成功する。しかし要求が厳しすぎる、報酬が高額などと非難され、反抗した2人の楽団員から決闘を申し込まれるトラブルもあった。
この頃ナターリエはすでに離婚し、実家を離れて演奏家として生計を立てていたが、プロの女性演奏家は当時は珍しく、聴衆から嘲笑されるなど苦労が多かった。ナターリエは「いつまでも共に歩みたい」というマーラーの手紙に応じて1890年にブタペストを訪問しマーラーと再会、ここからハンブルク時代までが2人の蜜月だった。
マーラーはハンブルクからのオファーが監督ではなく主席指揮者であるため迷っていたが、ナターリエが「目の前の名誉よりも10年後20年後の将来を考えて」とアドバイスし、マーラーはハンブルグに移ることにする。2人はバカンスシーズンはアッター湖畔の邸宅に住み、マーラーはそこで再び作曲を始め第三交響曲を書き始めた。ナターリエはこの作品が世の中を変えると信じ、マーラーもこれで富と名声を手に入れられると思った。しかしマーラーの作品は依然として聴衆には難しすぎて、1896年にベルリンで交響曲1番を演奏した際の売り上げはわずか48マルクで数千マルクの赤字を出した。
この頃のマーラーは慢性狭心症で年に数回倒れ、慢性胃痛、コレラなどを煩い、医師から処方されたアヘンを必要以上に摂取し気を失った。痔で出血もした。ハンブルクでは1シーズンに148回も指揮した。歌手には大げさな演技を禁止し、照明にこだわりバイロイトのような回り舞台を望んだ。ハンブルグで成功したマーラーはウィーンで職を得ることを望んだ。この頃のマーラーはハンブルクの劇場に入ってきたミルデンブルクという23歳の若いソプラノと恋仲に落ちた。
すでにウィーンでは反ユダヤ主義の動きがありなかなか叶わなかったが、ウィーン宮廷劇場の指揮者に空きがでた際、ナターリアが友人のローザ・バピーアという歌手にマーラーを採用するよう総監督に頼んで欲しいと依頼した。楽壇の大御所だったコジマ・ワーグナーはモットルを推薦したが、マーラーはカトリックに改宗した日付を偽って何とか職を得た。
こうして2人はウィーンに戻ってきたが、そこでマーラーとアルマと婚約した。ナターリエはそのことを新聞記事で突然知る。ナターリエは静かにマーラーの前から姿を消す。マーラーの死後、ナターリエは1918年に反戦書を書いたことで重い刑に処され、それが原因で病気になり1921年に亡くなった。
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マーラーの記念年に大変面白そうなドキュメンタリー劇が作られていたんですね。仏では多分公開されなかったと思うしまるで知りませんでした。YOUTUBEにトレーラーが上がってましたが、アッター湖畔シュタインバッハなんかの風景も美しそうでぜひ見てみたい気持ちに駆られます。独墺スイス公共衛星TVで放送されたもののようですね。
Natalieの通常独語の発音は「ナタリー」だと思うんですが、劇中ではどう発音してますか?トレーラーには発音箇所がなくて確認できませんでした。
バウアー=レヒナーの「マレリアーナ」は10数年前に仏訳が出て拾い読みしましたが、恐ろしく面白い内容で、第1〜5交響曲の意味について種明かしでもするかのように貴重で説得的な情報を提供してくれます。彼女の謙虚で知的で教養豊かな人柄も素晴らしいですが、マーラー談話を録音機よろしく正確・詳細に記録していく注意力と記憶力、聞き上手にも瞠目させられます。
2013/2/23(土) 午前 9:40 [ 助六 ]
劇中では二人の可能的恋愛関係についてはどう描かれてますか?現在まで確認できる限りでは友情以上の関係になったことは遂になかったようですが、手記を読む限り彼女は2歳年下のマーラーを常に見上げているものの、その感情は恋愛瀬戸際であるような気がします。マーラーを謙虚に尊敬し続けた態度は、後の彼女のフェミニストの走り、平和主義者としての気丈さを考えると一瞬意外でもありますが、女権要求は職業的面に集中していたということでしょうか。マーラーの方はやたら質問してくる彼女を一時疎ましく感じ、「スパイ」などと言って夏季休暇への合流を妨げたりしたこともあるし、深い愛着はあっても恋愛ではなかったようですね。マーラーは89年に両親が死んだ後、妹弟達の保護者役も果たすことになりナタリーは母親的な役も勤めたようだし、彼女は11年間マーラーからの求婚を待ち続けていたとも考えられるそうです。
ナタリーみたいな知的で誠実な女性とアルマみたいな悪女に挟まれてたマーラーはやはりさすがと言うか(笑)。
2013/2/23(土) 午前 9:41 [ 助六 ]
助六さんこんばんは
彼女がマーラーの筆として言葉を記録したことはドキュメンタリーで随所に触れられていますが「マレリアーナ」という著作があるのですね。ぜひ読んでみたいものです。
二人の関係は、ブタペスト時代に「私たちはより親密な関係になった」と触れられています。慎重な性格なので露骨な表現は避けたのだと思いますが、私は事実上の同棲だと思います。結婚についても「アルマは老いた女(ナターリエ)がマーラーにひざまずいて結婚を懇願したと述べているが10年以上そばにいた女がそんなことをするはずがない」と述べています。マーラーとの関係を壊したくなかったので結婚を切り出すタイミングを逃してしまったようです。
字幕しか見ていなかったのでナターリエの発音はもう一度ビデオを見てチェックしてみますね。
2013/2/23(土) 午後 9:19 [ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]