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[ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
2014/10/7(火) 午後 8:55
[ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
2014/10/6(月) 午後 6:50
アバドの「シモン・ボッカネグラ」はDGの録音聞いておりまして、ご紹介の映像は、ほぼ同じメンバーですね。
来日公演と同じ演出ですので、これが見逃した舞台であったかという思いで冒頭部分を見ておりました。
著作権問題をクリアできればDVDでの発売も可能なのでしょうかねぇ。
帆船のところは、ジャケット写真にも使われていますので、私の頭の中では「シモン」の舞台といえば帆船のイメージで固定されています。
それにしても、いくらオペラとはいえ、「シモン」は日本人の私にとっては、話の筋としていまひとつ面白いものではありません。
その辺がヴェルディよりもプッチーニの方を好む理由でもありまして、別途楽しんでいる浄瑠璃の影響もありそうです。
[ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
2014/10/5(日) 午後 3:52
[ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
2014/10/5(日) 午前 10:12
[ たか改め「みんなのまーちゃん」 ]
2014/10/5(日) 午前 10:02
[ 助六 ]
2014/10/5(日) 午前 3:46
[ 助六 ]
2014/10/5(日) 午前 3:45
コルツァーニも当時のイタリア声楽界の水準を推し量らせる堅固な出来で、効果も巧みに使って喝采を引き出してますね。彼は57年スカラのカラス主演タウリスのイフィゲネイアに出ているから名前は聞き覚えがあったのですが、18年生まれ(ゴッビとバスティアニーニの間)でスカラの他ヴィーン、シカゴ、メト(60年にシモンでデビュー)に出演し、ミヨー作品やテルラムントまでレパートリーに持っていたというから一級の国際キャリアでレパートリー上演を支えた人のようですね。
カプアーナの指揮もイタオペ現場の雰囲気満点。
ベルゴンツィもやはり1幕アリアの末尾は堂々とフォルテで終えてますね。最近アラーニャが使っているオクターブ下でピアノで繰り返すヴァージョンも悪くないなとこの頃は思ってます。
[ 助六 ]
2014/10/5(日) 午前 3:42
ゲンジェルもベルゴンツィも数万人が入る巨大野外空間というベルカンティストには逆説的な条件下で、コッソットとコルツァーニの効果満点でパワフルな歌を正面から受け止め、しかし力んだり無理強いしたりすることはないまま2人の攻勢に存分に拮抗することに成功しています。結果は両傾向が互いにポジティヴに牽制し合い、手に汗握るけれど、闘牛やサッカー見物みたいな興奮とは違った「美しい歌を聞いた」感動を胸に帰途につける夕べとなりました。
不世出のドニゼッティアーナだったゲンジェルは、あのロベルト・デヴェルーの奇跡的なエリザベッタ歌唱で聞かせている高音への跳躍と続く高音引き伸ばしの離れ業をアイーダでも飽きれるほど存分に聞かせてくれます。声の帯が中空でひらひらと停止してしまうみたいな。ベルゴンツィに劣らず、力に頼らぬ旋律造形で圧倒的な劇的高揚を作り出す驚くべきヴェルディ歌唱ですね。
コッソットは野外でのアムネリスはお手のものに加え、安直な誇張に陥ることもない。
[ 助六 ]
2014/10/5(日) 午前 3:40
ベルゴンツィは劇的高揚度はスタジオ録音よりはるかに高いですが、これはカラヤンの指揮が居心地悪かったという以上に、アレーナ、夏の野外上演、コッソットとコルツァーニの存在、ライヴ特有の雰囲気、聴衆の存在という実演にまつわる物理的条件がすべてプラスかつ相乗的に働いた「劇場の魔術効果」によるところがはるかに大きいと思います。そしてベルゴンツィの歌は相変わらず絶対に崩れずむしろますますベルゴンツィであり続ける…。
戦後のヴェルディ演奏の歴史は戦前からのヴェリズモ傾向が、ベルカント復興を背景に様式的に矯正されていく過程ととらえることができ、それは例えばヴェルディ・バリトンの系譜をゴッビ−バスティアニーニ−カップチッリ−ブルゾン−ヌッチと辿ってみれば瞬時に理解できることでしょう。
この66年のアレーナの一夜では、はっきりベルカントの方向を向いているゲンジェルとベルゴンツィ、はっきりヴェリズモに顔を向けているコッソットとコルツァーニが対峙しながら、後者が前者を歪めることなく活性化した幸福な瞬間と考えることができると思います。




