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舩木 元著
文芸社
「イタリア」交響曲が1830年に着想を得て33年に初演されたのに対して、作曲順では最後の交響曲である「スコットランド」は29年に着想を得ていたが完成は42年になってからだ。メンデルスゾーンというとモーツァルト同様に筆が速いという印象があったが、イタリアの改訂の件も含めて自分の作品に対してとても厳しい目を持っていたということは今回初めて気づかされた。
「イタリア」の改訂と「スコットランド」の作曲に時間がかかった理由は、ちょうどこの時期にメンデルスゾーンの作風が変化したことも関係しているようだ。真夏の夜の夢の頃からの軽やかで小気味良い作風(モーツァルト風とでも言うべきか?)から、より重厚でどっしりした作風(ベートーベン風とでも言うべきか?)へ、初稿のまま残った「イタリア」と42年になって完成した「スコットランド」はまさに対照的だといえる。この2曲は1枚のCDに収められることも多いが、軽快なイタリアを前に持ってきてスコットランドを後にした方が作曲順から言っても作風から見ても収まりがよさそうだ。
オリジナル楽器の交響曲全集を探してみたが見当たらない。オリジナル楽器によるシューマンの全集は何通りかあるのにメンデルスゾーンはシューマンと比べてもリバイバルが遅れているようだ。生誕200年の今年が転機になることを期待しよう。
もう少しメンデルスゾーンの人となりを知るために伝記本や作品解説本の類も探してみたが、メンデルスゾーンに関する本は大変少ないことに気がついた。生誕200年に向けて出版されたのはこの本だけのようだ。
この本にはモシェレスとリーツはシューマンなどと共にメンデルスゾーンの葬儀の際は棺をかついだこと、ユダヤ人排せき運動はメンデルスゾーンの時代からすでにはじまっていたこと、生前はモーツァルト以上の高い評価を得ていたことなどが触れられていて大変興味深かった。
モシェレスはメンデルスゾーンのピアノの先生でもあり1825年からロンドンの王立音楽院で教鞭をとっていたそうだ。ロンドンのフィルハーモニック・ソサエティがメンデルスゾーンに交響曲を委嘱したのももしかしたらモシェレスの推薦によるものなのかもしれない。「イタリア」の改訂をめぐって一時はメンデルスゾーンとの関係が緊張したと思われるがその後和解したようで、1844年にはメンデルスゾーンが開いたライプツイヒ音楽院のピアノ科の教授に就任している。モシェレスはその後亡くなるまでライプツイヒで活動したようだ。
ユーリウス・リーツはメンデルスゾーンおよび結核で若くしてなくなった兄とともに「マタイ受難曲」の蘇演を企画し、パート譜の写筆を行ったそうだ。リーツはメンデルスゾーンの没後、ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督に就任した。
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