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ブルックナー作曲交響曲第五番
チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィル
1986年10月22日
サントリーホールにおけるライブ
福島原発事故のせいで25年前のチェルノブイリ原発の事故が思い出される昨今だ。最近は6億円強奪事件も発生したが3億円事件が発生したのも1986年だ。しかしこの年は悪いことばかりだった訳ではなく5月にダイアナ妃が来日したり6月にパンダのトントンが生まれたりといった明るい話題もあった。
音楽界では海外オーケストラの来日がラッシュだった。サントリーホールが開館したのはこの年の10月12日だったので、5月に来日したクライバー/バイエルン国立管や9月に来日したヨッフム/ACOが名演を聴かせたのは昭和大学人見記念講堂と東京文化会館だ。3月に来日したショルティ/シカゴ響や9月に来日したシュタイン/バンベルク響も人見記念講堂と東京文化会館などを使っている。
10月にはムラヴィンスキーがレニングラードフィルと来日して10月19日にサントリーホールの舞台に立つはずだったが残念なことにキャンセルになった(代役はヤンソンス)。このため10月にミュンヘンフィルと来日し10月22日にサントリーホールに立ったチェリビダッケはサントリーホールの舞台に立った最初の大物指揮者だと言っていいだろう。その後、カラヤンのキャンセルにより小沢征爾の指揮で来日したBPOの公演が10月28日から始まっている。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/orch/page279.html
翌1987年の1月にはシノーポリ/フィルハーモニアが「蝶々夫人」の演奏会形式上演などを行い、3月にはアバド/VPOがベートーベンの交響曲全曲演奏会を行った。VPOは1986年4月にもマゼールと来日したばかりで、これだけのオケを日本に呼べたのはバブル経済でスポンサーがつきやすかったせいだということは間違いないだろう。
以来サントリーホールはクラシック音楽の中心舞台として機能してきたわけだが、実は開館当初の響きは現在とはかなり異なっていた。舞台上に吊るされている反響板が、長い残響を誇示するために開館当時は現在よりもかなり低く設置されていたのだ。こうするとオーケストラの場合、金管楽器や打楽器など舞台後方の音が長い残響にかき消されて前に聞こえにくくなってしまうため、舞台後方のひな壇をかなり高くせり上げて金管楽器や打楽器の直接音が前に届きやすくしていた。
この結果、長い残響を突き抜けるように金管や打楽器の音がキンキン響く随分派手な音づくりだったのだ。このような響きでは天井の吊るしマイクだけでは明瞭な音が取れないので、録音する際は舞台上にたくさんのスタンドマイクを設置するのが普通だった。このディスクの解説の写真にもたくさんのスタンドマイクが写っている。
サントリーホールが反響板の高さを上げて残響をやや控えめにし、舞台後方のひな壇をあまりせり上げない現在の舞台セッティングに変わったのは開館数年後の1992年頃だったと思う。すでに世界の一流ホールと認められて、残響の長さを過度に売り物にする必要がなくなったのだ。これにより落ち着いた響きになっただけでなく、マイクも天井から何本か吊るすだけで済むようになったので自然な音場で録音できるようになった。以来舞台上のスタンドマイクは打楽器やハープなどの補助用に数本設置される場合があるぐらいでほとんど見かけなくなった。
(NHKがテレビ放送したヤンソンスの演奏を除けば)1986年10月22日にFM東京が収録したこのCDは私の知る限りサントリーホールで収録された最も最初の録音だ。サントリーホール20周年とチェリビダッケ没後10年を記念して5年前に初めて発売されたものだが、これは実は当時チェリビダッケが録音を許可しなかったため放送されないままお蔵入りしていた音源である。チェリが録音を許可しなかったのは開館当時のサントリーホールが録音には難しいコンディションにあったことを耳で感じ取ったからではないだろうか。それにも関わらず優秀なFM東京のスタッフとALTUSのリマスターにより、このディスクからそういう技術的な問題を聴きとることはできない。残響がちょっと長目に入っているかなという程度である。
この演奏はチェリの代名詞でもあるブルックナーの日本初披露でもあったが、遅いテンポにも関わらず集中力の強いものだ。チェリはこの曲を1985/86年に集中して13回取り上げたがその集大成とでも言うべき演奏だろう。チェリがこの後にこの曲を指揮したのは93年2月にミュンヘンで3回演奏しただけだ(EMIがCD化している)。
(1986)23:21/24:37/14:23/26:43
(1993)22:34/24:14/14:32/26:10
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