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NHKの教育テレビでマーシャ・クラッカワー先生が「トップインタビューに学ぶ! 自分を語る表現術」という番組を水曜にやっているのを見つけた。去年の再放送だそうだが全然知らなかった。NHKの英語番組と言えば「英語会話」の東後勝明先生と「続基礎英語」のマーシャ先生だろう。模範的できれいな聞き取りやすい発音をされる方だ。お会いしたことはないが、懐かしい方がご健在なのはうれしいものだ。
http://www.nhk.or.jp/gogaku/english/3month/message.html
R.シュトラウス:
1. 歌劇「カプリッチョ」より 月光の音楽−フィナーレ:お兄さまはどちらへ?
(バリトン:ワルター・ツェー)
2. 歌劇「ばらの騎士」より 元帥夫人のモノローグ(第1幕):やっと行ったわ、思いあがったいやな人
3. 歌劇「アラベラ」より 第1幕フィナーレ:私のエレメール!
4. 歌劇「アラベラ」より 第2幕アラベラとマンドリーカの二重唱:そして、あなたは私の主人となり
5. 歌劇「アラベラ」より 第3幕フィナーレ:ほんとうによかったですわ、マンドリーカ
(バリトン:アラン・タイタス)
ソプラノ:ルチア・ポップ
指揮:ホルスト・シュタイン
バンベルク交響楽団
(1988)
昨日の記事でルートヴィヒが「引きキャラ」のマルシャリンという新しい境地(?)を開拓したことについて書いたが、マルシャリン(元帥夫人)を良くあるような「押しキャラ」で解釈するか、「引きキャラ」で解釈するかによって1幕のモノローグの意味も、3幕の別れの3重唱の意味もだいぶ変わってくる。
一般的な「押しキャラ」で解釈すると、1幕モノローグは「こんなに老けてしまった自分がオクタヴィアンに相手にされなくなるのは時間の問題だ。時間がうらめしいけど現実を受け止めなければ。」という意味になり、3幕3重唱は「こんな小娘に彼を譲るのは本当はちょっとシャクだけど仕方ない。でも物足りなかったらたまには戻ってくるのよ。」という未練たっぷりの歌になる。
ところが「引きキャラ」で解釈すると、1幕モノローグは「私ももういい歳になっちゃったのだからオクタヴィアンは私とこんなことをしていちゃいけないのよ。早く新しい人生を歩ませなければ。」という意味になり、3幕3重唱は「こんなにトントン拍子に話がうまく進むとは思ってなかったけど良い相手が見つかって良かった。私のことは思い出の中だけに取っておいてね。」ときれいに身を引く祝福の歌になる。
どちらが正しいということはないだろうが、男目線でどちらが嬉しいかというと後者なのではないだろうか? 1幕モノローグには「晴れ晴れとして」、「大変晴れ晴れとして」と2か所に表情指定がついていることや、そもそもオクタヴィアンにゾフィーを引き合わせたのはマルシャリンであることからも、シュトラウス自身はあまり未練がましいマルシャリンではなく、オクタヴィアンの背中を押してあげるような優しいマルシャリンを想定していたのではないだろうか。
それに、マルシャリンが「フィガロの結婚」の伯爵夫人の生まれ変わりであり、オクタヴィアンがケルビーノの生まれ変わりであることを考えると、後者の「引きキャラ」で解釈する余地も十分あることは間違いないだろう。「フィガロの結婚」ではケルビーノの伯爵夫人への一途な、でも無鉄砲な愛情と、伯爵のスザンナへのよこしまな思いが引き起こすドタバタを、スザンナの知恵を借りながらも結局最後は伯爵夫人が1人で全部引き受ける。ボンマルシェ3部作ではその後第三作「罪な女」で伯爵夫人がケルビーノの子供を産んでしまうという大変ショッキングな展開が待っているのだが(笑)、ここではとりあえずそれは置いておいて、「フィガロの結婚」における伯爵夫人は間違いなく「引きキャラ」だ。
なぜこんなことを考えていたのかというと、ポップが残した唯一のマルシャリンであるこのディスク(先日のルートヴィヒのアルバム同様に元々は独オイロディスクの原盤で現在はRCAから出ている)の1幕モノローグを聴いて、私が生で聞いたポップの伯爵夫人に雰囲気が似ていると思ったことを思い出したからだ。何年か前にこのディスクを一度取り上げた際、「シュヴァルツコプフやデラ・カーザと比べると甘めのマルシャリンだ」と書いたが、この甘い優しさはもしかしたらポップは伯爵夫人のような「引きキャラ」のマルシャリンを想定していたのかもしれない。
ポップはルートヴィヒのマルシャリンに実際に接しているだけに、これは考えられることなのではないだろうか?でも同じ「引きキャラ」でもルートヴィヒだと「優しいお母さんキャラ」、あるいは「おばちゃんキャラ」になってしまうが(これは声が違うから仕方ない)、ポップの声であれば「きれいな優しいお姉さんキャラ」だ。このマルシャリンは新しいのではないだろうか?
クライバーの伝記によると、ポップは1985年4月のミュンヘンで初めてマルシャリンを歌ったが、振るはずだったクライバーは「自分がイメージしているようなマルシャリンではない」と言って降りてしまった(イルジー・コウトが代わりに振った)。前任の「押しキャラ」のジョーンズとはあまりにタイプが違うのでポップが何を表現しようとしているのか理解できなかったのだろうか。あるいは音楽とは別に個人的な感情のもつれでもあったのか。本当の理由は分からない。クライバーはその後この作品をミュンヘンで振らなかったが、ポップの新しいマルシャリンは好評で以後数年に渡ってこの役を歌ったようだ。
独オイロディスクがスラトキン指揮で全曲録音すると予告していたが実現しなかったのが本当に残念だ。ライブ放送でも残っていないものだろうか。私にできることはこの残された7分の断片と、舞台で見た伯爵夫人、アラベラ、エヴァ(マイスタージンガー)の記憶をつなぎ合わせてポップのマルシャリンを空想するだけだ。このディスクは国内外ともにしばらく廃盤だったが、タワーレコードが復活させてくれた(偉い!)。恐らく手に入れられるのはこれが最後のチャンスかもしれない。
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