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私は昨日、もしこの曲の再演がモシェレスによるものなら初稿による再演、メンデルスゾーンによるものなら改訂稿による再演だったのではないかと推測した。改訂中の作品の初稿をわざわざ自分で再演するとは考えにくいからだ。事実は前者だったようだ。
助六さんが調べてくださったMichael CooperのMendelssohn's Italian Symphony (Studies in Musical Genesis and Structure)(2003年出版)は日本で買うとアマゾンでも1万5000円ぐらいかかるようだが、下記アドレスのサンプルを見る限り、私が今日入手したオイレンブルグ版のポケットスコア(EE7003、2005年出版)にBoris von Hakenという人が書いている解説と内容は驚くほど類似している。
(サンプルページ)
http://books.google.fr/books?pg=PA29&lpg=PA40&dq=italian+moscheles&id=SXn1cZkXT44C&as_brr=3&hl=ja#PPP1,M1
音楽之友社のスタディスコア(OGT240、2002年出版)の解説(星野宏美)にもほぼ同じ主旨のことが書いてある。これが最新の研究成果だと考えて間違いなさそうだ。助六さんがまとめて下さったMichael Cooperの論文とEE7003とOGT240の情報を総合的に見てまとめてみました。
(1) 足掛け3年の大旅行中だったメンデルスゾーンは、1830年10月にイタリアに入りローマ滞在中にこの交響曲の着想を得て作曲を進めたことが残された書簡で分かっている。翌年4月までのローマ滞在中にほぼ構想はできあがったようだが結局完成はしなかった。1832年1月の時点ではこの曲の作曲は完全に止まってしまったようだ。
(2) 32年11月にロンドンのフィルハーモニック・ソサイエティから交響曲を委嘱されたのを契機に33年1月から再び作曲を開始した。33年3月13日に一旦完成し4月6日付で補筆した後にロンドンへ向かい5月13日にメンデルスゾーンの指揮で初演した。メンデルスゾーンがこの曲を指揮したのはこの時が最初で最後となった。委嘱の際の契約条件にフィルハーモニック・ソサエティがこの作品をいつでも自由に演奏できる権利があることと、2年間の著作権を持つことが含まれていたため、メンデルスゾーンの自筆スコアはフィルハーモニック・ソサエティに預けられた。
(3) 34年6月2日にロンドンのフィルハーモニック・ソサイエティがモシェレス指揮で初稿を再演した。ドイツにいたメンデルスゾーンは6月1日付のモシェレスの手紙が届いた時に初めて再演の事実を知ったが、(6月から8月まで父親と一緒にイギリスを再訪したという別の情報もあるがいずれにしても)、この再演がきっかけになりこの曲の改訂に着手した。初稿のスコアはロンドンのフィルハーモニック・ソサエティに預けてあったために記憶を頼りに35年2月16日までに2〜4楽章を改訂したが1楽章の改訂は「抜本的な改訂が必要」として難航し完成しなかった。この時の楽譜が1833/34年稿(正確には1834/35年稿と呼ぶべきなのでは?)として残された改訂稿である。
(4) 37年5月15日、フィルハーモニック・ソサイエティがポッター指揮で初稿を再演した。メンデルスゾーンは同年8月〜9月のバーミンガム音楽祭で「聖パウロ」を指揮するためにイギリスを再訪し、この際に「改訂したいので初稿は本当はもう演奏してほしくないと思っている」という主旨のことをフィルハーモニック・ソサエティの関係者に打ち明けた模様。
(5) 改訂の意向を伝え聞いたモシェレスは翌年の再演で改訂稿を使うことを計画し、改訂稿を速やかに提出するよう求める手紙を37年12月23日に出した。しかしメンデルスゾーンは公式に約束したつもりはなかったのでこの手紙には返事しなかった模様。結局フィルハーモニック・ソサエティは38年6月18日も初稿をモシェレス指揮で再演した。メンデルスゾーンの生前にこの曲が演奏されたのはこれが最後となった。
(6)(正確な時期は不明だが40年9月にバーミンガム音楽祭で「賛歌」の英語版を指揮するために訪英した際?)フィルハーモニック・ソサエティは自筆スコアをメンデルスゾーンに返却した。(第一楽章の改訂作業がはかどるようにとの配慮か?)
(7)フィルハーモニック・ソサエティは40年10月になって再び「改訂するので初稿はもう演奏するなと言ったのに未だに改訂稿を送ってこないのは大変遺憾だ」という主旨の手紙を送った。メンデルスゾーンは「約束した覚えはない」との返事を送った。険悪なやりとりはフィルハーモニック・ソサエティ側が41年3月にコミュニケーションの悪さをメンデルスゾーンに謝罪するまで続いた。メンデルスゾーンが第一楽章は改訂が必要との主張を繰り返したためフィルハーモニック・ソサエティは以後再演を企画するのを止めた模様。
(8)メンデルスゾーンは42年5月にも訪英し、フィルハーモニック・ソサエティの6月13日の演奏会で「スコットランド」を指揮した。メンデルスゾーンはその後6月20日と7月9日にヴィクトリア女王に接見し「スコットランド」を献呈した。
(9)残された記録で判断する限り、結局35年2月16日以降にメンデルスゾーンが実際にこの曲の改訂に従事した形跡はない。
(10)メンデルスゾーンが1847年11月に亡くなった後、ロンドンのフィルハーモニック・ソサエティは英ヴィクトリア女王の要請を受け1848年3月13日にこの曲を初稿で再演した。この時点でメンデルスゾーンの自筆スコアはライプツイヒにあり、フィルハーモニック・ソサエティに残っている写筆譜はこの演奏会のためにパート譜から作成したものらしい。自筆スコアと写筆譜は細かい点で異なっている。故国のライプツイヒで初めてこの曲が上演されたのは1949年11月のことである。
結論としては
・基本的に初稿(1833年稿)=初演(1833年5月13日)=出版譜(1951年)。
・第2楽章〜第4楽章のみで未完成の改訂稿(1833/34)は生前演奏されなかった。
・メンデルスゾーンが指揮したのは33年5月13日のロンドン初演のみ。
・生前に3回再演されたがいずれもロンドンで行われたものでメンデルスゾーンは立ち会っていない。(1回目の再演は聞いているかもしれない。この時に改訂を思い立ったのかも?)
・自筆譜が「遺稿から発見」された訳ではない。
ということでwikiの情報も山岸さんの情報も門馬氏の解説も誤りを含んでいるということになりそうだ。
常識とされ疑われていない情報の中にも間違いがこんなに含まれていることが分かり、おかしいなと思ったことは自分で調べてみることの大切さを再確認することができたと私は思う。
助六さんありがとうございました! 大変勉強になりました。日本では唯一OGT240を除いて正確な情報は99%伝えられていないのでOGT240がなかったら助六さんと連名で雑誌に寄稿しようと思っていたところです。
シューマンの2番の初稿を売り払って行方不明にした実績のあるユリウス・リーツも関係者に含まれているようなので、34年以降にメンデルスゾーンが改訂した楽譜がどこかから出てくる可能性がひょっとしたら無くはないかもしれませんが、今日のところは初稿=出版譜ということで一件落着と致しましょう。
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