|
ハンス・ホップ(T皇帝)
レオニー・リザネク(S皇后)
パウル・シェフラー(Bsバラク)
その妻(Sクリステル・ゴルツ)
クルト・ベーメ(Bs霊界の使者)
エリーザベト・ヘンゲン(Ms乳母),他
カール・ベーム指揮VPO
録音:1955年11月〜12月
(下記サイトで全曲ダウンロードできる)
http://www31.atwiki.jp/oper/pub/schatten11.html
名プロデューサーだったヴィクター・オロフは、クレメンス・クラウス、エーリッヒ・クライバー、ハンス・クナッパーツブッシュ、カール・シューリヒト、カール・ベーム、ウイルヘルム・バックハウス、ウイルヘルム・ケンプ、ピエール・フルニエなどの録音を数多くプロデュースした。その中でも1955年のモーツァルト4大オペラの録音と並ぶ大きな業績にR.シュトラウスの主要な交響詩とオペラを録音したことが挙げられる。
1950年〜1953年の間に主要な交響詩を全てクレメンス・クラウスと録音したが、ツァラトストラにしてもティル・オイレンシュピーゲルにしても40年代に放送用に(?)録音された自作自演のライブを除けば、商用の録音はこれが初めてだったであろう(と思ったらツァラは30年代にクーセヴィツキが、ティルは20年代にクナッパーツブッシュが録音していた)。作曲者は惜しくも1949年に亡くなっているが、カプリッチョの台本と初演をまかせるほど信頼していたクラウスが指揮したこれらの録音を聞いたらさぞや喜んだだろう。
続いて1年に1作の予定で取り上げたのがR.シュトラウスのオペラだが、クラウスは1953年にサロメを録音した後1954年5月に急死してしまう。このため1954年6月のばらの騎士の録音はエーリッヒ・クライバーに代わるがこれも大成功する(もしこの録音がステレオ録音だったら、今でもカラヤンのEMI盤以上の評価を得ていただろう)。
シリーズ第三弾として企画されたのがこの「影のない女」だ。1955年11月は大戦で破壊されたウイーン国立歌劇場がついに再建され、前年に芸術監督に就任したベームが『フィデリオ』、『影のない女』、『ヴォツェック』、『ドン・ジョヴァンニ』(ドイツ語)を、クナッパーツブッシュが『バラの騎士』、クーベリックが『アイーダ』(ドイツ語)を、ライナーが『マイスタージンガー』を指揮した。オロフがプレミエの直後に録音したこのディスクもバラクがウエーバーからシェフラーに代わったのを除いて舞台と同じメンバーだ。(この録音は「影のない女」全曲の世界初録音でもあった)
ベームは翌1956年にウィーン国立歌劇場の芸術監督を辞職してしまうが、この演奏は精緻にして自信にあふれた堂々たる演奏だ。盤歴の初期のころからこのような名盤に恵まれたことはこの作品にとってとても幸運なことだった。しかもクライバーのフィガロの結婚と同様に1955年とは信じられないような良質のステレオ録音で残されていることに驚く。
ステレオのレコードが一般に普及し始めたのは50年代末のことであり、カルショーの手記によると1955年頃からモノラル録音と平行してステレオの収録を行っていることは1957年まで演奏者には秘密だったらしい。そもそもヴィクター・オロフは助手のピーター・アンドリーと共に1956年にEMIに移籍してしまったので、これらの録音のステレオ盤のレコードを当時聴いていたはずがない。それにもかかわらず、今日聞いてもそれほど違和感のないプレゼンスで収録されていることに音楽と音場に対するプロデューサーの理解の深さを感じる。
ヴィクター・オロフのオーケストラ録音で特徴的なのは弦を少し近めに録る点だ。ステージの奥に向かって広がるような音場は指揮台での聞こえ方に恐らく近いだろう。明晰さと質感の両立を狙ったようなサウンドはその後のデッカの基本路線でもある。60年代のDGが「コンサート・プレゼンス」と称して残響が多めの録音を好んだのとはだいぶ異なる。
実は70年代以降もオロフの録音に近い音場を好んだ指揮者が一人いる。カルロス・クライバーだ。彼の録音も弦がやや近めでオケが後ろに向かって広がる録り方になっているケースが多い。私はこれはオロフの影響と見ている。
エーリッヒ・クライバーは戦後はデッカの専属アーティストであり、そのほとんどの録音をオロフが担当している。恐らくカルロスはそれらの録音に立ち会っているだろう。機械への好奇心が強い彼のことだから、マイクセッティングやステレオ録音についてもオロフやアンドリーから教えてもらっていたのではないだろうか?カルロスが父親のことを過剰に意識していたことは有名だが、こんなところにも父親の影響が見られる。
エーリッヒは1956年1月27日(モーツァルト生誕200周年のまさにその日)に世を去る。ウィーン国立歌劇場の再建公演を指揮していないのはひょっとしたらすでに病床にあったのかもしれない。1956年のVPOの海外ツアーも本来はエーリッヒを指揮者に予定していたそうだ。
クラウスもエーリッヒも亡き後、デッカのシュトラウスのオペラシリーズを振るのはベームかクナッパーツブッシュしかいなかったはずだが、1957年に録音されたシリーズ第四弾のアラベラはショルティの手に渡った。デッカの経営陣との戦いに疲れたオロフは1956年にEMIに移籍してしまったのだ。
それでもベームとの録音契約はすでにされていたようなのでベームが振ることは可能だったはずだが、カルショーの手記によるとベーム側から契約を解除してきたとのことだ。ベームは1956年にウイーン国立歌劇場の芸術監督を辞任させられているのでこれが関係しているのかもしれない。しかし1957年のザルツブルグ音楽祭ではフィガロの結婚を振っているので録音セッションでVPOと共演することには特に問題はなかったはずだ。
カルショーはベームを評価していなかったことが手記にも書いてあるのでベームとの間に何かあったのかもしれない。ベームはその後DGとの録音が多くなり、60年代のデッカへの録音は協奏曲の伴奏が数曲あるだけだ。ケンプやフルニエもDGに移籍した。カルショーの趣味に合わなかったのだろう。圧倒的に増えたのはショルティの録音だが、オロフは逆にショルティのことを評価していなかったこともカルショーの手記に書いてある。
EMIに移籍したオロフはミケランジェリのラフマニノフや、クレツキのマーラーなど注目すべき録音はあるが、デッカ時代のような活躍は見られなかったように思う。無理もないEMIのクラシック部門はレッグがいたのだから。ザルツブルグ音楽祭のキャストを変えさせるほどの怪物が牛耳っていたのだ。しかし同時に連れて行った助手のピーター・アンドリーはレッグ以降のEMIを背負って立つプロデューサーになった。
この『影のない女』からは翌年デッカにこのような大きな嵐が吹き荒れるとは微塵も感じられない。このような歴史的な録音がこともあろうに国内外ともに廃盤中だというのだから驚きだ。ウイーン国立歌劇場再建時のライブ録音(モノラル)の方がorfeoからCD化されているというのに、正規のスタジオ録音、しかも良質なステレオ録音の方がお蔵入りするとは一体どうなっているのだろうか?
(追記)
Wikiによると、クラウスはウイーン国立歌劇場の芸術監督の座を大変熱望し、有力なライバルだったエーリッヒ・クライバーに対する妨害工作まで行ったらしい。結局ベームに決まったことにクラウスは大変失望し、そのことが彼の死を早めたとも書いてある。もしこの時、クラウスかクライバーが就任していれば1957年にカラヤンが就任することも恐らくなかったはずで、カラヤンがBPOとも終身契約を結べたかどうかすら分からなくなる。歴史は変わっていただろう。wikiの記述がどこまで正しいかは検証する必要があるが、いずれにしてもベームが芸術監督に決まった時点ではクラウスもエーリッヒ・クライバーもまだ生きていたというのは事実だ。50年代のベームの実力はもっともっと評価されるべきだろう。
(さらに追記)
この音源も発表から50年が経ち隣接著作権が消滅したようだ。オペラ対訳プロジェクトで公開されているのでぜひ聞いてほしい。
http://www31.atwiki.jp/oper/pub/schatten11.html
|