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マーラー1番-5番

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マーラー:交響曲第2番“復活”
クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団&同合唱団、
マティス(s)、ファスベンダー(ms)
1982年10月8日、ヘルクレスザールでのライヴ

 この曲はもともと独立して作曲された交響詩「葬礼」を後から作曲した第ニ楽章以下とつなげて一つの交響曲にしたので、この「継ぎはぎ」の部分の気分のつなぎ方が難しい。マーラーもそのことを分かっていて、「ここで少なくとも5分の休止をおく」という指示を楽譜に残しているくらいだ。演奏会で実際に5分休むことは普通はないがハイティンクの映像では一度指揮台から降りて楽章間の休みを長めにとっているのが確認できる。

 この曲はなかなかCD1枚には収まらないが、2枚に分ける際は第一楽章の後で切るべきなのはそのためである。たとえ1枚目の収録時間が短くなってもそうするべきだ(このディスクは第三楽章の後でディスクを分けておりその点は大変残念だ)。

 Auditeのこのディスクは「ライブのクーベリック」を決定付け、再評価のきっかけとなった1981年の5番の翌1982年の演奏であり、少なくとも正規盤として発売されたクーベリックのマーラーとしては最も後期の演奏だ。助六さんの情報によるとクーベリックはこの年パリ管とも2番3番4番を演奏し、次のシーズンも続きのツィクルスを予定していたが体調不良で演奏会はキャンセルされたそうだ。

 そうするとこのディスクはクーベリックの体調が良かった最後の時期の演奏ということもできそうだ。この1982年盤はややあっさりした1969年のDG盤と比べると第一、第三、第五楽章が遅くなっているのが特徴だ。

(1969)19:33/10:31/10:06/04:55/31:01
(1982)20:58/10:35/11:33/04:25/33:10

 1982年盤も第一楽章は比較的淡々と進むが、これは演奏のピークが第一楽章に来てしまって中だるみをするのを避け、長大な第五楽章に頂点を持ってくるための設計なのだろう。第一楽章は明らかに控えめに演奏している感じで、むしろ第二楽章になってから音楽が動き出し第四楽章以降が素晴らしい。後半盛り上がり型の演奏だ。クーベリックのいつもの通り古典的な両翼配置なので第一楽章冒頭のチェロとコントラバスが左奥から聞こえてくる点にも注目して聴いてほしい。

 第四楽章の「原光」(「大元の光」という意味)は大地の歌の「告別」と並ぶアルトの聞かせどころだ。古くはフェリアーから始まりレッセル=マイダン、ベイカー、ルートヴィッヒなどが愛唱してきた。同じくマーラーのスペシャリストであるファスベンダーは1974年のストコフスキー盤や1985年のシノーポリ盤のスタジオ録音にも参加している。また、ファスベンダーは先日紹介したクーベリックの第九と荘厳ミサのライブ映像および、大分前に紹介したクーベリックの1982年の第九にも参加しており、クーベリックのお気に入りだったようだ。

 マティスもこのディスク以外に、クーベリックの1969年の旧盤とテンシュテットの1981年盤の2つのスタジオ録音があり、さらに海賊盤だがテンシュテットと北ドイツ放送響の1980年のライブ録音も合わせると4種類もディスクがある。この曲のソプラノにはアルトほど聞かせどころはないので、マティスほどの歌手が演奏会の舞台や録音でこんなに何度も歌うのは、よほどこの曲が好きでなければありえない。マティスが「復活フェチ」だったことは間違いないだろう。「マラ8フェチ」のプライもそうだが、マーラーの音楽には歌手を引きつける特別な何かがるようだ。

 マティスはクーベリックと8番を、カラヤンと4番も録音しており、4番はバーンスタインの映像もある。3番と大地の歌にソプラノは出てこないのでソプラノとしては全部歌っているということになる。また、クーベリックは先日紹介した76年のドイツ・レクィエムでもマティスを起用しており、マティスもクーベリックのお気に入りだったことは間違いないだろう。

 この演奏が80年代最強の声楽陣に恵まれたのもクーベリックの人柄があってのことだろう。このような名演に「名曲名盤」で1票も入った試しがない(!)のはなぜなのか良くわからない。
この演奏はナクソス・ミュージック・ライブラリーでも聴くことができる。
http://ml.naxos.jp/album/Audite23.402

(追記)
 クーベリックは1977年4月にもこの曲を演奏したことがありHALLOOという海賊レーベルがHAL-29-30という番号で出したCDがあったそうだ(私は聴いていないが日本でFM放送されたのも恐らくこの演奏)。復活フェチのマティスはここにも参加しており、合わせて5種類のディスクがあるということになる。さらに驚くことに、この時のアルトはその後1980年のテンシュテットの北ドイツ放送響のライブや1981年のLPOのスタジオ録音でマティスと共演しているドリス・ゾッフェルだったそうだ。恐らくマティスがテンシュテットにゾッフェルを紹介したのではないだろうか。

 クーベリックとテンシュテットの復活を歌ったゾッフェルはその後1985年にはインバルとも復活を録音している。ゾッフェルもまた復活フェチだと言えそうだ。

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 この曲は第四楽章のアダージェットが1971年のヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」に使われて一躍有名になった。カラヤンが1973年に初めてマーラーを録音した際はこの楽章を12分かけて演奏している。これはアダージェット(やや遅く)としては遅めでむしろアダージョというべきテンポだが、70年代から80年代にかけてはバーンスタインやテンシュテットなども11分以上かけておりこのぐらいのテンポが普通だった。

・マーラー作曲交響曲第五番
ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団
1963年11月
11:32/12:59/17:23/8:30/14:05

 実は「アダージェット」という書き込みはマーラーの自筆譜にはなく、アルマが清書した写筆譜になって初めて書き加えられたものだそうだ。Sehr langsam(非常に遅く)というテンポ指示は自筆譜の段階からあるので、こちらを重要視し「アダージェット」はテンポ指示ではなく「小さなアダージョ」という意味だと解釈すればこのような遅めのテンポもあながち間違いとは言えない。

 しかし1992年にマーラーの自筆譜とアルマの写筆譜のファクシミリをキャプラン財団が出版した前後にこのアダージェットのテンポをめぐる論争が起きる。初演時に使用されたと思われるスコアには7分30秒という書き込みがあり、メンゲルベルクやワルターの録音でもこの楽章を7〜8分で演奏していることを理由にキャプランは「アダージェットはもっと速いテンポのはず」と主張した。このファクシミリにはキャプラン自身が8分で演奏したこの楽章のCDが添付されているそうだ。

 アバドのようにキャプランの主張に素直に(?)従ってアダージェットのテンポを上げた指揮者もいる。アバドは1981年のシカゴ響との録音では12分かけていたが1993年のBPOとの再録では9分に速めている。ここで私が問題だと思うのはこの楽章のテンポだけを上げることが果たして適切なのかどうかという点だ。ワルターの1947年の演奏は全曲で61分という、現在の感覚からすればかなりなハイテンポだ。もしアダージェットのテンポを上げるならば他の楽章のテンポも上げなければ全曲に占めるアダージェットの比率が相対的に軽くなってしまう。

 しかしアバドの再録音は他の楽章のテンポはそれほど変わっていない(全曲で約70分)。こういう部分採用的なアプローチはどうしてもその場の思いつき、あるいはその時のブームに流されているような感じがして好きではない。アバドの80年頃までのマーラーはとても良い印象を持っていただけになおさら、「あれっ? アバドはどうしちゃったのだろう?」と思ったものだ。

 しかしマーラー研究家として知られるキャプランの影響は強かったようで90年代以降はアダージェットのみテンポを上げて、遅くても10分以内で演奏するのが普通になっている。例えばラトル/BPOの演奏も第一楽章は13分という従来型のテンポ設定にも関わらずアダージェットは9分半で全曲は69分となっている。

 さて、ラインスドルフはマーラーの演奏に積極的で6番のステレオ初録音はラインスドルフ/ボストン響の1965年のものだ。この5番も1963年1月のバーンスタインの旧盤に次いで最も初期のステレオ録音だ。やや速めテンポで(しかしワルターほど極端ではなく)引き締まった演奏だ。冒頭のトランペットのビブラートがわずかに古風なのを除けば大変現代的な表現で録音も良く、この曲の良い演奏の一つだと思う。全曲で65分、アダージェットが8分半というのは大変バランスが良い。

 私が思うに、最適なテンポはオケの規模や会場の響きでいくらでも変わるので、「この楽章は何分で演奏しなければいけない」という考え方は間違っているのではないだろうか。大雑把に言って戦前よりもオケの編成は大きくなり、ホールの残響は長くなる傾向にあるので昔よりテンポが全体的に遅くなるのは当然のことだ。

 もしマーラーやブラームスやブルックナーが「必ずこのテンポで演奏してほしい」という発想を持っていたら楽譜にメトロノームの指定を残したはずだ。「指揮者はメトロノームにあらず」とは誰の言葉か知らないが、「ミスターメトロノーム」と言われたラインスドルフがこの曲が有名になるはるか前、アダージェット論争の起きる30年も前に最適解の一つを示していたのは注目に値する事実だと思う。ラインスドルフを再評価すべき時期が来たのかもしれない。

 この曲を聴くときはぜひ全体のテンポ設定とアダージェットの演奏時間に注目してみてほしい。この演奏は現在は廃盤のようで残念だ。
 

(追記)
fulopによるマーラーのディスコグラフィーには楽章ごとの演奏時間が載っている。シェルヘンの52年の演奏ではアダージェットを9分で、ミトロプーロスの60年の演奏では11分で演奏しているようだ。70年代になって急にテンポが遅くなったという訳ではなさそうだ。

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・交響曲第2番ハ短調『復活』
 イレアナ・コトルバシュ(ソプラノ)
 クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)
 ウィーン国立歌劇場合唱団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、
 ズービン・メータ(指揮)
 録音:1975年2月ウィーン、ゾフィエンザール

 キャロル・ネブレット(ソプラノ)
 マリリン・ホーン(メゾ・ソプラノ)
 シカゴ交響楽団&合唱団
 クラウディオ・アバド(指揮)
 録音:1976年2月、メディナ・テンプル、シカゴ

 マーラーのレコードはワルターやクレンペラーの古い録音に始まり、60年代にはバーンスタイン、ショルティ、クーベリック、ハイティンクが全集に取り組むなど種類は増えつつあったが、爆発的に増えてきたのは70年代半ばからだったように思う。

 73年にカラヤンが初めてマーラーを録音したのに続いて、アバドやメータ、レヴァイン、そして西側で活躍するようになったテンシュテットなど新しい世代の指揮者による録音が次々に紹介されるようになった。時代が複雑化してきて聴衆も悩み多きマーラーの音楽を理解するようになり、録音技術やオーディオ装置が良くなってマーラーの音楽が理解しやすくなったなどの条件も重なって日本でもマーラーブームが起こる。

 メータの最初のマーラーは手兵のイスラエルフィルと1974年12月に録音した1番だが、すぐに続けて録音した「復活」ではVPOを起用して世間を驚かせた。しかし1965年に「復活」でVPOを振ってザルツブルグ音楽祭にデビューし大成功を収めたのは実はアバドの方だったのだ。

 1959年のカラヤン、1969年のショルティに続く1973年3月のVPOの来日公演(全国10か所13公演)をアバドが単独で任されていることからも、この時期のアバドとVPOの良好な関係が伺える。余談だが、アバドはこの時の広島公演の際に原爆資料館を訪問したそうで、これは後の「幻想交響曲」の録音で広島の平和の鐘を使うきっかけになったと考えられる。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3699/vpojapan4.html

 メータが先に「復活」をVPOで録音してしまったため、アバドのマーラー全集の第一段になるはずだった(そしてDGにとってクーベリック盤に続く2つ目の全集になるはずだった)この「復活」はメータ盤のちょうど1年後の1976年にシカゴで録音された。

 この頃までのアバドはレコード録音に関してはあまり良いマネジメントについていなかったようだ。アバドは60年代にはデッカのアーティストだった。デッカ時代のアバドの演奏は決して悪くないと思うが、同じデッカでメータが録音したR.シュトラウスほどの評判は呼んでいなかったようだ。もしかしたらこのこともアバドが70年にDGに移籍する原因になったかもしれない。

 その後も1972年のスカラ座のアイーダや1975年のロンドンの仮面舞踏会は素晴らしい演奏だったにも関わらず、録音ではほとんどそのままのキャストでEMIのムーティに持っていかれてしまった。これに懲りたのかスカラ座の76年のマクベスや77年のシモン・ボッカネグラではDGが最初から出演者と録音の契約を結んだようだが。

 アバドとDGがVPOの代わりに選んだのがシカゴ響だというのも興味深い。この時期デッカはショルティともマーラーを録音していたが、ショルティの1番〜4番はLSOやACOとの60年代の古い録音だったために、デッカは70年代にメータでこれらの曲目を録音した。当時すでに比較的有名だった1番や5番あたりを除けば70年代のマーラーのレコード市場はまだ限られていたため、同一レーベル内で競合するレコードを立て続けに制作するのは難しかったのだ。

 つまり、デッカが75年にメータで「復活」を録音したということは、デッカはシカゴ響によるショルティの再録音をしばらくできないということを意味する(実際ショルティの再録音は80年代に入ってからだった)。アバドとDGがショルティより先にシカゴ響で2番を録音するということは、メータにVPOを取られたことに対するDGからデッカへの意趣返しなのだ。

 それにしてもアバドやメータはこの頃が良かった。テンシュテットのライブを別格にすれば、この2つの演奏はいまだにこの曲の代表的な演奏と言えるだろう。いずれもタップリした響きの中に適度に細部が明瞭なアナログ録音全盛期の良さが出ている。アバド盤のシカゴ響のブラスの咆哮は2番が最も合っている。メータ盤はリマスター時に1枚に収められたのも良く、現在ではSIMCDでも出るほど大事にされている録音だ。ソリスト(コトルバスとルートビッヒ)はアバド盤より上だ。

 81年のスカラ座の初来日で素晴らしいヴェルディのレクイエムとシモン・ボッカネグラを披露したアバドは83年のロンドン響との来日公演でも素晴らしいマーラーの5番を演奏した。しかし80年代後半以降のアバドは、「ウンウン、その調子その調子」という感じのしぐさが多くなり、オケと戦わずに迎合しているような気がしてならない。

 メータもニューヨークに行ってからは大衆に迎合した感じのボテッとした音楽が多くなって、70年代の切れ味が失われていく。この2枚のディスクは新しいマーラーの時代の幕開けとなった記念碑であると同時に、アバドやメータが良かった時期の思い出でもある。

 レコード芸術の83年と87年の「名曲名盤」ではいずれもこのアバド盤が首位、メータ盤が2位になっている。ショルティの票がLSOの旧盤とCSOの新盤に割れたということもあるが、いずれにしても70年代から80年代のこの曲のイメージは(古いワルター盤とクレンペラー盤を別とすれば)アバド盤とメータ盤とショルティ盤の3つで出来あがっていたと言ってよいだろう。

 アバドとメータは共にウィーン音楽院でスワロフスキーに学んだ同門のライバルだ。アバドは復活の録音でメータにVPOをとられたことがよほど悔しかったのか、BPOの音楽監督になった後の1992年になってからわざわざVPOで再録音している。だがシカゴ響との録音の方がストレートな確信に満ち溢れていていると私は思う。ちなみにマーラーは「復活」をBPOで初演している。この曲の第一楽章などはBPOの分厚い低弦を想定していることは明白なので、どうせならBPOで再録音してほしかった。

 私はこの少し後にテンシュテットがLPOと録音を始めたEMI初のマーラー全集と並んで、アバドがVPOとシカゴ響でDGに録音していたマーラーが早く全集になるのを待ちわびていた。しかし1番から6番までは81年までの5年間で順調に録音したものの、あと3曲というところで急にペースダウンし84年のシカゴ響の7番、87年のVPOとの9番と続き、8番は94年になってBPOと録音してようやく全集が完成した。シカゴ響と録音した1番と5番は全集ではBPOとの再録音に、2番はVPOとの再録音に差し替えられた。余りにペースが遅いのでDGは85年からバーンスタインとシノーポリのマーラーの全集にも取り組んで完成させてしまった(未完に終わったバーンスタインの8番は75年の放送用ライブの借り物だが)。

 メータもこの復活の好評を受けて続いて3番〜5番をロスアンジェルスフィルやイスラエルフィルとデッカに録音したが、メータがNYPに転出してソニーに移籍したため、この後は続かなかった。メータは95年になって6番をテルデックに録音しているが7番〜9番の録音は未だにない。

 70年代にマーラーを録音して評判だったレヴァインも結局2番と8番を録音せず、日本におけるブームの先鞭をつけた若手の俊英3人は、80年代から90年代頭にかけて次々と全集を完成させたノイマン、テンシュテット、インバル、マゼール、小沢、ベルティーニに遅れを取ることになる。8番などは演奏する機会を作ること自体が大変なので偶然の要素もあるだろうが、この時期に彼らの演奏が新鮮さを失ってきたような気がしてならない。



最後にwikiからの対訳を引用しておこう。

第4楽章
「子供の不思議な角笛」から

アルトソロ
おお、深紅のかわいらしい薔薇よ!
人間は大きな苦悩に閉ざされている!
人間は大きな苦難に閉ざされている!
それよりも私は天国にいたいと思う!
私は一本の広い道にたどり着いた。
一人の天使がそこに来て、私を先に行かせまいとした。
いいや、私はそうはさせはしなかった!
神から生まれた私はまた神のもとにいくのです。
神はきっと一筋の光を私に授けなさり、
永遠の喜びの生命の中で私を照らしてくださるにちがいない。


第5楽章
クロプシュトックの賛歌『復活』に従いて

合唱とソプラノ
よみがえる、そう、汝はよみがえるのだ。
私の塵は、短い安らぎの後で。
汝を呼んだ永遠の命が
汝に与えられる。

種蒔かれた汝は再び花を咲かせる。
刈り入れの主は歩き、
我ら死者の
束を拾い集める

アルト独唱
おお、信ぜよ。わが心よ! おお信ぜよ。
失うものは何もないのだと!
汝のもの─それは汝が望んだもの
汝のもの─それは汝が愛したもの、戦って来たものなのだ!

ソプラノ独唱
おお、信ぜよ。汝がいたずらに生まれて来たのではないのだと!
いたずらに生を楽しみ、苦しんだのではないのだと!

合唱とアルト
生まれて来たものは、滅びなければならない。
滅び去ったものは、よみがえらねばならない。
震えおののくのをやめよ!
生きるために汝自身を用意せよ!

ソプラノとアルト独唱
おお、苦しみよ! 汝は全てにしみ通る。
おお、死よ! 全ての征服者だった汝から
私は逃れ出る!
今こそ、汝は征服されたのだ!
私は勝ち得た翼をたずさえて、舞い上がろう!
愛の命ずる求心力の中へと
眼にも届かぬ光のもとへ!

合唱
私が勝ち得た翼を広げて、
私は舞い上がろう!
私は再び生きるために死ぬのだ!
よみがえる、そう汝はよみがえるのだ。
私の心よ、今ただちに!
汝の高鳴ったその鼓動が
神のもとへと汝を運んでいくだろう!

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今年はマーラー没後100年であると同時にクーベリック没後15年にもあたる。

マーラー: 交響曲 第1番 ニ長調「巨人」
ラファエル・クーベリック(指揮)、バイエルン放送交響楽団
1980年 ミュンヘン・ヘルクレスザール

 19世紀までのオーケストラは第1バイオリンを左手前に、第2バイオリンを右手前に置くのが普通であり、この配置は「両翼配置」あるい「対向配置」と呼ばれるが、チェロを左に、コントラバスを中央奥に、ビオラを右に配置する点にも特徴がある。メロディを受け持つ第1バイオリンと、音楽の土台を作るチェロは音域が異なるので同じ左側に置いても人間の耳は十分聞き分けられる。内声に当たる第2バイオリンとビオラは客席に背を向けて右側に置きオケの内部の響きを充実させるという考え方だ。

 現代のオケのほとんどはチェロとコントラバスを右に置いているが、戦前まではこれらのチェロは左にいるのが当然で、クラシック音楽はこの配置で演奏するものだったのだ。トスカニーニ、ワルター、クナッパーツブッシュ、クレンペラー、モントゥーなど、フルトヴェングラーとストコフスキー以外の戦前世代の指揮者はほぼ全てこの配置を採用している。カンテルリは師のトスカニーニ同様にチェロが左の19世紀型配置を採用していたことが映像で確認できた。

 この19世紀型配置はバイオリンが左右に分かれていることに加えて、第1バイオリンとチェロが同じ左側にいるため指揮者には高度な技量が求められる。指揮者の側からすると第1バイオリンのメロディと低弦のリズムが左右に分かれていた方がはるかに振りやすい。DGのマーラー全集でのみ19世紀配置を採用したシノーポリは「この配置は自分には大変難しい」と率直に述べており、実際の演奏会ではフルトヴェングラー型(左から第1バイオリン、第2バイオリン、チェロ、ビオラ、コントラバス)を採用していた。

 セルやミュンシュ、ベーム、ヨッフム、アンチェル、そしてカラヤンといった中間世代の指揮者もどういう訳か揃ってフルトヴェングラー型を支持した(ヴァントとクリュイタンスはストコフスキー型だが)。戦後世代になると、チェリビダッケやショルティ、バーンスタイン、テンシュテット、ベルティーニなどストコフスキー型(左から第1バイオリン、第2バイオリン、ビオラ、チェロ、右奥にコントラバス)を採用する指揮者が多くなる。ストコフスキー型はアメリカ、イギリス、フランスで普及したほか、実はドイツでも戦後に設立された放送局のオケの多く(ケルン、シュトゥッツガルト、フランクフルト、北ドイツ(ハンブルク))が採用している。

 ストコフスキー型も大雑把に言って高音を左に、低音を右にして指揮者が振りやすくしたという点ではフルトヴェングラー型と変わらない。違いはビオラが右手前にいるかチェロが右手前にいるかだけだ。やはり低音が右の方が振りやすいのだろうか? 結局、欧米の一流オケは、チェコフィルなど東欧のオケすらも含めてほとんど全てがフルトヴェングラー型かストコフスキー型のいずれかを採用するようになった。チェロを左に、コントラバスを中央奥に置くという戦前までのクラシック音楽の伝統は戦争を境に廃れてしまったのだ。

 右に低弦を置くフルトヴェングラー型やストコフスキー型が戦後圧倒的に普及した理由として1950年代末〜60年年代はじめのステレオ初期のレコード、あるいは60年代半ばに始まった初期のFMステレオ放送は左右の音の分離が悪く、高音と低音を左右に振り分けた方がステレオ効果を出しやすかったという事情があったと考えられる。

 ムラヴィンスキーも有名な1960年のチャイコフスキーの録音ではDGの要請によりチェロを右に変更したそうだ。クレンペラーが1955年〜57年にEMIに録音したブラームスやベートーベン、モーツァルトは間違いなく19世紀型の両翼配置だが(写真にもチェロが左に写っている)、1960年以降は録音の時だけチェロとコントラバスを右に変更してしまったようだ。クナッパーツブッシュがVPOを振ったトリスタンの前奏曲と愛の死(イゾルデはニルソン)も、1959年のデッカの録音ではチェロが右で第2バイオリンが左のフルトヴェングラー型に変更されており前奏曲の有名な掛け合いは左右に分かれないが、1962年の演奏会では19世紀型の両翼配置になっている(映像が残っている)、。

 DGもEMIもデッカも揃って同様の措置をとっているということは、「オケの高音は左、低音は右」というのが当時ステレオレコードの常識と受け止められていたと考えて間違いないだろう。当時のレコードの技術的な制約とはいえ残念だ。

 そんな中で戦前の伝統を20世紀末まで頑なに守り通したのがクーベリック、ムラヴィンスキー、それにイギリスの巨匠ボールトだ。クーベリックの両翼配置については大分前に書いたパルジファルでも紹介した。マーラーにおいても第1番第3楽章のコントラバスのソロが左奥から聞こえるのは、フルトヴェングラー型やストコフスキー型に慣れた耳に大変新鮮に聞こえるだろう。マーラーが求めた響きは本来はこうだったのだ。

 この1番の映像はテレビ放送用の収録のようで観客はいない。クーベリックの音楽同様に小細工のない映像で、本拠地ヘラクレスザールの音響も良く音質もまずまずだ。全盛期のクーベリックの格調高くかつ熱気にあふれた演奏を楽しむことができる。1967年のDG盤と比較すると第一楽章のテンポが速くなってより躍動的になり、逆に第四楽章は遅くなってどっしりした。全体的にDG盤よりも1954年のウィーンフィルとの演奏に近いテンポに戻った感じだ。Auditeから出ている1979年の演奏とは当然ながら演奏時間が近い。

ウィーンフィル(1954) 12:46/7:11/10:39/18:59
バイエルン放送響(1967)14:30/7:04/10:36/17:38
バイエルン放送響(1979)13:12/7:03/11:37/19:18
バイエルン放送響(1980)13:40/7:09/11:21/19:09

 それにしてもドリームライフというレーベルはクーベリックやベームの映像のDVD化に熱心で感心だ。若い人にはカラヤンやバーンスタインのナルシスティックな映像よりもこういう映像をもっと見てほしい。

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