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今日から丁度140年前の慶應2年12月25日(西暦1867年1月30日)の午前11時頃、孝明天皇が崩御遊ばされました。一般的には「何回忌」などといいますが、天皇及び皇族には「何年祭」という言い方をします。ですから、本日、平成19年1月30日は孝明天皇の140年祭ということになります。 私は本日朝10時に皇居・二重橋前から、孝明天皇の御魂の祭られている、宮中三殿の皇霊殿の方角に向かって遥拝を行いました。皇霊殿は宮殿の北側に位置していますので、二重橋からはそれほど距離はありません。皇霊殿では皇族方が御出ましになって140年祭が行われました。 孝明天皇の御事蹟と、孝明天皇の暗殺説については「孝明天皇と明治維新―討幕に絶大な影響を与えた若き天皇の緊張と怒り」(『Voice』(PHP)2月号、116-123ページ)に記載してありますので、そちらの方を参照してください。 ここでは孝明天皇崩御直前の記録を幾つか紹介いたします。 『孝明天皇紀』は孝明天皇が崩御あそばす前日には中山忠能の日記を引用して次のように記しています。 (中山忠能日記)「慶子へ以状伺御容体の所、未刻返事来、昨夜(二十四日)より御大便度々御通し、御容体不御宜、御えつき強召上り物御不食、何共(なんとも)恐入候御様子、既に親王(睦仁親王)御方をも今日牛刻前御様子不御宜との御事にて、乍御違例中、俄(にわ)かに御前之御参りと申様の御事、唯今還御誠に誠に御按じ、御悲観に被為在、御側皆々落涙仕候事に候、実々御示之通、御天運のみ懇祈いたし候」「夕方又内以状伺、先御同様併御惣体不御宜由申来、唯々仰天苦心千万也」 また、孝明天皇崩御の直前に、天皇の御前に進んで祈祷を施した僧・湛海権僧正の日記には、天皇の様子が次のように記されています。 (湛海権僧正日記)「申刻禁中より御使を以て参内を申しきたる。廣橋殿より、今朝四ツ時より御胸先へ御差込容易ならず、御容体医師様々手をつくし候へ共、御開あらせられず、甚だ恐れいり候。(引用者注 ここの「御容体…候へ共」が抹削され、朱筆で「御容体具に仰聞され、種々医術手をつくし候へ共」と訂正されている)もはやこの上致し方も無之様、御一同申上げ、心配致し居候間、この上は御加持よりほか致し方も無之よう御一同思召し候間、格別丹誠をぬきんで、御加持申上候。久世殿御出合にて唯今の御加持速に法験相現れ、今朝より無之御痰三度も相切し、御吐遊され、御医一同難有□、此際機会ニ勘考し、御薬差上候様申上候。尚又此際機会に今一度御加持申上候様仰せ渡され、まかり相すすみ、前段の如く、玉体の御側に相進み、御加持申上候、然る所恐れながら、右御加持中に御大事に及ばされ、何とも申しあげようもこれなく、恐れ入り候。」 また中山忠能は、孝明天皇の崩御について次のように記しています。 「御九穴より御脱血、実以恐入候御容体之由悲しく事共に候」」 ご意見・ご質問はメールでお受けいたします info6608@takenoma.com |
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2007年01月30日
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