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第19代 武田信玄

○ 信虎2男。勝千代。太郎。
○ 大永元年(1521)11月3日に大井信達の長女を母として積翠寺で生まれる。(東郷平八郎の筆になる「武田信玄出生の地」の碑が要害山の上に建っているという。
○ 甲斐国守護・信濃国守護。御旗・楯無相伝第27代。射礼相伝。
○ 皇女三条姫との結婚を控えて天文5年(1536)3月、第19代16歳で元服。大勝大夫・従5位下に叙せられ、将軍義晴から一字を賜わって晴信を名乗る。
○ 本卦は豊。院号法牲院。表徳号 徳栄軒。道号機山。法牲院の法牲は諏訪明神の別号である南宮法性大明神から、あるいは比叡山法性院の什物である不動画像を御旗足の本尊としたことから、取ったといわれる。
○ 「甲斐国志」によれば、徳栄軒の徳栄は増穂町小室の徳柴山妙法寺の第10代住持日薬(信玄の叔父という)から山号を勝られたという。
○ 機山は快川和尚からもらい受け、機は兵機の機とか、概略の機であろうという。
○ 信玄は教育熱心な母の導きにより長禅寺(南アルプス市の古長禅寺)で仏書、兵書、詩歌や王義之・瀕真卿・柳公雅の筆法を学ぶ。長じては京の妙心寺派をはじめ仏法各派の高僧を招いて耳を傾け、戦国大名として抜群の学問を身につける
○ 快川和尚は信玄の7回忌の番語で「伎芸を嗜み兵書を読むなど四書六経や諸氏古家の書をことごとく学ばざるはなし」と述べている。
○ 信玄は中国の思想に造詣が深く、また足利学校の流れを汲む易笠を行動の指針とし、歴代の国主と同様に祖廟(御放・楯無を納めている御放産)の誓いを重んずる。そして「兵は海道なり」といって戦わずして勝つことを最上とする。
○ 信玄は巳年生まれであるためか龍神思想に入れ込み、東国第一の軍神諏訪明神に傾倒する。そのため「龍」の朱印を使い、諏訪法性の兜に龍頭をつけ、龍神が住むという諏訪湖に遺骸を沈めるよう遺言をする。
○ 信玄の旗には「孫子の風林火山の旗」「諏訪法性の旗」「将軍地蔵の旗」などがある。甲陽軍鑑によれば、三方ケ原で家康に勝ち、信長と手切れをして東美濃へ発向するとき、孫子の故に「天上天下唯我独尊」と書き加え、その翌月4月12日に他界したという。しかし三方ケ原戦ののちに東美濃へ発向したというのは誤りである。
○ 信玄は天文2年(1533)、13歳のとき関東の扁谷上杉朝興の娘を夫人に迎えたが、夫人は出産できず翌年11月に懐胎したまま死去。
○ その後天文5年7月駿府の寿桂尼の奔走により京の公家三条公頼の娘と再婚する。三条家は笛と装束のお家であり、また仏法を司る転法輪家である。
○ 公頼夫人は勧修寺尚瀬の娘、異子が養女となっていた広橋守光の子兼秀夫人も勧修寺政顕(尚顕の父)の娘、政顕の妹藤子が後奈良天皇の母、さらに古典に造詣が深い三条西実隆の夫人は天皇生母の姉、寿桂尼の実家中御門家は勧修寺家と同流の藤原氏、こう見てくると皇女が勅命によって信玄のもとへ嫁いできた理由が氷解するであろう。
○ 女系はすべて勧修寺家の娘で固められているのである。
○ なお公頼の実子かどうか不明であるが、姉は室町幕府の管領細川晴元へ、妹は石山本厳守の穎如上人へ嫁ぐ。
○ 信玄夫人と妹の年齢差は20 歳ほど開いている。
○ 信玄の初陣は天文5年12月、このとき信玄は信州海ノ口城で平賀源心を討ち取る。源心の首は須玉町若御子に、胴体は信州南牧村平沢寺に葬られる。
○ ところが、3氏を謙信へ内通の科で成敗し、やがて2男信親に海野家の、5男盛信に仁科家の、そして寵臣春日昌信に香坂家の家名を名乗らせる。
● 謙信は信玄が信濃諸将を追い、自分の関東制覇を妨害し、越後へ脅威を与えていることに激怒して度々川中島へ出陣。
● 永禄4年9月10日に信玄と激突。


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