全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

● 永禄4年9月10日に信玄と激突。
● この合戦で信玄は戦略・戦術で迷い、義信の弓矢指南役の鉄富兵部らの強攻策と意見が合わず、安全策ともいうべき「キツツキの戦法」を採用する。この作戦が山本勘助の発案とは笑止、おそらく信玄自身の発想であろう。いずれにしても、信玄はこの合戦の初戦で滅亡寸前まで追い込まれ、妻女山攻撃の別動隊の到着により愁眉を開いたものの、軍陣のことで義信と激しく対立する。その芽はすでに海津城の軍議のときから、さらにいえば今川義元が永禄3年5月に桶狭間で討死した直後から生じていたものといえよう。
○ 川中島戦後、信玄は17歳の勝頼を元服させて諏訪家を継がせ、よき武士8人を付けて高速城主に据える。
○ しかし義信がこれに反発したため信玄との対立が一層高まり、さらに謙信を打ち破れない信玄が方向転換して駿河(義信夫人の実家)を攻め取ろうとしたので対立は抜き差しならないものとなる。
○ 信玄は義信を警戒するあまり「山」と称する京間6畳に閉じこもって義信と断絶し、義信を追い詰めてしまう。
○ ここに至って義信は弓矢指南役の鉄富兵部としばしば密談をし、「ご陣において逆心、」し、信玄を殺すクーデター計画を詰める。
○ この計画は信玄の駿河侵攻を阻止する窮余の一策であるが、永禄7年7月15目深夜に発覚し、兵部は揺らえられて、永禄8年8月(一説に1月)に自害させられ、義信もまた諏訪頼重が投獄された東光寺の座敷牢へ押し込められる。
○ 自他ともに信玄の後継者と目されて領国内で重きを成している義信はすでに30歳。
○ 信玄は皇孫義信を殺すことができず、2年余り牢へ入れたままにし、その間にストレスがたまって苦悩は極限に達する。挙げ句の果てに実弟をはじめ親族衆や領国の部将ら数百人から「自分に背かない旨」の血判誓紙を取り付け、それを信州塩田の下之郷大明神へ奉納したうえで強権を発動、義信を葬り去る。永禄10年(1567)10月19日のこと、領国全体が烈震にふるえる。
○ 信玄にとって惜しまれるのは義信との対立である。永禄4年の川中島戦のときから義信を殺して同11年に駿河へ侵攻するまでの「失われた暗黒の7年間」は、信玄が40歳代、義信が20歳代、まさに胎がのっていたとき。
○ 義信殺害に至る7年間は信玄自身のストレス病の原因、お家衰亡の発端、その後の駿河作戦はお家滅亡の原因、それは義信との暗闘に勝利した信玄の野心を遂行したものである。
○ 義信の死は武田家臣団に強烈なショックを与える。
○ 信玄は親を追ってから論語を読まなくなり、その行動原理を孔子の君本主義から孟子の民本主義へ乗り換えたといわれるが、謙信や信長から大悪人として手厳しい非難を浴びる。
○ 今川氏は岳父北条氏康に相談して塩止めを断行し、また義信夫人を帰国させる。
○ 三国同盟は義信幽閉直後に信玄が勝頼夫人として義信の仇敵信長の姪を迎え入れたとき、すでに崩壊の兆しが現れる。
○ 信玄は、永禄11年(1568)9月に信長が足利義昭を奉じて上洛することを知り色を失う。
○ 動きの遅い信玄は、義信殺害から1年2カ月後、家康と今川領国を分取る談合をしてから9カ月後にようやく駿河へ侵入しようとする。
○ しかし、その矢先に病気にかかる。この病は義信との対立を原因とするストレス牲の胃病である。信玄はストレス牲の胃潰瘍にかかって吐血するが、病気が持ち直した12月6白に甲府を発ち、13日に駿府館を炎上させる。
● 北条早雲以来、今川家と親しい北条氏康は信玄の行動に激怒し、夫人(信玄の長女)を甲府へ送り返す。
● 4人の子らを小田原に残してきた長女は半年後に狂乱死し。氏康は仇敵謙信との同盟へ走る。
○ 信玄は、謙信が関東へ攻め込んでくる度に氏康を支援したが、今や離反され、敵となったことを恨んで永禄12年10月1
日に小田原攻めを敢行。
○ 信玄は駿河作戦により長男と長女を失い、このことが家中の混乱を拓き、ひいてはお家滅亡の原因となる。
○ 三条夫人は元亀元年(1570)7月28日に47歳で死去。夫人は嫡男義信と長女黄梅院が信玄の駿河作戦の犠牲となり、失意のうちに死去する。
○ 元亀2年10月に信玄の駿河作戦に反発していた北条氏康が病没すると、子氏政は一転して12月27日に信玄との同盟を復活する。
○ 信玄は信長が焼き討ちした延暦寺の衆徒保護の功により元亀3年7月天台座主覚忽(後奈良天皇の子。信玄夫人の異母兄)から天台宗極官の僧正に任命される。
○ そして10月3日大軍を率いて最後の出陣をし、12月22日薄暮に三万ケ原で家康と戦う。
○ この合戦で信玄は大輪の花を咲かせたものの、胃潰瘍が再発し、浜名湖畔の刑部という寒村で越年。
● 信長は平手汎秀・佐久間信盛ら3千の軍勢を家康の援兵とし、あわよくば信玄を葬り去ろうとする。
○ 信玄は信長と2度も縁組をしたが、信長は「天下布武」のため時間稼ぎを目的として縁組をしただけであり、信玄は完全に騙されていた。
○ 信玄は信長と手切れをし、東三河の野田城を攻めるが、病が悪化し、奥三河の長篠城や鳳来寺で療養する。
○ 4月に帰国の途につくも、信州南端の根羽村の三州街道筋で四隣を敵としたまま露と消える。
○ 元亀4年(1573)4月12臼、享年53。
○ 死の場所については諸説がある。根羽村の街道筋に信玄塚といわれる宝笹印塔が建てられている。往時は街道筋の駒場にあったという長岳寺に安置されたという。
○ 信玄西上の目的はなんであろうか。遠州奪取か、信長を叩くことか、それとも上溶か。団結力に疑問のある信長包囲綱、信玄の軍勢の規模、信玄の健康状態などから考えれば、夢は上洛であっても最後の出陣を飾るための出張と考えるのが妥当はなかろうか。
○ 信玄は望み通り駿河作戦を敢行したが、駿河へ侵攻しなければ義信の殺害はなかった。
○ 思うに信玄は跡目政策を誤っている。義信殺害だけでなく、諏訪勝頼を正式な跡目にもしていない。それは勝頼の母諏訪御科人が崩し討ちにした敵将の娘であるため、御科人を側室にするときから家老衆に反発されたからである。
○ そのために勝顆の子で赤子の信勝を養子にして跡目にするという突飛なことを考え出す。
○ 信玄は、家老衆を説得して勝頼をもっと早く甲府へ呼び寄せ、跡目は勝頼である旨を宣明して正式に武田姓を名乗らせ、かつ名前に「信」の字を付けて武田家の男とすべきではなかったろうか。
○ しかし勝頼は義信が殺害されてから4年、信玄の死の2年前にようやく高遠から呼び寄せられたにすぎず、それまで中途半端な立場のまま放置されていたのである。
○ 義信は跡目となりうるに足る能力と資格を持っていながら殺され、有能な勝頼も正式の捗目になれない。勝頼は甲府へ来ても「よそ者」であり、信玄の遺言でも正式の跡目ではない。
○ すなわち信玄の「3年間は喪を隠す」という遺言の意味は「建て前上は信玄が生きており、その間は勝瀬が信玄の代行を務め、信玄が花押を据えた800枚の用紙を諸国への使札に使用する。また3年後に信玄の死が公表されたときは、養子信勝が信玄の跡目となって勝頼が陣代を務め、信勝が16歳になったとき家督を継がせる」ということである。
○ 信玄の遺言はあまりにも現実離れをしている。勝頼は武田の旗を持つことさえ許されないまま、疾風怒涛の戦国末期の重責を負うこととなる。
○ これでは勝頼がますます軽んぜられ、信玄の死とともに天空から黒雲が垂れ下がり、地底からはマグマが噴出した。
○ すなわち長坂釣閑斎など側近派と内藤昌豊など武功派が激突して家中を激しくゆさぶった。当代随一、思慮深い信玄であるだけに、駿河作戦により跡目の義信を殺して家中の混乱を招いた上に、さらに勝頼の箔付けを誤ったことが惜しまれてならない。


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事