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山梨歴史講座 武田信玄正系(末裔)について(昭和44年)
今もつながる武田信玄
武田家十五代 武田昌信(たけだまさのぶ)氏
苦難の道を乗り越えて辿り着いた十五代
意外なことにそれは柳沢吉保の配慮が大きかったのだ
(引用資料 『歴史読本』五月号 昭和44年(1969))

武田家十五代 武田昌信の紹介(筆者紹介より 昭和44年当時)
大正十四年(1925)十四世信保嫡子として生まれる。
大学卒業後特応召。後法務省官房人事課に奉職。
現在は浦和地方法務局越谷支局長。
現住所 東京都世田谷区官坂 3−17−3

 信玄贈位と武田の正系

天正元年(1573)信玄公が没してより、今年で二百九十六年めになる。今年は戦国ブームとかで、映画・テレビの「風林火山」、テレビ・演劇の「天と地と」など信玄公の活躍を画いた作品があいついで競作・上演されている。また、公の本拠地、甲府では、武田信玄奉賛会によって甲府駅前に公の銅像が作られ、その命日にあたる四月十二日に除幕されることになっている。
 このように、信玄公の事蹟が顕彰され、その活躍ぶりがブームを呼ぶ程に歓迎されるのは、これまでで、今回が最高だと思われるが、大正のはじめにも、今回とは違った意味で「武田信玄とその一族」が問題になったことがあった。
 即ち、大正二年(1913) に大正天皇の御即位式の大典に際して、従四位下大膳大夫であった武田信玄が従三位に贈位されることになったのである。
 これは、信玄が甲斐で行なった治水、土木、税法等にわたり、当時まれに見る民治上の功績が認められたものである。こうして信玄公に従三位の位記・宣命(いきせんみょう)を賜わったものの、これを受けるべき正統の子孫は何人であるかが問題となった。
 信玄の子孫といえば、「天正十年(1582)、信玄の四男勝頼がその子信勝と共に天目山で自刃して武田家は滅亡した筈」といわれる方も多いだろう。たしかに、天目山以後、戦国武将としての武田家は日本歴史の上から姿を消すことになるが、これによって「武田家」までも滅び去ったわけではない。信玄公の多数の子女のうち、いくつかの系統は天目山の悲劇後も生き延び、その家系を今日にまで伝えているのである。しかし、大正二年のその当時、信玄公が没してより既に三百四十年も経過しており、この間にそれらの各流は各地に散り、また各々の間で浮き沈みもあったりして、「信玄の正系」は公認されてない状態であった。
 このため、宮内省から発せられた位記・宣命が信玄の正統なる子孫に伝達されるということを聞いて、支流・庶流を含めた大勢の武田末孫が「自分こそ信玄の末裔なり」と名乗りでることになった(三十六家が立候補)。
この位記・宣命の伝達を取扱う山梨県庁で、その選択に困って、東京定刻大学史料編纂所にその調査決定を依頼した。しかし、ここでも容易にその判断を下しかね、そのため位記はとりあえず、信玄公の菩提寺恵林寺(山梨県塩山市)ヘ預けられた。
 ここで信玄公の子女のうち、女女子除き、男子の系統だけをみてみると、
まず
○第一男の義信は
 永禄八年(1565)に信玄に背いたとので幽閉せられ、
   十年(1567)十月に逝去した。
 その夫人は今川義元の女で女子が二人いたと伝えられている。
○次が竜芳(龍宝)で、当家はこの系統をひくものてみる(後述)。
○その次が信之で、これは十歳で夭折。
○その次が天目山の四郎勝頼。
○次に仁科五郎盛信
○葛山十郎信貞があるが、これらは、織田信長が天正十年(1582)三月に甲信両国を攻めた時、仁科は信濃高遠城に戦死し、葛山は甲府で殺され、共にその裔は伝わらない。
 このほかに末子の
○信清がある。
 これは勝頼歿後、越後に下って上杉景勝を頼り、以後景勝につき従って越後から会津、会津から沢へと移り、その子孫が米沢にあって今日に至っている。結局、信玄公の男系として今日まで続いているのは、竜芳系のという当家と米沢の信清系だけである。そこで、竜芳の血をひく武田信保(系譜参照)が正系であるか、あるいは、信清系統の山形の武田茂氏が正系であるか、二者選一の問題となった。
 そこで山梨県庁ではこの間題を再び東大史料料綿纂所へその調査を依頼した。
 編纂所では武田研究の権威渡辺世祐博士(故人)がその任にあたり、当家伝来の系図に基いて、竜方の子孫を正統なりと確認するに至った。ここに至るまでには、山梨県市川大門の武田研究家村松蘆洲翁の御尽力を忘れることはできない。山梨県下に武田の正系なしということで、位記宜命の下付が米沢の武田家へ決りかけた時、翁は米沢の武田家も信玄の子孫にはちがいないが、系統の順位からして、信玄の二男竜芳の血をひく後裔こそ正系ではないかと、当家が正系であることを大いに主張して下さったのである。
 かくして、贈位問題が起こってから十二年を経た昭和十二年(1937)に、従三位の公式書状が私の父信保に下附されたのである。
これと同時に、当家を子爵に叙爵する旨の沙汰があったか、父、信保はこれを拝辞してしまった。その理由は、川中島の好敵手である上杉家が伯爵であるのに、武田家が子爵というのは釈然としないというのである。ところが、この叙爵の決定を下した、時の宮内大臣・松平恒雄氏(現秩父宮妃殿下の父君)の奥様は鍋島侯爵家の長女の方で、その妹の方が私の父の兄の柳沢保承伯爵の妻であったから、当家と松平安とは縁がつながることになり、そのため子爵を拝辞することは相当の心労であったと、よく母(母・綱は柳生子爵の出身)はいっている。

流浪する武田家

ここでひとまず、武田家の系譜をたどってみると、二世竜芳は信玄の二男で名を信親(のぶちか)といい、母は信玄の正室三条左大臣公頼の息女である。長子義信の死亡後、竜芳が後を継ぐべきところ、眼疾を患ったので、永録四年(1561)信州海野の家を継いでいて海野二郎と名乗った。通称を聖道(しょうとう)様といわれた。

武田家滅亡の際
 勝頼が新府城を去って東進する時、法流山入明寺山主の栄順師(信虎を諫めて自殺した内藤相模守の子)は竜芳の身を案じて寺へ迎えいれたが、勝頼が天目山に亡ぶとの報が入ると、竜芳はその夜、寺内に於いて南自刃した。この時、竜芳の子信道は、武田の血筋の絶えるのを心配した入明寺の栄順および長延寺(甲府市)の実了のはからいによって、長延寺領の信州伊那犬飼村に難を避け、織田方の虎口を脱することができた。
 その後、徳川家康が甲州へ入国し、長延寺の再興を許したので信道は実了の後をついで長延寺第二世となり、法名を顕了道快と称した。ところが、信道が長延寺に住すること三十年に及んだ時、突然思わぬ災難がふりかかって来る。

信道・信正親子、伊豆大島に流される。
 それは、当時関東郡代であった大久保長安が武田家遺族を保護し、それを利用して大名になろうという野心をもっていたことが、彼の死後判明し、信道もこれに連坐することになったのである。大久保家に、武田家の花菱紋があったことがその証拠とされ、信道はその子の信正とともに上州笠間の城主松平丹波守康長の下に預けられることになった。
次いで元和元年(1615)、入明寺の栄順や旧縁の人達の弁護にも拘らず、幕府は信道父子を伊豆大島配流(はいる)してしまった。
 この遠流には信道の妻「ままの局」をはじめ、譜代の臣九名が随従している。
 大島での一行の生活の、辛苦はば申すまでもなく、信道は憂悶のうちに寛永二十年(1643)三月五日に、七十歳で他界され、次いで局も後を迫われた。この間の断腸の思いいを書き連ねて入明寺ヘ寄せられた局の玉章(たまずさ)は入明寺の寺宝となっている。
 なお、信道の大島での館や墓は戦後発見され、東京都史蹟となっている。 この後も、御子信正は,なおもゆるされず、さびしい月日を大島で過していたところ、信道の旧臣臣の奔走により、寛文二年(2663)、幕府から晴れて赦免の沙汰があった。四十九年の歳月を寂しい孤島で難苦をなめた信正主従は喜び勇んで江戸へ帰ってきた。ところが、もと国事に関する犯罪の嫌疑者であるので、幕府に気兼ねして、唯一人進んで彼等を世話するものがない。

助けてくれた内藤忠興夫人
 そこへただひとり奥州岩城平の城主内藤忠興夫人が手をさしのべてきた。この夫人こそ天正十年三月、武田勝頼に反して天目山に款を織田信長に通じ、勝頼をして天目山に最期を遂げさせた、武田一族の小山田信茂の養女である。
 実は信玄の孫と伝えられ、早くから家康に侍って、女ながら戦陣の間に従い、その寵を蒙っていたが、後に家康が忠興に嫁せしめたものである。この後、信正は忠興の女を妻とした。時に信正七十歳、その妻は十七歳であった。そこに生まれたのが五世信興である。 この五世信興の時、重ねて幸運がやってきた。
《筆註》不思議な因縁である。子の内藤忠興の子風流大名内藤風虎は、「目には青葉」の山口素堂が江戸藩邸に出入りし、松尾芭蕉との出会いもこの藩邸であったとする書もある。

柳沢家との関係
 当時、将軍綱吉に登用せられて威権並ぶものがない柳沢吉保の斡旋により元禄十三年(1700)甲斐八代郡に武田家が新知五百石を以て封ぜられたのである。しかも、表高家たることを命ぜられ、幸橋門外に新たに宅地を与えられた。以後、明治維新まで幕臣であった。
 柳沢吉保と武田家との因縁は、吉保の祖父信俊が武田家の庶流で、武田家滅亡と共に、家康に仕えたのである。さきの内藤家の夫人といい、柳沢吉保といい、まことに不思議な因縁である。特に柳沢家と武田家はこれ以後も相互に、養子縁組をとり交し、深いにしえを結んでいる。

信虎追放のこと
当家に伝わる家宝としては二十点ばかりあり、そのうち亀甲槍、鎧、古文書は正系決定の折に、武田神社(山梨県甲府市)に奉納した。また信虎、信玄、勝頼三公の真筆は戦時中入明寺に疎開させていたところ、入明寺が空襲を受けたため惜しくも焼失してしまった。
 ただ、武田神社に寄進した宝物は戦火にあわず、無事に残っている。亀甲槍というのは、信親が海野城へ赴く際に、母君が信玄公に依頼して与えられた品で、宝物中第一のものである。それで、代々、この槍秘蔵のことは口外を禁ぜられ、正系決定の日まで秘められていたといういわくつきのものである。また、竜芳の夫人以来、当主の夫人に代々伝えられた懐剣が一口残っており、これだけは今も我家にある。
最後に、最近の戦国ブームに際して武田氏正系として信玄公とその父信虎公との関係について一言したい。この両者の関係については、信玄公が信虎公を駿河に追放しだというのが通説となっているが、実際はそうではない。信虎公の領民に対、する暴虐な行ないが多くなるにつれ、家臣達の信は次第に信虎公を離れ、信玄公につくようになったのを知って、信虎公は自ら納得づくで駿河に退隠したのである。

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高野山武田信玄画像の山梨県公開は既に有った
<昭和41年10月>
高野山成慶院 信玄画像について
その面影 三人の肖像画より
上野晴朗氏著「定本 武田勝頼」

古い歴史の軌道を文字で再現し、組み立ててみようとすると、しょせん、どうしても見えない謎の部分が残ってしまう。そして、その謎の部分のほうが、ときにはどう考えても、残された古文書よりもその歴史の軌道にとって、決定的に重大である場合がある。武田勝頼のほとんど唯一の画像、その面霧を前にして、弘は長いこと、そのことに思いを染めてきた。その画像というのは、和歌山県の高野山持明院に蔵される「武田勝頼・同夫人・信勝公画像」の一幅である。去る昭和四十一年十月のことであった。<写真は同書>

私は、山梨県が甲府市内で催した「武田三代展」に、この画像と、あの有名な成慶院に残される重要文化財の武田信玄画像の二幅を、高野山の宝物館から借りてきた思い出がある。
そのとき、所有者の成慶院と持明院の肝煎で、武田氏減亡後、何百年の間、おそらく一度も御国帰りをしたことのない信玄の兜とか、松虫の鈴とか、文箱とか、念持仏など数十点の秘宝を借用して、故郷ではじめての公開をするため、一路甲斐に向かったのであるが、そのときの張りつめた緊張感を、いまだに私は忘れることができない。
(中略)
高野山持明院で調べた範囲では、遺品目録には「勝頼公拝御台所御曹子寿像一幅」と一応見えている。
寿像という表現は「寿」という字が示すように、生前に描かれた絵ということで、追慕によって描かれた記念肖像画とは違うのである。
ところで持明院には、この肖像画がどうして納められたかという手紙と、遺品目録も残されていた。
(読み下し)
「今度当国落去、勝頼公御生害是非に及ばず候。貴院お力落しの段察せしめ候。茲に因って、貴山において御弔の儀仰せ置かれ候。尤も早々登山仕るべきのところ、散々に相煩い候故、延引し罷り過ぎ候。此の空園坊は幸い根来寺の住山に罷り上り候条、御道具ならびに金子指し登し申し候。勿諭注文は別紙に有り。我等快気次第に罷り登り申すべく候。委曲は面上の時を期し候。恐々謹言
卯月十五日               慈眼寺尊長
高野山引導院御同宿中
注文
一、勝頼公井御台所、御曹子寿像      一幅
一、宝剣 信玄公御随身          一腰
一、飯縄本尊並法次第信玄公御随身     一冊      
一、対揚法度書 信玄公御自筆       一通
一、毘沙門 信玄公御具足守本尊      一躯  
一、小脇指                一腰
一、大勢至菩薩 勝頼公御本尊 小野道風筆 一幅
一、観音品 勝頼公御前守         一巻
一、三尊弥陀 同御守 中将姫織縫     一服
一、仏舎利 同御守            一粒
一、黄金                 拾両

右の品々指し登し候。宜しきよう御廻向成され可く候。已上。
卯月十五日
慈眼寺 尊長
高野山引導院(以上二通高野山文書第七巻)」

これによると、この肖像画と遺品の数々を納めたのは、甲斐国一宮村の真言宗慈眼寺の尊長(尊浄とも)という坊さんで、生前、勝頼の深い帰依をうけて親交があり、かねがね武田家が減亡したならば、高野山へ遺品を指し登らせて葬儀を営んでもらうようにと遺命をうけ、回向料と遺品を託されていたというのである。この控本は慈眼寺にも二通残されていて、その包紙にその旨が記されている。
それにしても「…貴山において御弔の儀、仰せ置かれ候」という遺言は胸にしみる鮮烈なことばであった。
なお引導院は、のちに持明院と改名するのである。
尊長老の手紙の包紙によれば、天正十年(1582)三月十一日、武田勝頼が天目山下の田野で減亡すると、かねて遺命をうけていた尊長は、すぐにも高野山へ登りたかったのだが、たまたま患って臥せっていたので、延引して困っていたところ、寺にきた空円(園)坊というのが、根来寺へ住山が決まりそちらに行くので、寿像ならびに遺品を託したというのである。そして後日、尊長老自身も約束にしたがって、病気が全快すると高野山へ登っていったのである。
これに符合する史料として、勝沼町上岩崎の真言宗金剛寺の寺記を見ると、天正十年に中興の祖、曾根源助が、尊長といっしょに高野山へ遺品を運び、その場で落髪して帰国、金剛寺を修復して住んだと見えている。曾根源助は勝頼の家臣として、あるいは遺品運搬の遺命をうけており、空円坊といっしょに先に登ったのかもしれないが、いずれにしても武田氏滅亡後の四月半ばすぎ、高野山で回向が営まれたことは事実であろう。
引導院過去帳に
「泰山宗安大禅定門 神儀甲州武田勝頼公為御志 天正十年壬午三月十一日午剋勉」
とあり、また
「英材雄公大禅定門 神儀甲州武田太郎殿御志 天正十年壬午三月十一日午剋」
と見えている。そうなると、その回向に使った掛真(けしん)は、この三人の肖像画であったことはほぼまちがいあるまい。云々

武田信玄の遺言 抜粋

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<信玄の遺言>
○ 板垣法印の診断で5年前から病を煩い大事と思い判を押した紙が800枚ある。
○ 諸国への使札と返礼に使えば信玄は煩いなれども未だ存生と思い当家へ手を掛ける者はあるまい。
○ 3年の間、予の死したるを隠し国内を治めよ。
○ 勝頼の子信勝が16歳になったら余の家督とする。
○ それまで勝頼が陣代を務めよ。
○ 勝頼は武田の旗を持つこと無用なり。
○ 孫子の風林火山の放、将軍地蔵の旗、八幡大菩薩の旗はいずれも持つべからず。
○ 勝頼は今までどおり大文字の旗を使うべし。
○ 信勝家督の後は孫子の旗ばかり残し、ほかの旗はいずれも出すべし。
○ 法華経の幌は武田信豊に譲り、諏訪法性の兜は勝顆が育て後に信勝に譲るべし。
○ 予の弔は無用で3年目の4月12日に諏訪の海へ具足を著せて沈めよ。
○ 謙信とは無事にせよ。猛き武将なので若い勝頼を攻めることはあるまい。
○ 信長とは切所を構えて長く対陣すれば大軍で無理に掛かってくるので一塩つければ立て直すことはあるまい。
○ 家康は駿河まで引き入れて討ち取るべし。
○ 氏政は無理に掛かっても手間は取るまい。
○ 勝頼は謙信に16、信長に12、民政に8つ、家康に4つ、いずれも年増しの者に負けないようにし、仕置きを慎むところに敵より無理に働いて来たら領内に引入れて有無の一戦を行うべし。

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● 永禄4年9月10日に信玄と激突。
● この合戦で信玄は戦略・戦術で迷い、義信の弓矢指南役の鉄富兵部らの強攻策と意見が合わず、安全策ともいうべき「キツツキの戦法」を採用する。この作戦が山本勘助の発案とは笑止、おそらく信玄自身の発想であろう。いずれにしても、信玄はこの合戦の初戦で滅亡寸前まで追い込まれ、妻女山攻撃の別動隊の到着により愁眉を開いたものの、軍陣のことで義信と激しく対立する。その芽はすでに海津城の軍議のときから、さらにいえば今川義元が永禄3年5月に桶狭間で討死した直後から生じていたものといえよう。
○ 川中島戦後、信玄は17歳の勝頼を元服させて諏訪家を継がせ、よき武士8人を付けて高速城主に据える。
○ しかし義信がこれに反発したため信玄との対立が一層高まり、さらに謙信を打ち破れない信玄が方向転換して駿河(義信夫人の実家)を攻め取ろうとしたので対立は抜き差しならないものとなる。
○ 信玄は義信を警戒するあまり「山」と称する京間6畳に閉じこもって義信と断絶し、義信を追い詰めてしまう。
○ ここに至って義信は弓矢指南役の鉄富兵部としばしば密談をし、「ご陣において逆心、」し、信玄を殺すクーデター計画を詰める。
○ この計画は信玄の駿河侵攻を阻止する窮余の一策であるが、永禄7年7月15目深夜に発覚し、兵部は揺らえられて、永禄8年8月(一説に1月)に自害させられ、義信もまた諏訪頼重が投獄された東光寺の座敷牢へ押し込められる。
○ 自他ともに信玄の後継者と目されて領国内で重きを成している義信はすでに30歳。
○ 信玄は皇孫義信を殺すことができず、2年余り牢へ入れたままにし、その間にストレスがたまって苦悩は極限に達する。挙げ句の果てに実弟をはじめ親族衆や領国の部将ら数百人から「自分に背かない旨」の血判誓紙を取り付け、それを信州塩田の下之郷大明神へ奉納したうえで強権を発動、義信を葬り去る。永禄10年(1567)10月19日のこと、領国全体が烈震にふるえる。
○ 信玄にとって惜しまれるのは義信との対立である。永禄4年の川中島戦のときから義信を殺して同11年に駿河へ侵攻するまでの「失われた暗黒の7年間」は、信玄が40歳代、義信が20歳代、まさに胎がのっていたとき。
○ 義信殺害に至る7年間は信玄自身のストレス病の原因、お家衰亡の発端、その後の駿河作戦はお家滅亡の原因、それは義信との暗闘に勝利した信玄の野心を遂行したものである。
○ 義信の死は武田家臣団に強烈なショックを与える。
○ 信玄は親を追ってから論語を読まなくなり、その行動原理を孔子の君本主義から孟子の民本主義へ乗り換えたといわれるが、謙信や信長から大悪人として手厳しい非難を浴びる。
○ 今川氏は岳父北条氏康に相談して塩止めを断行し、また義信夫人を帰国させる。
○ 三国同盟は義信幽閉直後に信玄が勝頼夫人として義信の仇敵信長の姪を迎え入れたとき、すでに崩壊の兆しが現れる。
○ 信玄は、永禄11年(1568)9月に信長が足利義昭を奉じて上洛することを知り色を失う。
○ 動きの遅い信玄は、義信殺害から1年2カ月後、家康と今川領国を分取る談合をしてから9カ月後にようやく駿河へ侵入しようとする。
○ しかし、その矢先に病気にかかる。この病は義信との対立を原因とするストレス牲の胃病である。信玄はストレス牲の胃潰瘍にかかって吐血するが、病気が持ち直した12月6白に甲府を発ち、13日に駿府館を炎上させる。
● 北条早雲以来、今川家と親しい北条氏康は信玄の行動に激怒し、夫人(信玄の長女)を甲府へ送り返す。
● 4人の子らを小田原に残してきた長女は半年後に狂乱死し。氏康は仇敵謙信との同盟へ走る。
○ 信玄は、謙信が関東へ攻め込んでくる度に氏康を支援したが、今や離反され、敵となったことを恨んで永禄12年10月1
日に小田原攻めを敢行。
○ 信玄は駿河作戦により長男と長女を失い、このことが家中の混乱を拓き、ひいてはお家滅亡の原因となる。
○ 三条夫人は元亀元年(1570)7月28日に47歳で死去。夫人は嫡男義信と長女黄梅院が信玄の駿河作戦の犠牲となり、失意のうちに死去する。
○ 元亀2年10月に信玄の駿河作戦に反発していた北条氏康が病没すると、子氏政は一転して12月27日に信玄との同盟を復活する。
○ 信玄は信長が焼き討ちした延暦寺の衆徒保護の功により元亀3年7月天台座主覚忽(後奈良天皇の子。信玄夫人の異母兄)から天台宗極官の僧正に任命される。
○ そして10月3日大軍を率いて最後の出陣をし、12月22日薄暮に三万ケ原で家康と戦う。
○ この合戦で信玄は大輪の花を咲かせたものの、胃潰瘍が再発し、浜名湖畔の刑部という寒村で越年。
● 信長は平手汎秀・佐久間信盛ら3千の軍勢を家康の援兵とし、あわよくば信玄を葬り去ろうとする。
○ 信玄は信長と2度も縁組をしたが、信長は「天下布武」のため時間稼ぎを目的として縁組をしただけであり、信玄は完全に騙されていた。
○ 信玄は信長と手切れをし、東三河の野田城を攻めるが、病が悪化し、奥三河の長篠城や鳳来寺で療養する。
○ 4月に帰国の途につくも、信州南端の根羽村の三州街道筋で四隣を敵としたまま露と消える。
○ 元亀4年(1573)4月12臼、享年53。
○ 死の場所については諸説がある。根羽村の街道筋に信玄塚といわれる宝笹印塔が建てられている。往時は街道筋の駒場にあったという長岳寺に安置されたという。
○ 信玄西上の目的はなんであろうか。遠州奪取か、信長を叩くことか、それとも上溶か。団結力に疑問のある信長包囲綱、信玄の軍勢の規模、信玄の健康状態などから考えれば、夢は上洛であっても最後の出陣を飾るための出張と考えるのが妥当はなかろうか。
○ 信玄は望み通り駿河作戦を敢行したが、駿河へ侵攻しなければ義信の殺害はなかった。
○ 思うに信玄は跡目政策を誤っている。義信殺害だけでなく、諏訪勝頼を正式な跡目にもしていない。それは勝頼の母諏訪御科人が崩し討ちにした敵将の娘であるため、御科人を側室にするときから家老衆に反発されたからである。
○ そのために勝顆の子で赤子の信勝を養子にして跡目にするという突飛なことを考え出す。
○ 信玄は、家老衆を説得して勝頼をもっと早く甲府へ呼び寄せ、跡目は勝頼である旨を宣明して正式に武田姓を名乗らせ、かつ名前に「信」の字を付けて武田家の男とすべきではなかったろうか。
○ しかし勝頼は義信が殺害されてから4年、信玄の死の2年前にようやく高遠から呼び寄せられたにすぎず、それまで中途半端な立場のまま放置されていたのである。
○ 義信は跡目となりうるに足る能力と資格を持っていながら殺され、有能な勝頼も正式の捗目になれない。勝頼は甲府へ来ても「よそ者」であり、信玄の遺言でも正式の跡目ではない。
○ すなわち信玄の「3年間は喪を隠す」という遺言の意味は「建て前上は信玄が生きており、その間は勝瀬が信玄の代行を務め、信玄が花押を据えた800枚の用紙を諸国への使札に使用する。また3年後に信玄の死が公表されたときは、養子信勝が信玄の跡目となって勝頼が陣代を務め、信勝が16歳になったとき家督を継がせる」ということである。
○ 信玄の遺言はあまりにも現実離れをしている。勝頼は武田の旗を持つことさえ許されないまま、疾風怒涛の戦国末期の重責を負うこととなる。
○ これでは勝頼がますます軽んぜられ、信玄の死とともに天空から黒雲が垂れ下がり、地底からはマグマが噴出した。
○ すなわち長坂釣閑斎など側近派と内藤昌豊など武功派が激突して家中を激しくゆさぶった。当代随一、思慮深い信玄であるだけに、駿河作戦により跡目の義信を殺して家中の混乱を招いた上に、さらに勝頼の箔付けを誤ったことが惜しまれてならない。

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