武田信玄

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山梨歴史講座 武田信玄正系(末裔)について(昭和44年)
今もつながる武田信玄
武田家十五代 武田昌信(たけだまさのぶ)氏
苦難の道を乗り越えて辿り着いた十五代
意外なことにそれは柳沢吉保の配慮が大きかったのだ
(引用資料 『歴史読本』五月号 昭和44年(1969))

武田家十五代 武田昌信の紹介(筆者紹介より 昭和44年当時)
大正十四年(1925)十四世信保嫡子として生まれる。
大学卒業後特応召。後法務省官房人事課に奉職。
現在は浦和地方法務局越谷支局長。
現住所 東京都世田谷区官坂 3−17−3

 信玄贈位と武田の正系

天正元年(1573)信玄公が没してより、今年で二百九十六年めになる。今年は戦国ブームとかで、映画・テレビの「風林火山」、テレビ・演劇の「天と地と」など信玄公の活躍を画いた作品があいついで競作・上演されている。また、公の本拠地、甲府では、武田信玄奉賛会によって甲府駅前に公の銅像が作られ、その命日にあたる四月十二日に除幕されることになっている。
 このように、信玄公の事蹟が顕彰され、その活躍ぶりがブームを呼ぶ程に歓迎されるのは、これまでで、今回が最高だと思われるが、大正のはじめにも、今回とは違った意味で「武田信玄とその一族」が問題になったことがあった。
 即ち、大正二年(1913) に大正天皇の御即位式の大典に際して、従四位下大膳大夫であった武田信玄が従三位に贈位されることになったのである。
 これは、信玄が甲斐で行なった治水、土木、税法等にわたり、当時まれに見る民治上の功績が認められたものである。こうして信玄公に従三位の位記・宣命(いきせんみょう)を賜わったものの、これを受けるべき正統の子孫は何人であるかが問題となった。
 信玄の子孫といえば、「天正十年(1582)、信玄の四男勝頼がその子信勝と共に天目山で自刃して武田家は滅亡した筈」といわれる方も多いだろう。たしかに、天目山以後、戦国武将としての武田家は日本歴史の上から姿を消すことになるが、これによって「武田家」までも滅び去ったわけではない。信玄公の多数の子女のうち、いくつかの系統は天目山の悲劇後も生き延び、その家系を今日にまで伝えているのである。しかし、大正二年のその当時、信玄公が没してより既に三百四十年も経過しており、この間にそれらの各流は各地に散り、また各々の間で浮き沈みもあったりして、「信玄の正系」は公認されてない状態であった。
 このため、宮内省から発せられた位記・宣命が信玄の正統なる子孫に伝達されるということを聞いて、支流・庶流を含めた大勢の武田末孫が「自分こそ信玄の末裔なり」と名乗りでることになった(三十六家が立候補)。
この位記・宣命の伝達を取扱う山梨県庁で、その選択に困って、東京定刻大学史料編纂所にその調査決定を依頼した。しかし、ここでも容易にその判断を下しかね、そのため位記はとりあえず、信玄公の菩提寺恵林寺(山梨県塩山市)ヘ預けられた。
 ここで信玄公の子女のうち、女女子除き、男子の系統だけをみてみると、
まず
○第一男の義信は
 永禄八年(1565)に信玄に背いたとので幽閉せられ、
   十年(1567)十月に逝去した。
 その夫人は今川義元の女で女子が二人いたと伝えられている。
○次が竜芳(龍宝)で、当家はこの系統をひくものてみる(後述)。
○その次が信之で、これは十歳で夭折。
○その次が天目山の四郎勝頼。
○次に仁科五郎盛信
○葛山十郎信貞があるが、これらは、織田信長が天正十年(1582)三月に甲信両国を攻めた時、仁科は信濃高遠城に戦死し、葛山は甲府で殺され、共にその裔は伝わらない。
 このほかに末子の
○信清がある。
 これは勝頼歿後、越後に下って上杉景勝を頼り、以後景勝につき従って越後から会津、会津から沢へと移り、その子孫が米沢にあって今日に至っている。結局、信玄公の男系として今日まで続いているのは、竜芳系のという当家と米沢の信清系だけである。そこで、竜芳の血をひく武田信保(系譜参照)が正系であるか、あるいは、信清系統の山形の武田茂氏が正系であるか、二者選一の問題となった。
 そこで山梨県庁ではこの間題を再び東大史料料綿纂所へその調査を依頼した。
 編纂所では武田研究の権威渡辺世祐博士(故人)がその任にあたり、当家伝来の系図に基いて、竜方の子孫を正統なりと確認するに至った。ここに至るまでには、山梨県市川大門の武田研究家村松蘆洲翁の御尽力を忘れることはできない。山梨県下に武田の正系なしということで、位記宜命の下付が米沢の武田家へ決りかけた時、翁は米沢の武田家も信玄の子孫にはちがいないが、系統の順位からして、信玄の二男竜芳の血をひく後裔こそ正系ではないかと、当家が正系であることを大いに主張して下さったのである。
 かくして、贈位問題が起こってから十二年を経た昭和十二年(1937)に、従三位の公式書状が私の父信保に下附されたのである。
これと同時に、当家を子爵に叙爵する旨の沙汰があったか、父、信保はこれを拝辞してしまった。その理由は、川中島の好敵手である上杉家が伯爵であるのに、武田家が子爵というのは釈然としないというのである。ところが、この叙爵の決定を下した、時の宮内大臣・松平恒雄氏(現秩父宮妃殿下の父君)の奥様は鍋島侯爵家の長女の方で、その妹の方が私の父の兄の柳沢保承伯爵の妻であったから、当家と松平安とは縁がつながることになり、そのため子爵を拝辞することは相当の心労であったと、よく母(母・綱は柳生子爵の出身)はいっている。

流浪する武田家

ここでひとまず、武田家の系譜をたどってみると、二世竜芳は信玄の二男で名を信親(のぶちか)といい、母は信玄の正室三条左大臣公頼の息女である。長子義信の死亡後、竜芳が後を継ぐべきところ、眼疾を患ったので、永録四年(1561)信州海野の家を継いでいて海野二郎と名乗った。通称を聖道(しょうとう)様といわれた。

武田家滅亡の際
 勝頼が新府城を去って東進する時、法流山入明寺山主の栄順師(信虎を諫めて自殺した内藤相模守の子)は竜芳の身を案じて寺へ迎えいれたが、勝頼が天目山に亡ぶとの報が入ると、竜芳はその夜、寺内に於いて南自刃した。この時、竜芳の子信道は、武田の血筋の絶えるのを心配した入明寺の栄順および長延寺(甲府市)の実了のはからいによって、長延寺領の信州伊那犬飼村に難を避け、織田方の虎口を脱することができた。
 その後、徳川家康が甲州へ入国し、長延寺の再興を許したので信道は実了の後をついで長延寺第二世となり、法名を顕了道快と称した。ところが、信道が長延寺に住すること三十年に及んだ時、突然思わぬ災難がふりかかって来る。

信道・信正親子、伊豆大島に流される。
 それは、当時関東郡代であった大久保長安が武田家遺族を保護し、それを利用して大名になろうという野心をもっていたことが、彼の死後判明し、信道もこれに連坐することになったのである。大久保家に、武田家の花菱紋があったことがその証拠とされ、信道はその子の信正とともに上州笠間の城主松平丹波守康長の下に預けられることになった。
次いで元和元年(1615)、入明寺の栄順や旧縁の人達の弁護にも拘らず、幕府は信道父子を伊豆大島配流(はいる)してしまった。
 この遠流には信道の妻「ままの局」をはじめ、譜代の臣九名が随従している。
 大島での一行の生活の、辛苦はば申すまでもなく、信道は憂悶のうちに寛永二十年(1643)三月五日に、七十歳で他界され、次いで局も後を迫われた。この間の断腸の思いいを書き連ねて入明寺ヘ寄せられた局の玉章(たまずさ)は入明寺の寺宝となっている。
 なお、信道の大島での館や墓は戦後発見され、東京都史蹟となっている。 この後も、御子信正は,なおもゆるされず、さびしい月日を大島で過していたところ、信道の旧臣臣の奔走により、寛文二年(2663)、幕府から晴れて赦免の沙汰があった。四十九年の歳月を寂しい孤島で難苦をなめた信正主従は喜び勇んで江戸へ帰ってきた。ところが、もと国事に関する犯罪の嫌疑者であるので、幕府に気兼ねして、唯一人進んで彼等を世話するものがない。

助けてくれた内藤忠興夫人
 そこへただひとり奥州岩城平の城主内藤忠興夫人が手をさしのべてきた。この夫人こそ天正十年三月、武田勝頼に反して天目山に款を織田信長に通じ、勝頼をして天目山に最期を遂げさせた、武田一族の小山田信茂の養女である。
 実は信玄の孫と伝えられ、早くから家康に侍って、女ながら戦陣の間に従い、その寵を蒙っていたが、後に家康が忠興に嫁せしめたものである。この後、信正は忠興の女を妻とした。時に信正七十歳、その妻は十七歳であった。そこに生まれたのが五世信興である。 この五世信興の時、重ねて幸運がやってきた。
《筆註》不思議な因縁である。子の内藤忠興の子風流大名内藤風虎は、「目には青葉」の山口素堂が江戸藩邸に出入りし、松尾芭蕉との出会いもこの藩邸であったとする書もある。

柳沢家との関係
 当時、将軍綱吉に登用せられて威権並ぶものがない柳沢吉保の斡旋により元禄十三年(1700)甲斐八代郡に武田家が新知五百石を以て封ぜられたのである。しかも、表高家たることを命ぜられ、幸橋門外に新たに宅地を与えられた。以後、明治維新まで幕臣であった。
 柳沢吉保と武田家との因縁は、吉保の祖父信俊が武田家の庶流で、武田家滅亡と共に、家康に仕えたのである。さきの内藤家の夫人といい、柳沢吉保といい、まことに不思議な因縁である。特に柳沢家と武田家はこれ以後も相互に、養子縁組をとり交し、深いにしえを結んでいる。

信虎追放のこと
当家に伝わる家宝としては二十点ばかりあり、そのうち亀甲槍、鎧、古文書は正系決定の折に、武田神社(山梨県甲府市)に奉納した。また信虎、信玄、勝頼三公の真筆は戦時中入明寺に疎開させていたところ、入明寺が空襲を受けたため惜しくも焼失してしまった。
 ただ、武田神社に寄進した宝物は戦火にあわず、無事に残っている。亀甲槍というのは、信親が海野城へ赴く際に、母君が信玄公に依頼して与えられた品で、宝物中第一のものである。それで、代々、この槍秘蔵のことは口外を禁ぜられ、正系決定の日まで秘められていたといういわくつきのものである。また、竜芳の夫人以来、当主の夫人に代々伝えられた懐剣が一口残っており、これだけは今も我家にある。
最後に、最近の戦国ブームに際して武田氏正系として信玄公とその父信虎公との関係について一言したい。この両者の関係については、信玄公が信虎公を駿河に追放しだというのが通説となっているが、実際はそうではない。信虎公の領民に対、する暴虐な行ないが多くなるにつれ、家臣達の信は次第に信虎公を離れ、信玄公につくようになったのを知って、信虎公は自ら納得づくで駿河に退隠したのである。

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高野山武田信玄画像の山梨県公開は既に有った
<昭和41年10月>
高野山成慶院 信玄画像について
その面影 三人の肖像画より
上野晴朗氏著「定本 武田勝頼」

古い歴史の軌道を文字で再現し、組み立ててみようとすると、しょせん、どうしても見えない謎の部分が残ってしまう。そして、その謎の部分のほうが、ときにはどう考えても、残された古文書よりもその歴史の軌道にとって、決定的に重大である場合がある。武田勝頼のほとんど唯一の画像、その面霧を前にして、弘は長いこと、そのことに思いを染めてきた。その画像というのは、和歌山県の高野山持明院に蔵される「武田勝頼・同夫人・信勝公画像」の一幅である。去る昭和四十一年十月のことであった。<写真は同書>

私は、山梨県が甲府市内で催した「武田三代展」に、この画像と、あの有名な成慶院に残される重要文化財の武田信玄画像の二幅を、高野山の宝物館から借りてきた思い出がある。
そのとき、所有者の成慶院と持明院の肝煎で、武田氏減亡後、何百年の間、おそらく一度も御国帰りをしたことのない信玄の兜とか、松虫の鈴とか、文箱とか、念持仏など数十点の秘宝を借用して、故郷ではじめての公開をするため、一路甲斐に向かったのであるが、そのときの張りつめた緊張感を、いまだに私は忘れることができない。
(中略)
高野山持明院で調べた範囲では、遺品目録には「勝頼公拝御台所御曹子寿像一幅」と一応見えている。
寿像という表現は「寿」という字が示すように、生前に描かれた絵ということで、追慕によって描かれた記念肖像画とは違うのである。
ところで持明院には、この肖像画がどうして納められたかという手紙と、遺品目録も残されていた。
(読み下し)
「今度当国落去、勝頼公御生害是非に及ばず候。貴院お力落しの段察せしめ候。茲に因って、貴山において御弔の儀仰せ置かれ候。尤も早々登山仕るべきのところ、散々に相煩い候故、延引し罷り過ぎ候。此の空園坊は幸い根来寺の住山に罷り上り候条、御道具ならびに金子指し登し申し候。勿諭注文は別紙に有り。我等快気次第に罷り登り申すべく候。委曲は面上の時を期し候。恐々謹言
卯月十五日               慈眼寺尊長
高野山引導院御同宿中
注文
一、勝頼公井御台所、御曹子寿像      一幅
一、宝剣 信玄公御随身          一腰
一、飯縄本尊並法次第信玄公御随身     一冊      
一、対揚法度書 信玄公御自筆       一通
一、毘沙門 信玄公御具足守本尊      一躯  
一、小脇指                一腰
一、大勢至菩薩 勝頼公御本尊 小野道風筆 一幅
一、観音品 勝頼公御前守         一巻
一、三尊弥陀 同御守 中将姫織縫     一服
一、仏舎利 同御守            一粒
一、黄金                 拾両

右の品々指し登し候。宜しきよう御廻向成され可く候。已上。
卯月十五日
慈眼寺 尊長
高野山引導院(以上二通高野山文書第七巻)」

これによると、この肖像画と遺品の数々を納めたのは、甲斐国一宮村の真言宗慈眼寺の尊長(尊浄とも)という坊さんで、生前、勝頼の深い帰依をうけて親交があり、かねがね武田家が減亡したならば、高野山へ遺品を指し登らせて葬儀を営んでもらうようにと遺命をうけ、回向料と遺品を託されていたというのである。この控本は慈眼寺にも二通残されていて、その包紙にその旨が記されている。
それにしても「…貴山において御弔の儀、仰せ置かれ候」という遺言は胸にしみる鮮烈なことばであった。
なお引導院は、のちに持明院と改名するのである。
尊長老の手紙の包紙によれば、天正十年(1582)三月十一日、武田勝頼が天目山下の田野で減亡すると、かねて遺命をうけていた尊長は、すぐにも高野山へ登りたかったのだが、たまたま患って臥せっていたので、延引して困っていたところ、寺にきた空円(園)坊というのが、根来寺へ住山が決まりそちらに行くので、寿像ならびに遺品を託したというのである。そして後日、尊長老自身も約束にしたがって、病気が全快すると高野山へ登っていったのである。
これに符合する史料として、勝沼町上岩崎の真言宗金剛寺の寺記を見ると、天正十年に中興の祖、曾根源助が、尊長といっしょに高野山へ遺品を運び、その場で落髪して帰国、金剛寺を修復して住んだと見えている。曾根源助は勝頼の家臣として、あるいは遺品運搬の遺命をうけており、空円坊といっしょに先に登ったのかもしれないが、いずれにしても武田氏滅亡後の四月半ばすぎ、高野山で回向が営まれたことは事実であろう。
引導院過去帳に
「泰山宗安大禅定門 神儀甲州武田勝頼公為御志 天正十年壬午三月十一日午剋勉」
とあり、また
「英材雄公大禅定門 神儀甲州武田太郎殿御志 天正十年壬午三月十一日午剋」
と見えている。そうなると、その回向に使った掛真(けしん)は、この三人の肖像画であったことはほぼまちがいあるまい。云々

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