武田信玄

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武田信玄の遺言 抜粋

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<信玄の遺言>
○ 板垣法印の診断で5年前から病を煩い大事と思い判を押した紙が800枚ある。
○ 諸国への使札と返礼に使えば信玄は煩いなれども未だ存生と思い当家へ手を掛ける者はあるまい。
○ 3年の間、予の死したるを隠し国内を治めよ。
○ 勝頼の子信勝が16歳になったら余の家督とする。
○ それまで勝頼が陣代を務めよ。
○ 勝頼は武田の旗を持つこと無用なり。
○ 孫子の風林火山の放、将軍地蔵の旗、八幡大菩薩の旗はいずれも持つべからず。
○ 勝頼は今までどおり大文字の旗を使うべし。
○ 信勝家督の後は孫子の旗ばかり残し、ほかの旗はいずれも出すべし。
○ 法華経の幌は武田信豊に譲り、諏訪法性の兜は勝顆が育て後に信勝に譲るべし。
○ 予の弔は無用で3年目の4月12日に諏訪の海へ具足を著せて沈めよ。
○ 謙信とは無事にせよ。猛き武将なので若い勝頼を攻めることはあるまい。
○ 信長とは切所を構えて長く対陣すれば大軍で無理に掛かってくるので一塩つければ立て直すことはあるまい。
○ 家康は駿河まで引き入れて討ち取るべし。
○ 氏政は無理に掛かっても手間は取るまい。
○ 勝頼は謙信に16、信長に12、民政に8つ、家康に4つ、いずれも年増しの者に負けないようにし、仕置きを慎むところに敵より無理に働いて来たら領内に引入れて有無の一戦を行うべし。

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● 永禄4年9月10日に信玄と激突。
● この合戦で信玄は戦略・戦術で迷い、義信の弓矢指南役の鉄富兵部らの強攻策と意見が合わず、安全策ともいうべき「キツツキの戦法」を採用する。この作戦が山本勘助の発案とは笑止、おそらく信玄自身の発想であろう。いずれにしても、信玄はこの合戦の初戦で滅亡寸前まで追い込まれ、妻女山攻撃の別動隊の到着により愁眉を開いたものの、軍陣のことで義信と激しく対立する。その芽はすでに海津城の軍議のときから、さらにいえば今川義元が永禄3年5月に桶狭間で討死した直後から生じていたものといえよう。
○ 川中島戦後、信玄は17歳の勝頼を元服させて諏訪家を継がせ、よき武士8人を付けて高速城主に据える。
○ しかし義信がこれに反発したため信玄との対立が一層高まり、さらに謙信を打ち破れない信玄が方向転換して駿河(義信夫人の実家)を攻め取ろうとしたので対立は抜き差しならないものとなる。
○ 信玄は義信を警戒するあまり「山」と称する京間6畳に閉じこもって義信と断絶し、義信を追い詰めてしまう。
○ ここに至って義信は弓矢指南役の鉄富兵部としばしば密談をし、「ご陣において逆心、」し、信玄を殺すクーデター計画を詰める。
○ この計画は信玄の駿河侵攻を阻止する窮余の一策であるが、永禄7年7月15目深夜に発覚し、兵部は揺らえられて、永禄8年8月(一説に1月)に自害させられ、義信もまた諏訪頼重が投獄された東光寺の座敷牢へ押し込められる。
○ 自他ともに信玄の後継者と目されて領国内で重きを成している義信はすでに30歳。
○ 信玄は皇孫義信を殺すことができず、2年余り牢へ入れたままにし、その間にストレスがたまって苦悩は極限に達する。挙げ句の果てに実弟をはじめ親族衆や領国の部将ら数百人から「自分に背かない旨」の血判誓紙を取り付け、それを信州塩田の下之郷大明神へ奉納したうえで強権を発動、義信を葬り去る。永禄10年(1567)10月19日のこと、領国全体が烈震にふるえる。
○ 信玄にとって惜しまれるのは義信との対立である。永禄4年の川中島戦のときから義信を殺して同11年に駿河へ侵攻するまでの「失われた暗黒の7年間」は、信玄が40歳代、義信が20歳代、まさに胎がのっていたとき。
○ 義信殺害に至る7年間は信玄自身のストレス病の原因、お家衰亡の発端、その後の駿河作戦はお家滅亡の原因、それは義信との暗闘に勝利した信玄の野心を遂行したものである。
○ 義信の死は武田家臣団に強烈なショックを与える。
○ 信玄は親を追ってから論語を読まなくなり、その行動原理を孔子の君本主義から孟子の民本主義へ乗り換えたといわれるが、謙信や信長から大悪人として手厳しい非難を浴びる。
○ 今川氏は岳父北条氏康に相談して塩止めを断行し、また義信夫人を帰国させる。
○ 三国同盟は義信幽閉直後に信玄が勝頼夫人として義信の仇敵信長の姪を迎え入れたとき、すでに崩壊の兆しが現れる。
○ 信玄は、永禄11年(1568)9月に信長が足利義昭を奉じて上洛することを知り色を失う。
○ 動きの遅い信玄は、義信殺害から1年2カ月後、家康と今川領国を分取る談合をしてから9カ月後にようやく駿河へ侵入しようとする。
○ しかし、その矢先に病気にかかる。この病は義信との対立を原因とするストレス牲の胃病である。信玄はストレス牲の胃潰瘍にかかって吐血するが、病気が持ち直した12月6白に甲府を発ち、13日に駿府館を炎上させる。
● 北条早雲以来、今川家と親しい北条氏康は信玄の行動に激怒し、夫人(信玄の長女)を甲府へ送り返す。
● 4人の子らを小田原に残してきた長女は半年後に狂乱死し。氏康は仇敵謙信との同盟へ走る。
○ 信玄は、謙信が関東へ攻め込んでくる度に氏康を支援したが、今や離反され、敵となったことを恨んで永禄12年10月1
日に小田原攻めを敢行。
○ 信玄は駿河作戦により長男と長女を失い、このことが家中の混乱を拓き、ひいてはお家滅亡の原因となる。
○ 三条夫人は元亀元年(1570)7月28日に47歳で死去。夫人は嫡男義信と長女黄梅院が信玄の駿河作戦の犠牲となり、失意のうちに死去する。
○ 元亀2年10月に信玄の駿河作戦に反発していた北条氏康が病没すると、子氏政は一転して12月27日に信玄との同盟を復活する。
○ 信玄は信長が焼き討ちした延暦寺の衆徒保護の功により元亀3年7月天台座主覚忽(後奈良天皇の子。信玄夫人の異母兄)から天台宗極官の僧正に任命される。
○ そして10月3日大軍を率いて最後の出陣をし、12月22日薄暮に三万ケ原で家康と戦う。
○ この合戦で信玄は大輪の花を咲かせたものの、胃潰瘍が再発し、浜名湖畔の刑部という寒村で越年。
● 信長は平手汎秀・佐久間信盛ら3千の軍勢を家康の援兵とし、あわよくば信玄を葬り去ろうとする。
○ 信玄は信長と2度も縁組をしたが、信長は「天下布武」のため時間稼ぎを目的として縁組をしただけであり、信玄は完全に騙されていた。
○ 信玄は信長と手切れをし、東三河の野田城を攻めるが、病が悪化し、奥三河の長篠城や鳳来寺で療養する。
○ 4月に帰国の途につくも、信州南端の根羽村の三州街道筋で四隣を敵としたまま露と消える。
○ 元亀4年(1573)4月12臼、享年53。
○ 死の場所については諸説がある。根羽村の街道筋に信玄塚といわれる宝笹印塔が建てられている。往時は街道筋の駒場にあったという長岳寺に安置されたという。
○ 信玄西上の目的はなんであろうか。遠州奪取か、信長を叩くことか、それとも上溶か。団結力に疑問のある信長包囲綱、信玄の軍勢の規模、信玄の健康状態などから考えれば、夢は上洛であっても最後の出陣を飾るための出張と考えるのが妥当はなかろうか。
○ 信玄は望み通り駿河作戦を敢行したが、駿河へ侵攻しなければ義信の殺害はなかった。
○ 思うに信玄は跡目政策を誤っている。義信殺害だけでなく、諏訪勝頼を正式な跡目にもしていない。それは勝頼の母諏訪御科人が崩し討ちにした敵将の娘であるため、御科人を側室にするときから家老衆に反発されたからである。
○ そのために勝顆の子で赤子の信勝を養子にして跡目にするという突飛なことを考え出す。
○ 信玄は、家老衆を説得して勝頼をもっと早く甲府へ呼び寄せ、跡目は勝頼である旨を宣明して正式に武田姓を名乗らせ、かつ名前に「信」の字を付けて武田家の男とすべきではなかったろうか。
○ しかし勝頼は義信が殺害されてから4年、信玄の死の2年前にようやく高遠から呼び寄せられたにすぎず、それまで中途半端な立場のまま放置されていたのである。
○ 義信は跡目となりうるに足る能力と資格を持っていながら殺され、有能な勝頼も正式の捗目になれない。勝頼は甲府へ来ても「よそ者」であり、信玄の遺言でも正式の跡目ではない。
○ すなわち信玄の「3年間は喪を隠す」という遺言の意味は「建て前上は信玄が生きており、その間は勝瀬が信玄の代行を務め、信玄が花押を据えた800枚の用紙を諸国への使札に使用する。また3年後に信玄の死が公表されたときは、養子信勝が信玄の跡目となって勝頼が陣代を務め、信勝が16歳になったとき家督を継がせる」ということである。
○ 信玄の遺言はあまりにも現実離れをしている。勝頼は武田の旗を持つことさえ許されないまま、疾風怒涛の戦国末期の重責を負うこととなる。
○ これでは勝頼がますます軽んぜられ、信玄の死とともに天空から黒雲が垂れ下がり、地底からはマグマが噴出した。
○ すなわち長坂釣閑斎など側近派と内藤昌豊など武功派が激突して家中を激しくゆさぶった。当代随一、思慮深い信玄であるだけに、駿河作戦により跡目の義信を殺して家中の混乱を招いた上に、さらに勝頼の箔付けを誤ったことが惜しまれてならない。

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第19代 武田信玄

○ 信虎2男。勝千代。太郎。
○ 大永元年(1521)11月3日に大井信達の長女を母として積翠寺で生まれる。(東郷平八郎の筆になる「武田信玄出生の地」の碑が要害山の上に建っているという。
○ 甲斐国守護・信濃国守護。御旗・楯無相伝第27代。射礼相伝。
○ 皇女三条姫との結婚を控えて天文5年(1536)3月、第19代16歳で元服。大勝大夫・従5位下に叙せられ、将軍義晴から一字を賜わって晴信を名乗る。
○ 本卦は豊。院号法牲院。表徳号 徳栄軒。道号機山。法牲院の法牲は諏訪明神の別号である南宮法性大明神から、あるいは比叡山法性院の什物である不動画像を御旗足の本尊としたことから、取ったといわれる。
○ 「甲斐国志」によれば、徳栄軒の徳栄は増穂町小室の徳柴山妙法寺の第10代住持日薬(信玄の叔父という)から山号を勝られたという。
○ 機山は快川和尚からもらい受け、機は兵機の機とか、概略の機であろうという。
○ 信玄は教育熱心な母の導きにより長禅寺(南アルプス市の古長禅寺)で仏書、兵書、詩歌や王義之・瀕真卿・柳公雅の筆法を学ぶ。長じては京の妙心寺派をはじめ仏法各派の高僧を招いて耳を傾け、戦国大名として抜群の学問を身につける
○ 快川和尚は信玄の7回忌の番語で「伎芸を嗜み兵書を読むなど四書六経や諸氏古家の書をことごとく学ばざるはなし」と述べている。
○ 信玄は中国の思想に造詣が深く、また足利学校の流れを汲む易笠を行動の指針とし、歴代の国主と同様に祖廟(御放・楯無を納めている御放産)の誓いを重んずる。そして「兵は海道なり」といって戦わずして勝つことを最上とする。
○ 信玄は巳年生まれであるためか龍神思想に入れ込み、東国第一の軍神諏訪明神に傾倒する。そのため「龍」の朱印を使い、諏訪法性の兜に龍頭をつけ、龍神が住むという諏訪湖に遺骸を沈めるよう遺言をする。
○ 信玄の旗には「孫子の風林火山の旗」「諏訪法性の旗」「将軍地蔵の旗」などがある。甲陽軍鑑によれば、三方ケ原で家康に勝ち、信長と手切れをして東美濃へ発向するとき、孫子の故に「天上天下唯我独尊」と書き加え、その翌月4月12日に他界したという。しかし三方ケ原戦ののちに東美濃へ発向したというのは誤りである。
○ 信玄は天文2年(1533)、13歳のとき関東の扁谷上杉朝興の娘を夫人に迎えたが、夫人は出産できず翌年11月に懐胎したまま死去。
○ その後天文5年7月駿府の寿桂尼の奔走により京の公家三条公頼の娘と再婚する。三条家は笛と装束のお家であり、また仏法を司る転法輪家である。
○ 公頼夫人は勧修寺尚瀬の娘、異子が養女となっていた広橋守光の子兼秀夫人も勧修寺政顕(尚顕の父)の娘、政顕の妹藤子が後奈良天皇の母、さらに古典に造詣が深い三条西実隆の夫人は天皇生母の姉、寿桂尼の実家中御門家は勧修寺家と同流の藤原氏、こう見てくると皇女が勅命によって信玄のもとへ嫁いできた理由が氷解するであろう。
○ 女系はすべて勧修寺家の娘で固められているのである。
○ なお公頼の実子かどうか不明であるが、姉は室町幕府の管領細川晴元へ、妹は石山本厳守の穎如上人へ嫁ぐ。
○ 信玄夫人と妹の年齢差は20 歳ほど開いている。
○ 信玄の初陣は天文5年12月、このとき信玄は信州海ノ口城で平賀源心を討ち取る。源心の首は須玉町若御子に、胴体は信州南牧村平沢寺に葬られる。
○ ところが、3氏を謙信へ内通の科で成敗し、やがて2男信親に海野家の、5男盛信に仁科家の、そして寵臣春日昌信に香坂家の家名を名乗らせる。
● 謙信は信玄が信濃諸将を追い、自分の関東制覇を妨害し、越後へ脅威を与えていることに激怒して度々川中島へ出陣。
● 永禄4年9月10日に信玄と激突。

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