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糞を嘗む(甘利左衛門)  楓軒偶記(小宮山昌秀)

 甘利左衛門尉晴吉は武田家の侍大将なり。松山の城攻に、米倉彦次郎銃に中り死んとす。或云、葦毛馬の糞汁を飲む時は癒べし。米倉云、勇士寧死とも糞汁を飲むべからず。甘利云、忠臣は身を全ふするを上とす。糞汁何難からん。自らころえをとり快飲して曰、味一段よろし。子宜く服すべしと、小倉感じてこれを飲む。遂に痊たり。其情は同じといえども、其意は異なり。人士の黄龍は〓通が吮癰に同く、甘利の快飲は呉越が吮疸に類せり。豈〓通人士と同口して談ずべけんや。惜哉。甘利早歳にして歿し、名を呉起に次ぐ事あたはざるのみ。

原美濃守虎胤   柳庵随筆(栗原信充) 
小田原記。原美濃守と云侍、紺糸鎧に半月の二間許両方へ出たる指物にて、甲眞向に原美濃守虎胤と書て猪首に着し、是は下総国千葉の侍なり。父原能登守友胤と云者、小弓御所合戦の頃、総州より牢人して甲州に行、信虎に奉公して度々高名し討死す。其子美濃守信虎烏帽子として虎胤と名付く。治乱記。天文二十三年原美濃守虎胤、黒鞍に月に星金具に摺たる云々。原奮は下総千葉介が一族にて彼旗下也。先年生實御所義明鵠臺にて討れし後、父能登守は臼井城より甲州に浪々し甲州に来り信虎に仕、終討死す。美濃守若年の時より大剛の誉あり。信虎烏帽子にし諱字を授しが、近年聊事ありて武田家を立退。
  「千葉系図」原氏流也
 千葉介頼胤 大隅守宗胤  大隅守貞胤  胤高  胤親 原越後守胤房 能登守友胤  美濃守虎胤
  川中島   薫風雑話(渋川時英)

武藤修理亮    三省録(志賀 忍)

 武藤修理亮は武田信玄につかへて、槍をあらはすこと三十七度、分捕功名数しらず。信玄、勝頼二代の感状を得ること四十二通あり。勝頼戦死の後、小田原にゆき、関東の人に千騎に一騎とほめらるゝはたらき度々あり。小田原北条滅亡の後浪人せしが、福島左衛門大夫まねきむかへて、三千石の所領をあたへたり。関ヶ原一戦のみぎり、度々の功名をあげてかぞへがたし。元和四年正則滅亡の後、また浪人の身となりて、大津浦にまづしくくらし、馬の沓をつくり世わたりとす。折ふし上手にて、馬士ども武藤沓といひて用ひけり。人みなこれをわらふ。ある人いさめて曰、武具馬具を沽却そて世わたりの助とし給へ、武器(?武藤)沓と名をよばはるゝは恥なりといひけれども、か
ってきゝいれず、はたして加賀利常卿より三千石をたまはりて、武藤沓の恥をすゝぎ、一生槍の場数をいはずして老年を終る。 (『新武者物語』)
  一条次郎頼忠(忠頼)    三省録(志賀 忍)
 甲斐源氏一条次郎頼忠謀反の企あると聞、鎌倉殿(頼朝)これを誅せらるべきと、壽永三年(1184)六月十六日殿中において誅したまふ。《中略》頼忠が侍新平太、同武藤與一並び山村小太郎等、事の起こると見しより、面々太刀押取侍所の上に乱れ入る。中にも山村小太郎なども寝殿ちかくはしり入、天野藤内遠景かたはらなる大魚板を以てこれを打つと云々。
   (『武道兵語抄』)

井伊兵部少輔直政かたられしは、  三省録(志賀 忍) 
むかし東照宮、甲州若神子の於て北条氏直と御対陣の時、ある夜大久保七郎右営門忠世かたより、只今若き衆うつよりてうまき料理に候、早々御出あるべしと申こさるゝにより、急ぎゆくむかへば、陣屋の出座に火をたき、自在鎰を下して、平鍋にふつゝかなるをかけて、根芋の葉も茎も、ともに糖味噌にて煮たるなり。座中には鳥井新太郎忠政、石川長門守康道、本多彦次郎康重、岡部彌四郎長盛、大久保新十郎忠隣など、焼火を取り囲み居らるゝ。七郎右衛門座をひらき、萬千代殿これへく
と請ぜらる。其芋汁いまだ煮えざるを、手々に椀を盛、舌うちして食ひけり。直政へも椀に堆盛てあたへたるをとり、少し喰けるに、殊の外あぢはいあしく、、食するに耐え難がたく、下にあきて居ければ、流石萬千代殿は、若き衆にて華美まりとて、みなく数椀あらそひ喰ける。七郎右衛門曰、萬千代どのいかゞして食し給はぬやとなり。これに少し醤油を入なばよかるべしと挨拶す。みなく申やう、それは奢なり、左やうなものが、今こゝにあるべきかとなり、又七郎右衛門申すは、いづれもよくこゝろえられよ。この芋汁の味のわるさをみな賞翫せられ候。手前の士卒これをさへ食することならず。わずか三合の米煮るもせぬ黒米を食ひ、寒苦をしのぎ、暑熱をいとはず、白刃に身をくだき、主人のために命をなげうちて、其ものゝ切なるところ、武道義理により、百姓はまたかやうのものを作り出し、辛苦して主君に収納し、士卒をやしなひ、かやうなるものもおのれが口に入ることならず。妻子も飢寒に及べり。さあらば大将たる人は、そのこゝろあるべきことなり。今屋形さま次第に敵国を多くしたがひさせ給はゞ、おのく大名になるべき間、只
今の芋汁の味を忘れず、士卒を撫愛し、百姓を隣愍あるべきなり。もしこのこゝろわすれ給はゞ、武道おこたり、君臣の義もうすかるべし。屋形様つねずね武道わするべからずとおほせらるゝはこゝなり。臂をはり眼をいからすといふにあらず。家業をつとめよといふことなり。家業の第一は士卒を愛するなり。さなければ大事の用に立がたしといひしを、今耳底に残りて感ずるとなり。(『故老諸談』)

馬場美濃守    三省録(志賀 忍)

 (前文略)甲州の武田信玄の家老の中にて、、別て弓矢の巧者と名を呼ばれし馬場美濃と申たる侍は、戦場常存(在か)申四字を書き、壁に懸置て、平生の受用と仕るよし申傳ふるところなり。初心の武士心得のため仍如レ件。(『武道初心抄』)

 馬場美濃守信房    三省録(志賀 忍)

 甲州の武田信玄の家老の中にて、馬場美濃と申たる侍は、戦場常存と申四字を書き、壁に懸置て、平生の受用と仕るよし申し傳ふるところなり。初心の武士心得のため仍如レ件。
(武道初心抄』)
  小幡勘兵衛景憲の養子    三省録(志賀 忍) 小幡勘兵衛景憲が実子なきを以て、何某の次男を養子としける。そのころ若輩の面々は、丹前風とて髪の結やうより大小衣類にいたるまで、異様なる風俗なりし、小幡が養子も若年のことゆゑ、その風をまなびて、鏡二面を用て髪つくろひけるを、父景憲とがめて申は、若輩なれども武士の家に生るゝ身として、二面の鏡もてかたちつくろうふこと、遊女野郎の所為なりと立腹し義絶せられけり。この人武功におゐては人のゆるせし事なり。乱舞も巧者にて、その外細工もよくせられたり。
  (『明良洪範後編』)

  馬場美濃守信房   柳庵随筆(栗原信充)

 『治乱記』馬場美濃守氏勝とあり。甲州侍大将也。『甲陽記』馬場伊豆守虎貞、大永六年武田信虎に殺されその跡絶たりしを、当屋形教成(来)石民部少輔景政に仰付られ、馬場民部氏勝とめされ、信濃国眞木島の城に置せらる。永禄の比は美濃守とめされしが、長篠にて討死也。『甲陽軍艦』馬場美濃守百廿騎。『□□一書』はじめ教来石民部丞氏勝、天文十五年馬場美濃守と改む。(或は尚房と云)『仏祖統記』馬場民部少輔景政(後改美濃守信房)日豪上人、遠州端和妙恩寺祖。『家忠日記』天正三年五月廿一日長篠ノ戦ニ甲兵多ク戦死シ、勝頼自殺セントスルノ處、馬場美濃守、内藤修理亮踏留リ討死ス、塙九郎左衛門ガ従卒、河井三十郎馬場ガ首ヲ得タリ。

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