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			<title>サブやんの武田信玄総合調査資料室</title>
			<description></description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21</link>
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			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>サブやんの武田信玄総合調査資料室</title>
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		<item>
			<title>信玄、父信虎を追放して甲斐を統一・海の口城攻めの初陣で大手柄をたてる</title>
			<description>歴史に興味を持つとさまざまな書や文献それに刊行物を読むことになる。しかし一冊では歴史は偏るし、たくさん読むと混迷する。&lt;br /&gt;
この信玄が父信虎を追放した事件もそれぞれの書がそれぞれの見解を示し、また引用書にも限界があり、一向に解明できない。&lt;br /&gt;
一国の戦国大名が忽然とその当主を入れ替える作業はそう簡単なことではない。用意周到であり、計画と実行それに父信虎への配慮などを総合すれば、追放ではなく信虎が自ら出国したとの説も十分成り立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参考資料&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武田信玄波乱の生涯（「武田信玄」風林火山の大戦略）歴史群像シリーズァ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜信玄、父信虎を追放して甲斐を統一・海の口城攻めの初陣で大手柄をたてる＞&lt;br /&gt;
（「武田信玄」風林火山の大戦略）歴史群像シリーズァ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・武田信玄は甲斐の守護大名、武田左京太夫信虎の長子として、大永元年（1521)十一月三日、甲府館の詰の城・積翠寺(要害山)城に生まれた。母は一族大井信達の女だった。幼名は太郎。信虎は合戦の勝利を願って別名、勝千代と名づけた。&lt;br /&gt;
・折から駿河今川氏の重臣、遠江土方の城主、福島正成が一万五千の大兵をもって甲斐に侵入、甲州軍と対峙中であったが、男子誕生に力ついた信虎をはじめ重臣の萩原常陸介をはじめ家臣一統は、中巨摩の上条河原に、福島軍を大いに破った。&lt;br /&gt;
・福島軍は羊将正成が戦死し、死傷四千をだして潰走した。&lt;br /&gt;
・この合戦の勝利によって、反乱の絶えなかった国中（笹子峠以西の甲斐）の一族も沈静し、信虎に抗するものはなくなった。信玄の勝千代はすくすく成長した。&lt;br /&gt;
・信玄の子供のころを語るのにヒバリの巣を上手に発見した話や、貝の数を、兵にたとえて家臣をおどろかした話などがある&lt;br /&gt;
が、十三歳になった信玄は、父信虎の命によって、最初の妻を娶らされた。自戦国の政略による早婚である。&lt;br /&gt;
・妻は関東管領上杉氏の有力な一族、川越城主の上杉朝興の女だった。信虎は上杉朝興と結んで、小田原の北条氏綱と対抗するためであった。だが、この妻の上杉氏は翌年&amp;quot;懐蛤死&amp;quot;した。&lt;br /&gt;
・天文五年（1536）、信玄は十六歳になり、元服した。将軍足利義晴の偏諱（へんき）をつけて晴信と名のり、従四位大膳大夫に任じられた。&lt;br /&gt;
・また、この年、左大臣三条公の姫を娶った。今川義元の仲介だったとい。この姫の姉は室町幕府の管領細川勝元に嫁し、娘は石山本願寺光性の裏方になっていた。&lt;br /&gt;
◎「甲陽軍艦」の引用&lt;br /&gt;
・信玄の初陣には諸説があるが、天文六年（1537）、佐久海の口城攻めが初陣だった。『甲陽軍鑑』はこれを天文五年のこととしているが、記載内容は事実とされるので、つぎに略記してみよう。&lt;br /&gt;
・信虎公は信濃佐久郡の海の口城を攻めたが城の内にも人数も多く、また平賀の源心法師も加勢にきていたし、大雪も降ってきたしするので、城はなかなか落ちそうもなかった。&lt;br /&gt;
・そこで甲州の衆はよりよい相談をした。城には三千という人数が篭っているのに、味方の兵は、八千にすぎない。それに今は十二月の十六日だ。ひとまず城を巻きほぐして甲州へ帰り、来春また攻めることにしたらいかがなものか。敵はこの雪だから、追ってはこまい。このように相談をきめて信虎に申し上げると信虎も納得して翌十二月二十七日に引き上げることになった。&lt;br /&gt;
・そこへ、晴信公がでてきて殿軍を所望した。&lt;br /&gt;
「なんと申すか」&lt;br /&gt;
信虎公は大いに笑っていった。&lt;br /&gt;
「武田家の不名誉なことを申すものだな。大雪だから敵は追撃してこないだろうと侍大将たちも申している。これでは殿軍の働きようはない。こうした殿軍はたとえ、わしがそのほうに申しつけたとしても、弟の次郎に申しつけられたい、というのが惣領として、また兄としての情というものだ」&lt;br /&gt;
・だが、晴信公が強って望んだので、信虎公はしかたなく、晴信公に殿軍を申しつけられた。&lt;br /&gt;
・信虎公は長男の晴信公を嫌い、次男の信繁公を愛していて武田家をこの次男に継がそうと思っていた。&lt;br /&gt;
・二十七日、信虎公は軍を返した。&lt;br /&gt;
・晴信公は三百人ばかりの手勢とともに後に残った。その夜は一人宛三人前の弁当をつくり、武装も解かせずに兵を休ませ、&lt;br /&gt;
馬も鞍をおろさず、十分に飼葉もかわせた。&lt;br /&gt;
・それから、ご自身で触れてまわった。&lt;br /&gt;
「明朝は暗いうちの七ツ(午前四時)に出発すぞ。寒いから出立ちに先だって酒を呑め、上戸も下戸もな。ただし酔ってはならんぞ」酒は手まわしよく酒屋から集めておいたものだった。&lt;br /&gt;
・二十八日、予定の時刻に出立し、城に近づいて晴信公はいった。&lt;br /&gt;
「城を攻撃するぞ。おそらく城中には留守居の兵しか残ってはいまい。正月の準備に村へ帰っただろう。さあ、みんな働いて&lt;br /&gt;
手柄をたててくれ」&lt;br /&gt;
兵たちか城のようすをさぐると、城方では七・八十人の留守居を残して、あとは村へ帰ってしまっている。&lt;br /&gt;
しめしめと彼らは思った。&lt;br /&gt;
このころは侍も兵も、主人に直接仕えるもののほかはみな農村で百姓をしていた。そして、ことが起ると、主人が動員を発し、その命令にしたがって城へ駈けつけた。&lt;br /&gt;
海の口城は警戒もしていなかったから、間単に突人することができ、たちまちのうちに、源心法帥をはじめ、城兵をことごとく討もとってしまった。たいへんな勝利である。&lt;br /&gt;
・だが、信虎公は空き城だから落とせたのはあたり前だといって、晴信公の手柄を認めようとはしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜家臣団と図り、父信虎を駿河に追放する＞&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・天文文十年（1541）五月、武田信虎、信玄の親子は、北佐久・南小県郡に出陣し、諏訪頼重、村上義清たちと協力して、小県の滋野一族を攻撃した。一族はバラバラになり、根（禰）津、矢沢は降伏し、海野の当上棟綱や真田辛隆たちは上州へ逃亡した。&lt;br /&gt;
・武田としては直接実益はなかったが、北方を押さえたことによって、南佐久の占領を確かなものとすることができた。&lt;br /&gt;
・信虎、信玄は五月の終りに甲府へ凱旋した。ところが、六月になってとんでもないことが起こった。信虎は息子の信玄によって駿河の今川義元のもとへ追放され、信玄が武田家第十七代当主になったのだ。&lt;br /&gt;
・これは信虎政権に見切りをつけた重臣の板垣信方・飯富兵部らが中心となってて信玄を擁し、信玄もまた、信虎に廃嫡されるのを心配して協力したものであり、さらにまた信玄の姉が嫁いでいる今川義元も協力し、信虎の身柄を引き受けたものだった。&lt;br /&gt;
・『塩山向嶽奄小年代記』は、こう記している。&lt;br /&gt;
「信虎平化悪逆無道也。同中人民牛馬畜類共二愁悩ス。然レバ駿州大守義元信虎之女ヲ姿ル。信虎之ニ依り辛丑（天文十年）&lt;br /&gt;
六月中旬駿河ニ行ク。晴信万民愁ヲ済（すくわ）ント欲シ、足軽ヲ河内境ニ出シ其ノ道ヲ断チテ位ニツキ国々ヲ保ツ。人民悉ク快楽（けらく）ノ咲（わらい）ヲ含ム」&lt;br /&gt;
・これによると、信虎は悪政をしいて、畜類まで恨んでいた。そんなときの六月中旬信虎は娘婿の今川義元のところへ行った。息子の晴信は人びとの愁いをなくそうとして、国境の河内に足軽をだして、信虎を甲州へ入れなかった。晴信が新しい国王になったので、人びとはすごく喜んだ、というのである。&lt;br /&gt;
・けだし当時のようすを、第三者として記したものであろう。&lt;br /&gt;
・しかし、信虎には何人かの側室弔も、家臣も、下女下男もつき、その費用は一切信玄がおくったので、実質灼には追放というのではなく強制的な隠居であった。&lt;br /&gt;
・命を奪ったわけでもなく、大名の隠居として牛活するだけの経済的な補償をしているから声を大にいうような親不孝ではな&lt;br /&gt;
い、と甲州人たちは昔からいっているが、現実の面から見るなら、たしかにそうにちがいなかった。&lt;br /&gt;
・だが、一般には、親を追放した信玄としてひどく悪評をかった。&lt;br /&gt;
・この無血クーデターの三日後の十七日、信玄は躑躅ヶ崎の甲府館に入り、二十八日には相続披露の祝儀をとり行なった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3992897.html</link>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 18:18:19 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>武田信玄伝＜誕生から初婚まで＞</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-e1-f7/takedasingen21/folder/427519/01/3980901/img_2?1248157245&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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武田信玄伝＜誕生から初婚まで＞&lt;br /&gt;
１、生誕地の生年月日&lt;br /&gt;
武田信玄は大永元年(1521)十一月三日、甲府の武田館(騨鰯ヶ崎館)の要害城(要害山)で生まれている。&lt;br /&gt;
２、父と母&lt;br /&gt;
父は武田家十六代の信虎（父二十八歳）。母は甲府盆地西郡の武田氏一族である大丼信達の娘（（母二十四歳）。&lt;br /&gt;
３、誕生地&lt;br /&gt;
『高白斎記』で、「九月、九島ノ凶(戸)事、十六日乙丑、亥刻富田落城、寅刻御前御城へ御登り、十月十六日丁未、於飯田合戦御勝利、同十一月三日辛亥、戌刻晴信公誕生、蟇目曾根三河守縄長相勤」&lt;br /&gt;
《註》これによると、大永元年の九月に、駿河今川氏の重臣である遠州土方城主の福島正成らが大軍をもって甲州へ攻め入り、十六日には大井夫人の企家である西郡の富田城(甲西町戸田)が落城したので、慎妊していた夫人は大事をとって、館の裏手の要害城へ避難し、飯円河原の合戦で信虎が勝利した直後の十一月三日戌刻(午後八時頃)に晴信、（信玄）が誕生。&lt;br /&gt;
《註》蟇目役とは祝儀の使者であって、曾根縄長は、後に活躍する昌長の父であろうか。&lt;br /&gt;
４、誕生の模様&lt;br /&gt;
『高白斎記』十一月二十三日の上条河原（中巨摩郡敷島町)の合戦で、信虎が大勝。後の二十七日に、積翠寺より母子が武田館へ戻った。&lt;br /&gt;
《註》文中に積翠寺とあり、同寺に産湯跡などがある。晴信の誕坐地を同寺とする意見もある。&lt;br /&gt;
《註》要害城は、その地名から積翠寺城(石水寺城)とも。山頂には現在でも城郭遺構残存する。&lt;br /&gt;
《註》駿河勢との飯田河原・上条河原合戦は、信虎の領国経営上での最大・最後の危機で、移転間もない甲府館はいまだ未完成で、周囲の反乱も続発していた時期。信虎は、この合戦の大勝利を記念し、合戦の最中に誕生した子の幼名を「勝千代」と称した(『甲陽軍鑑』)。&lt;br /&gt;
５、学び&lt;br /&gt;
西郡鰍沢郷の古長禅寺の岐秀元伯から、禅学や兵法を学んだといわれ、この寺は後に甲府へ移り、晴信薙髪の道場とよばれている。&lt;br /&gt;
《註》伝説的事項&lt;br /&gt;
・婦人の夢―太郎の誕生前に母の大井夫人が諏訪明神の夢を見たという。&lt;br /&gt;
・信虎の夢―信玄が曾我五郎の生まれ変わりで、黄金の目貫を片手にもって生まれてくるいう夢を見た。（夢見山・武田館の東）ただ、母方の菩提寺である&lt;br /&gt;
６、&lt;br /&gt;
天文二年（1533）、太郎・勝千代は、最初の妻を迎える（関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉朝興(武蔵河越城主)の娘である。（『勝山記』）&lt;br /&gt;
勝山記、天文二年条に「此年、武田殿川越殿ノ息女ヲムカヒ申候」&lt;br /&gt;
《註》当時、信虎は河越城の上杉朝興と結んで、小田原の北条氏綱と対立抗争にあり、この婚姻は同盟関係を強化が目的。&lt;br /&gt;
《註》最初の妻上杉氏が正室かどうかははっきりしない。&lt;br /&gt;
７、&lt;br /&gt;
『勝山記』の天文三年条には「此年霜月、当国屋形源太郎殿(勝千代)上様、川越ヨリ御越候而、一年御座候而、懐胎被食、死去被食候」、&lt;br /&gt;
《註》信玄に嫁して一年余の後に、懐妊死去してしまった。時に太郎はまだ元服前の十四歳で、上杉氏の年齢は不詳。&lt;br /&gt;
８、信玄の兄弟&lt;br /&gt;
・信玄には四歳上の庶子の兄竹松がいたといい、大永三年十一月一日に、わずか七歳で夭折(「誓願寺記」)。&lt;br /&gt;
・信玄の弟として&lt;br /&gt;
信繁―永禄四年(一五六一)九月の川中島の戦いで戦死。&lt;br /&gt;
信廉―後に逍遥軒と号し、親族衆として信玄を補佐、絵画も多く残している。&lt;br /&gt;
信是―松尾家を継ぐ。&lt;br /&gt;
宗智―出家して恵林寺僧となる。&lt;br /&gt;
信実―河窪氏を継ぐ。&lt;br /&gt;
・姉妹について（政略結婚）&lt;br /&gt;
同腹の姉―今川義元夫人&lt;br /&gt;
妾腹の妹－穴山信友夫人・諏訪頼重夫人（彌々御料人）&lt;br /&gt;
政略結婚させられた。&lt;br /&gt;
・信虎の四女以下、七女までは、晴信によって、信濃の旧家豪族のもとへ嫁ぐ（政略結婚）&lt;br /&gt;
武田信玄伝＜元服から自立まで＞&lt;br /&gt;
１、	&lt;br /&gt;
元服は、天文五年(1536)の十六歳の時。&lt;br /&gt;
《参考》『高白斎記』「三月、武田晴信公元服、十六歳、義晴ノ諱（いみな）ノ晴ノ字ヲ賜」&lt;br /&gt;
《参考》『甲陽軍鑑』でもほぼ同様の記述。『軍鑑』はこの時に同時に「信濃守、大膳大夫」を拝領した&lt;br /&gt;
《註》大膳大夫の史料での初見は、天文十一年九月二十四日である(「守矢家文書」)。&lt;br /&gt;
《註》大膳職は宮中の食膳を司る官職で、その長官である大夫は従四位下が相当位&lt;br /&gt;
《参考》確実な史料上では、天文十七年十一月の塩山向岳寺宛の条目の署名に「正四位下源朝臣晴信」とある。&lt;br /&gt;
《註》天文十九年十一月二十四日の身延山久遠寺へ奉納した法華経の奥書に「従四位下武田大膳大夫兼信濃守源晴信」とある(『身延町誌』)。&lt;br /&gt;
２、大正三年(1914) 從三位が追贈&lt;br /&gt;
信玄は、近代になっての大正三年(1914)、大正天皇の即位大典にあたって、歴史上の人物に追贈位があり、その時、民政上の功績が大きいということで、從三位が追贈された。その位記は現在でも信玄を祀る武田神社で所蔵しているが、この時の調査&lt;br /&gt;
でも、それまでの位を従四位下としている(渡辺世祐氏『武田信玄の経緯と修養』)。&lt;br /&gt;
３、信玄、正室を迎える&lt;br /&gt;
天文六年二月、晴信は今川義元の斡旋で、公家三条公頼の二女を正室として迎えている。（三条夫人）&lt;br /&gt;
この時、晴信の姉が義元に嫁している。（この二つの婚儀は同時進行）&lt;br /&gt;
《註》晴信の婚儀については、天文五年七月とする説もある。この時期の義元は家督争い(花倉の乱)の禍中。&lt;br /&gt;
４、信玄の初陣&lt;br /&gt;
《参考資料》『甲陽軍鑑』(品十八)&lt;br /&gt;
天文五年十一月二十一日に、父信虎が信濃佐久郡を攻めた折、海の口城を三十四日間も包囲したが、落城させられなかったものを、殿（しんがり）軍として残った晴信が、十二月二十六日の一夜のうちに急襲して落城させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
◎&lt;a HREF=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/takedanobutora20/3246452.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://blogs.yahoo.co.jp/takedanobutora20/3246452.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
写真は積翠寺</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3980901.html</link>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 15:20:45 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>武田信玄伝＜信虎退隠と信玄の家督相続＞</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-e1-f7/takedasingen21/folder/427519/66/3980666/img_0?1248156966&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
武田信玄伝＜信虎退隠と信玄の家督相続＞&lt;br /&gt;
１、佐久郡への進出&lt;br /&gt;
天文十年(1541)五月、前年につづいて信虎・晴信父子は、揃って佐久郡に出陣し、諏訪頼重・村上義清と連合して、小県郡の滋野氏一族を攻撃した。滋野氏（海野氏・彌津・矢沢・望月氏など。小県郡～北佐久郡を支配）&lt;br /&gt;
《参考資料》「神使御頭之日記」&lt;br /&gt;
諏訪上社の神長官であった守矢家の記録「神使御頭之日記」によれば、五月十三日に信虎・頼重・義清の三者が合力して尾山城(小県郡丸子町)を攻め落とし、翌日は海野平で彌津元直と戦ってこれを撃破。彌津・矢沢は諏訪氏のとりなしによって許されたが、海野棟綱は関東へ落ち、関東管領の上杉憲政を頼った。&lt;br /&gt;
２、信虎は駿河に隠退・信玄家督相続へ&lt;br /&gt;
信虎・晴信父子がいつ甲府へ帰陣した日時は明確ではないが、六月十四日には、信虎が女婿である駿河の今川義元のもとへ出発し、その日のうちに嫡男晴信のクーデターによって、政権の座を追われた。（諸説あり）&lt;br /&gt;
《参考資料》「甲斐国志」&lt;br /&gt;
父子合意説（晴信が父信虎を駿河へ追放したのは事前に両者の合意があってのことで、いずれ駿河を領国化する遠大な計画の一環であった。&lt;br /&gt;
《註》この説は、晴信反逆説を弁護したもので、江戸時代の甲州人の信玄贔屓から出たものだった。との説もある。&lt;br /&gt;
《参考資料》『勝山記』&lt;br /&gt;
此年六月十四日ニ、武田大夫殿様、親ノ信虎ヲ駿河国へ押越申候。余リニ悪行ヲ被成候間、加様被食候。去程ニ地下・侍・出家、男女共喜致満足候事無限。&lt;br /&gt;
《註》晴信は親の信虎を駿河へ押し込めたが、信虎に悪行が多く、人民が喜んだといっている。&lt;br /&gt;
《参考資料》『塩山向岳禅庵小年代記』&lt;br /&gt;
信虎に失政があったから領民は領主の交替を望み、晴信がその期待に応えてクーデターを敢行したということである。&lt;br /&gt;
《註》この考え方については、晴信の逆意を正当化するために信虎の悪行が強調されていると見る意見もある。&lt;br /&gt;
《参考資料》『甲陽軍艦』&lt;br /&gt;
信虎は次男の信繁の方を寵愛し、晴信を廃嫡するような言動があった。&lt;br /&gt;
《註》武田家臣団内部の問題&lt;br /&gt;
家臣団の分裂であって、信虎の政権にみきりをつけて、板垣信方や飯部兵部らの新興家臣層が晴信を擁立する動きに出た。&lt;br /&gt;
３、受け入れ側の今川義元&lt;br /&gt;
会の事情は別にして、信虎を受け入れた側の今川義元の動向であるが、事件後の九月二十三日に晴信に宛てた義元書状によれば(伊豆「堀江文書」)、事件直後の六月末に太原崇孚雪斎と岡部美濃守の両名を甲府へ遣わし、信虎の隠居料のことを相談させているし、信虎付きの女中衆の催促などをしている。&lt;br /&gt;
４、信玄の家督相続&lt;br /&gt;
・天文十年（1541）六月十七日には、躑躅（つつじ）ヶ崎館に入る。&lt;br /&gt;
・二十八日には家督相続の祝儀を催した。&lt;br /&gt;
《参考資料》「華光院文書」&lt;br /&gt;
晴信が当主として発給した文書の初見は、天文十年年八月十日の甲府の良林寺宛の寺領寄進状（「華光院文書」)&lt;br /&gt;
《註》塩部（甲府市）の内で三貫文を与えるとある。&lt;br /&gt;
《参考資料》知行宛行状&lt;br /&gt;
天文十年十月四日付で佐野源右衛門に与えた知行宛行状では早くも「竜朱印」が便われている。&lt;br /&gt;
《註》晴信は家督相続直後に家印としての竜朱印を定めたもの。&lt;br /&gt;
５、信玄の外交&lt;br /&gt;
天文十年は不動。&lt;br /&gt;
天文十一年七月には同盟者である諏訪頼重を急襲し、諏訪盆地へ進出し後の信濃経略の第一歩を踏み出す。&lt;br /&gt;
この時期には、駿河の今川兵とは同盟関係が固く、それを通じて相模の北条氏綱とも友好関係を保っていた。&lt;br /&gt;
６、駿河引隠退後の信虎&lt;br /&gt;
・永禄三年(1560)に今川義元が桶狭閉の戦いで織田信長に敗れると京都へ入る。&lt;br /&gt;
・	さらに高野山や諸国を流浪&lt;br /&gt;
・	死の直前に伊那谷に帰る。&lt;br /&gt;
・	晴信が没した羽年、天正二年三月に八十二歳で病死。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3980666.html</link>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 15:16:06 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>武田信玄伝＜元服から自立まで＞</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-e1-f7/takedasingen21/folder/427519/70/3980070/img_1?1248156376&quot; width=&quot;480&quot;&gt;&lt;br /&gt;
武田信玄伝＜元服から自立まで＞&lt;br /&gt;
１、	&lt;br /&gt;
元服は、天文五年(1536)の十六歳の時。&lt;br /&gt;
《参考》『高白斎記』「三月、武田晴信公元服、十六歳、義晴ノ諱（いみな）ノ晴ノ字ヲ賜」&lt;br /&gt;
《参考》『甲陽軍鑑』でもほぼ同様の記述。『軍鑑』はこの時に同時に「信濃守、大膳大夫」を拝領した&lt;br /&gt;
《註》大膳大夫の史料での初見は、天文十一年九月二十四日である(「守矢家文書」)。&lt;br /&gt;
《註》大膳職は宮中の食膳を司る官職で、その長官である大夫は従四位下が相当位&lt;br /&gt;
《参考》確実な史料上では、天文十七年十一月の塩山向岳寺宛の条目の署名に「正四位下源朝臣晴信」とある。&lt;br /&gt;
《註》天文十九年十一月二十四日の身延山久遠寺へ奉納した法華経の奥書に「従四位下武田大膳大夫兼信濃守源晴信」とある(『身延町誌』)。&lt;br /&gt;
２、大正三年(1914) 從三位が追贈&lt;br /&gt;
信玄は、近代になっての大正三年(1914)、大正天皇の即位大典にあたって、歴史上の人物に追贈位があり、その時、民政上の功績が大きいということで、從三位が追贈された。その位記は現在でも信玄を祀る武田神社で所蔵しているが、この時の調査&lt;br /&gt;
でも、それまでの位を従四位下としている(渡辺世祐氏『武田信玄の経緯と修養』)。&lt;br /&gt;
３、信玄、正室を迎える&lt;br /&gt;
天文六年二月、晴信は今川義元の斡旋で、公家三条公頼の二女を正室として迎えている。（三条夫人）&lt;br /&gt;
この時、晴信の姉が義元に嫁している。（この二つの婚儀は同時進行）&lt;br /&gt;
《註》晴信の婚儀については、天文五年七月とする説もある。この時期の義元は家督争い(花倉の乱)の禍中。&lt;br /&gt;
４、信玄の初陣&lt;br /&gt;
《参考資料》『甲陽軍鑑』(品十八)&lt;br /&gt;
天文五年十一月二十一日に、父信虎が信濃佐久郡を攻めた折、海の口城を三十四日間も包囲したが、落城させられなかったものを、殿（しんがり）軍として残った晴信が、十二月二十六日の一夜のうちに急襲して落城させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
◎写真は高野山持明院所蔵武田信玄画像</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3980070.html</link>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 15:06:16 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>＜信玄公御家中の諸侍の礼三ケ条＞（「甲陽軍艦」品第三十九）</title>
			<description>＜信玄公御家中の諸侍の礼三ケ条＞（「甲陽軍艦」品第三十九）&lt;br /&gt;
一、&lt;br /&gt;
諸人は武運のために護摩(締燃幻ご)を命じられ、修行なされたこと。&lt;br /&gt;
二、&lt;br /&gt;
すぐれた忠節の武士が死去すると、弔いを仰せつけられ、卒塔婆を建てなされたこと。&lt;br /&gt;
三、&lt;br /&gt;
御家中で討死した衆には、七月十四日・十五日には御主殿に棚をかざりつけて、御回向をあそばLたこと。&lt;br /&gt;
◎天正五年(1576)丙子正月吉日　高坂弾正これを記す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜信玄公が同法に背いた者でも、人によっては二度までは御免なされたこと五ケ条＞（「甲陽軍艦」品第三十九）&lt;br /&gt;
一、&lt;br /&gt;
諸浪人衆また降参した衆は二皮までは御免なされた。先方衆は御ゆるしにはならなかった。&lt;br /&gt;
二、&lt;br /&gt;
忠節忠功の武十の子孫だった場合には、御成敗となるところも命を助けて、坂を越えさせて国外追放か、改易の罪の場合は寺入を命じられた。&lt;br /&gt;
三、&lt;br /&gt;
出家、僧侶の妻帯については、役銭を出させて御許しのこと。&lt;br /&gt;
四、&lt;br /&gt;
町人百姓の喧嘩は、過銭(過料の銭)にかえさせて御免のこと。&lt;br /&gt;
五、&lt;br /&gt;
非公事(埋に反する訴訟)の場合も、過銭をもってゆるしなされたこと。以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
◎天正五年(1576)丙子正月吉日　高坂弾正これを記す。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3969337.html</link>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 11:36:28 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>＜武田信玄公、ご家中の武士の手柄＞（「甲陽軍艦」品第三十九）</title>
			<description>＜武田信玄公、ご家中の武士の手柄＞&lt;br /&gt;
一、&lt;br /&gt;
・第一に、一番鑓を合せた者。&lt;br /&gt;
・第二に鑓で敵を突き伏せての手柄、および馬上から組んで落してあげた手柄。&lt;br /&gt;
・第三に二番鑓または一番鑓の脇からの鑓をつけたこと。&lt;br /&gt;
この三つの種類をあっぱれな手柄とされた。&lt;br /&gt;
・また、自分が所属していた隊から突進して人より先に攻めかかったところ、敵がくいとめることができず、追っていって鑓で突くというのも、一番鑓に劣らぬ名誉である。&lt;br /&gt;
・同じく敵中に深入りして退くとき、自分だけが一歩後に残って、ゆっくりと退くのは一番鑓に匹敵する心がけである。&lt;br /&gt;
・まして、味方が負傷したのを守って退く、あるいは討死した味方の首を敵にうたせず、首をあげて退いてくるというのも、あっぱれな心がけである。&lt;br /&gt;
・逃れる敵を追って取った首は、上の下の手柄である。&lt;br /&gt;
・しかし敵を討とうとしているうおに、首を取りそこねることもあるであろう。&lt;br /&gt;
・したがって合戦の現場では、どんな者であっても敵ならば、まず討ち取ることである。&lt;br /&gt;
・もし悪首と思えば、首帳に記載すべきではあるまい。&lt;br /&gt;
一、&lt;br /&gt;
また虎口から押し入った場合、城を乗取った場合の戦功の上中下は、その入口において、第一番に敵と鑓を合せたものを上の手柄とする。また城砦の堀が浅くせまく、構造が堅出でないところに、いち早く乗りこんだものを上の手柄という理由は、門口や、堅固でない場所には、城内の兵力が集中しており、弓、鉄砲なども多く備えられているからである。&lt;br /&gt;
以上のような定めが信玄公御家の手柄の判断基準である。&lt;br /&gt;
一、&lt;br /&gt;
かりに五千でも兵を持っている大将を討つのは、武上としては、冥加(連の強い)侍である。だから大切に目をかけることだ。また臣下の首々が、采配を振っている将の首をとった場合も冥加の武士といえる。尊ぶべきだと申された。&lt;br /&gt;
◎天正五年(1576)丙子正月吉日　高坂弾正これを記す。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3969294.html</link>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 11:35:37 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>＜御感の事＞（「甲陽軍艦」品第三十九）</title>
			<description>＜御感の事＞（「甲陽軍艦」品第三十九）&lt;br /&gt;
上の手柄は、その奮戦が、全軍の中でもっともすぐれて神妙であったものとする。また部下を持たぬ小身の者が上の手柄を立てた場合を、その者一人の活躍によって、主の御本意にそうことができたものをいう。&lt;br /&gt;
また、国境地帯の戦闘などで出陣して自分の同心、被官などが上の手柄を立てて活躍した者に対しては、そのほう一人の奮戦によって数千の味方を力づけたとする。&lt;br /&gt;
また、その者に劣らず奮戦し、手柄を立てた武士に対しては、やはり神妙でみごとだとして感状を下される。もしも、主人、寄親贔屓の者の意見によって中や下の功績の者をよくいいたて、そのために上の手柄の者がうずもれるようなことがあってはならないので、旗本の廿人衆、御中間頭衆を通じて御触れを出され、諸家中の人次が、合戦の手柄のことにつき、申しあげたいことがあれば直接、上申書によって申しあげるように、とお触れになった。だから、下友においてもひそかにた依怙贔屓はなかった。これが陰日向を生じなかった原因である。&lt;br /&gt;
◎天正五年(1576)丙子正月吉日　高坂弾正これを記す。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3969212.html</link>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 11:34:07 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>＜信玄公人の御つかいなされ様＞（「甲陽軍艦」品第三十九）</title>
			<description>＜信玄公人の御つかいなされ様＞（「甲陽軍艦」品第三十九）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１、&lt;br /&gt;
第一にまず、陰日向がたいようにということである。人人に陰日向ができるのは、恩賞を与えるにあたって、功績の上中下をよく判断したいときだ。忠節忠功を尽くして、奮闘したということもたい者に、領地を下さるようなことがあれば、手柄のない者たちは、必ず追従をしてうわべをつくろい、出世しようとする。そのために真の忠節忠功の武士をねたみ、その悪口をいって、白分たちの仲問の者をほめたてる。その本心は、主君のおんためなど考えもせず、意地きたなく卑下して動くだけだから、これが陰日向があるということなのだ。&lt;br /&gt;
２、&lt;br /&gt;
信玄公は、忠節忠功の武上に対しては、大身小身によらず、身分の高低によらず、当人の手柄に応じて、御感状、御恩賞を下さり、人次が最演やとりなしをしても少しも役に立たなかった。これによって人々の陰日向といったことは、まったくなかったのである。&lt;br /&gt;
◎天正五年(1576)丙子正月吉日　高坂弾正これを記す。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3969148.html</link>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 11:33:09 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>＜信玄公御一代敵合の作法三ヶ条＞（「甲陽軍艦」品第三十九）</title>
			<description>＜信玄公御一代敵合の作法三ヶ条＞（「甲陽軍艦」品第三十九）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１、&lt;br /&gt;
敵の強い点、弱い点をくわしく検討する。またその国の大河、山城、財力のようす、その家中の武士たちの行儀、剛の武士が大身、小身のうちにどれだけいるかについて、味方の物頭衆（指揮者）たちに、よくそのようすを知らせておく。&lt;br /&gt;
２、&lt;br /&gt;
信玄公が仰せられたことで、合戦における勝敗とは、十のものならば六分か七分勝てば、それで十分な勝利であるとお定めになった。とりわけ大合戦においては右の点がとくに重要である。というのは、八分の勝利はすでに危険であり九分十分の勝利は味方が大敗を喫する下地となるから、というのである。&lt;br /&gt;
３、&lt;br /&gt;
信玄公が仰せられるには、戦闘のしかたとして、四十歳以前は勝つように、四十歳から先には負けぬようにとのことであった。&lt;br /&gt;
ただ、二十歳前後のころであっても、自分より小身な敵に対しては、負けたければよいのであって、勝ちすごしてはならない。敵に対しては、なおのこと右のとおりである。十分な思慮判断のもとに追いつめ、圧力を加え、将来を第一に考えて気長に対処していくことが肝要だとのことである。&lt;br /&gt;
◎天正五年(1576)丙子正月吉日　高坂弾正これを記す。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3969105.html</link>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 11:32:27 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>「信玄逝去につき御遺言」（「甲陽軍艦」品第三十九）その２</title>
			<description>２９、　&lt;br /&gt;
跡継ぎについては四郎勝頼の子息、信勝が十六歳になったら家督を譲る。&lt;br /&gt;
３０、　&lt;br /&gt;
それまでは陣代として、四郎勝頼に申しつける。ただし勝頗に、武田累代の旗を持たせることはない。わが孫子の旗・将軍地蔵の旗・八幡大菩薩の旗、いずれもすべて持たせてはならぬ。太郎信勝が十六歳の家督をつぎ、初陳のおりには尊帥(孫子)の旗だけ残し、それ以外はすべて痔って出陣せよ。&lt;br /&gt;
３１、　&lt;br /&gt;
勝頼は前のよう大文字の小旗を持ち、差物、法華経の母衣は典厩(信豊)に譲ること。&lt;br /&gt;
３２、　&lt;br /&gt;
諏訪法性の冑は勝頼が斎用し、そののちに信勝に譲ること。&lt;br /&gt;
３３、　&lt;br /&gt;
典厩信豊・穴山信君の、二人は、信玄が頼りにしていることゆえ、四郎を屋形のようにもり立てて万事につきとりおこなってもらいたい。&lt;br /&gt;
３４、　勝頼の倅で七歳となった信勝を信玄のように重んじて、十六歳となったとき家督にすえてほしいのだ。&lt;br /&gt;
３５、　&lt;br /&gt;
なお、自分の葬儀は無用である。遺体はいまから一二年後の亥年四月十二日に、諏訪湖へ甲冑を着せて沈めてもらいたい。&lt;br /&gt;
３６、　&lt;br /&gt;
信玄の望みは天下に旗をたて号令することであった。が、このように死するからは、つまるところ都に上りながらも支配を固めることができぬままで果てるより、いっそいまのままならば、世の人々は、信玄は命を永らえれぼ、都に上ったであろうにと評価するだろうから、大慶というものである。&lt;br /&gt;
３７、　&lt;br /&gt;
なんとしても、戦いの面で信長・家康のように幸運に恵まれたものたちと戦いを重ねたために、信玄は、いっそう命を縮めてLまったものと考える。&lt;br /&gt;
３８、　&lt;br /&gt;
たとえていえば、矢勢が盛んな時は何でも射ぬくものだ。矢の勢いが盛りを過ぎた頃には浅く射るようになり、さらに過ぎれば白然に矢は地におちる。そのように人の連勢も長くよいことばかりは続かぬものだ。幸運な勢いが過ぎぬうちに盛んに戦勝して領土をひろげはじめたが、今天道から見放されようとしているのだ。&lt;br /&gt;
３９、　&lt;br /&gt;
信玄が信長・家康との戦いで一対一だったならばこれほど早く命を縮めることもなかったのだが逆に、戦いでは信長・家康は二人がかりでも信玄に匹敵しないのだから、やはり(実力でなく天道が運命を決められたので、天が先に信玄を召すのだ。&lt;br /&gt;
４０、　&lt;br /&gt;
その証拠に輝虎も三年の間に病死なされるはずだ。そうなれば信玄の次には輝虎が実力者であったのだから、信長を　　　　踏みつけ破る者はいなくなると、仰せられる。&lt;br /&gt;
４１、　&lt;br /&gt;
次に勝頼のとるべき戦略として、まず謙信輝虎とは和議を結ばれよ。謙信は男らしい武将であるから、若い四郎を苦しめるような行いはするまい。まして和議を結んで頼るといえば、決して終始約束を破ることはすまい。信玄は、大人気なくも謙信に頼るということを最後までいわなかったために、ついに和議を結ぶことがなかった。&lt;br /&gt;
４２、　&lt;br /&gt;
勝頼は必ず謙信に敬意を表して頼りとするのがよい。謙信はそのように評してよい人物である。&lt;br /&gt;
４３、　&lt;br /&gt;
次に、信長が侵攻してきた際には、難所に陣をはって持久戦に持ちこむこと。そうすれば、敵は大軍で、遠路の戦いであるから、五畿内、近江、伊勢の部隊は疲労し、無謀な戦いをいどむであろう。その機会に一撃を加えて破れば、相手は立直ることはできまい。&lt;br /&gt;
４４、　&lt;br /&gt;
家康は信玄が死んだと聞けば、駿河にまで侵入してくるであろうから、駿河の国内に引き込んでから討ち取ることとせよ。小田原(北条氏政)は、強引に攻めて押しつぶすのに手間どることはないであろう。&lt;br /&gt;
４５、　&lt;br /&gt;
氏政はきっと信玄が死んだと聞けば、必ずや人質をも捨てて裏切り、敵となるであろうからその覚悟をしておくように、と御一族や家老の大将に言い渡された。&lt;br /&gt;
４６、　&lt;br /&gt;
弟の逍遥軒(信廉)は、今夜、甲府に使いに行くといって、心安い従者四人を連れ、出るふりをして、従者たちを土屋右衛門尉のところに預けよ。そして明日の早暁、輿に逍遥軒を乗せ、信玄公は御病気のため甲府に御帰陣になるといえば、我ら(信玄)と逍遥軒とを見分ける者はあるまい。永年見てきたところ信玄の顔を誰もがしかと見た者はないということになると、逍遥軒を見た者が必ずや信玄は生きていると思うのは確実である。&lt;br /&gt;
４７、　&lt;br /&gt;
四郎は、くれぐれも好戦的にふるまうことがあってはならぬ。そして信長・家康の運の尽きることを待つことが肝要である。&lt;br /&gt;
４８、　&lt;br /&gt;
運命を哀えさせるもの、それは身を飾り、ぜいたくにふけり、心おごること、この三つである。はじめに信玄が信長・家康の運の尽きるのを待てといったのは、勝頼への注意でもあるのだ。&lt;br /&gt;
４９、　&lt;br /&gt;
その道理は、信長は信玄よりも十三歳若く、家康は二十一歳若く、謙信は九歳、氏政は十七歳若い。そのため彼らは、信玄の末路を待っていたのである。&lt;br /&gt;
５０、　&lt;br /&gt;
一方勝頼は、謙信より十六歳、信長より十二歳、氏政より八歳、家康より四歳、いずれにもまして若いのであるから、彼らのような年長の考どもに負けぬようにし、これまでに信玄が取って渡した国々を危げなく持ちこたえることである。&lt;br /&gt;
５１、　&lt;br /&gt;
そして、もしも敵どもが無碑な戦いを仕かけてきたならば、わが領国の中に引き入れ、必勝の決戦をいどむことだ。&lt;br /&gt;
５２、　&lt;br /&gt;
そのときに、信玄が使ってきた大身、小身、下々の者までが一体となって奮闘するならば、信長・家康・氏政の三人が連合してこようとも、こちらの勝利は疑いあるまい。&lt;br /&gt;
５３、　&lt;br /&gt;
輝虎(謙信)については、他と共謀して四郎を苦しめることはあるまい。武勇においては信玄が死んだのちは、謙信である。&lt;br /&gt;
５４、　&lt;br /&gt;
天下を手にした信長と、武勇日本一の謙信との運命、この両人の運が尽きるのを待ち受けよ。&lt;br /&gt;
５５、　&lt;br /&gt;
万事について思慮判断、将来への見とおしは、信玄の十倍も心するように、と仰せられる。ただし、敵がそのほうをあなどっていどんできたならば、甲斐の領内まで引き入れ、耐えぬいたうえで合戦をとげるならば、大勝利を得ることができよう。決して軽率な戦さはしてはならぬ。と、馬場美濃守・内藤修理・山県昌景にくわしく御指示なされた。&lt;br /&gt;
５６、　&lt;br /&gt;
その次に信玄が生きている間は、氏康父子も謙信も信長、家康もみな国を取られぬようにと用心をしていたにもかかわらず、北条は深沢、足柄地方を、家康は二俣、三河の宮崎・野田、信長は岩村・堪の大寺・瀬戸・恵那までを信玄に取られている。&lt;br /&gt;
５７、　&lt;br /&gt;
謙信の領地の越後だけは、こちらに奪い取ることはなかった。高坂弾正の部隊だけの力で越後に侵入し、謙信の居城春日山から東道六十里のところまで入って放火、掠奪を働き、女子供を奪って無事に帰還したのであるから、我ら信玄とかたを並べるというわけにはいくまい。&lt;br /&gt;
５８、　&lt;br /&gt;
信玄病中とはいえ、生きている問は、わが領国に手出しをする者はおらぬはずである。三年問は深く慎め、といわれて御目を閉じられた。&lt;br /&gt;
５９、　&lt;br /&gt;
また山県三郎兵衛を呼び、「明日はそのほうが旗を瀬田に旗を立てよ」、と仰せられたのは、御心が乱れたためであろう。しかし、しばらくして目を開かれて仰せられる。「大底還他肌骨好不。塗紅粉白風流』と遺作の詩句を残され、惜しいことに、誠に惜しいことに御歳五十三歳にして、朝の露と消えられたのである。&lt;br /&gt;
６０、　&lt;br /&gt;
御家中各右、御遺言のとおりに取り計らったが、家老衆が相談の上遺体を諏訪湖にお沈めすることだけは取りやめることになった。&lt;br /&gt;
６１、&lt;br /&gt;
三年後の四月十二日、長篠合戦の一月前に、七仏による御葬を営んだ。&lt;br /&gt;
６２、&lt;br /&gt;
信玄公御一代の御武勇、御勝利にほどは、三十八年間、一度も敵に背を見せられたことはなかったのである。以上&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《註》「大底還他肌骨好不。塗紅粉白風流」&lt;br /&gt;
----不朽の本質的なすこやかな人カの全身に伝えよう。それは少しも飾気がなく、自然に風流なのだから----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
◎天正五年(1576)丙子正月吉日　高坂弾正これを記す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《註、番号は便宜的につけたもの》</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3969032.html</link>
			<pubDate>Tue, 21 Jul 2009 11:30:55 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
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