タケネットの名城をゆく

「名城をゆく」で訪れた近世の城跡を紹介しています。

彦根城を行く

近江 彦根城 を行く
滋賀県彦根市金亀町
 

イメージ 17












イメージ 19

イメージ 20



彦根城は二度目になる。最初は立ち寄っただけの駆け足の見学であったが、今回は彦根城の探訪を目的とした小グループの旅行である。家を出る前は天気はよかったのだが、彦根に近づくにつれて雲行きがあやしくなり、彦根に足を踏み入れると小雨が降り始め、少しがっかりしたのだが・・。
 
 
彦根城
 
琵琶湖の東岸に位置する小丘の彦根山、別名金亀山(こんきさん)に築かれた平山城である。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでの功績により井伊直政が近江15万石、上野国で3万石の18万石を受領し、石田三成の旧城の佐和山城に入った。

直政の没後、嫡男の直継(直勝)が佐和山城の西に位置する彦根山に現在の彦根城を築いた。築城は弟直孝に引き継がれ、彦根山の山裾に内堀・中堀・外堀を配し、武家屋敷と町屋を堀で区切るなど総構の縄張りであった。
彦根城は西国諸大名の押さえの最重要拠点として位置づけられ、築城は天下普請で近隣の諸大名が城建築の助力を命じられた。この普請には佐和山城をはじめ、安土城、小谷城、大津城等の琵琶湖周辺の廃城の石垣や建築物が再利用された。
 井伊家は江戸期を通じ彦根藩主を務めあげ、明治維新を迎えている。城は明治の廃城をまぬがれ天守をはじめ西の丸三重櫓・太鼓門・天秤櫓・二の丸佐和口多聞櫓などが残された。天守は国宝として、藩主の庭園「玄宮楽々園」は国の名勝に指定されている。


イメージ 1
  大河「おんな城主 直虎」では戦国の世をからくも生き残った小国の女領主の生き様が描かれている。舞台は遠江井伊谷(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で、井伊の苗字の発祥の地である。養子の井伊直政が関ヶ原で活躍し、彦根藩主となり井伊家は徳川の幕政に大老を輩出する家柄となった。
関ヶ原の戦いから253年後の嘉永6年(1853年)太平の眠りをさます黒船出現に日本はあわてふたむき、開国か攘夷かの瀬戸際の決断に井伊大老が立ち上がった。

直弼は側室の子で14男、青年期の15年間部屋住みとして過ごした埋木舎(うもれぎのや)が残されている。





イメージ 18
▲御城内御絵図 (彦根城博物館蔵)


登城ルート

 城南のいろは松の先の表門から入城した。帰りは天守の北側の搦手を下り黒門をぬけ、広い藩主の御殿・庭園(楽々園・玄宮園)を楽しんだ。


イメージ 2   イメージ 3
▲いろは松                        ▲井伊大老(直弼)歌碑※


 イメージ 4
あふみ(近江)の海 磯うつ浪の いく度か
御世にこころを くだきぬるかな

この句を詠んだ2カ月後に江戸城桜田門外において凶刃に倒れたとある。




イメージ 5








▲佐和口多聞櫓と天守

イメージ 22
▲廊下橋


イメージ 6
▲天秤櫓 

 この場所で雨が上がったと思ったら劇的に青空が広がった。
廊下橋から佐和山城が見えることを教えられた。
「光成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和の城」と謡われた佐和山城である。どんな城なのか見てみたく思った。


イメージ 8
▲廊下橋からみた佐和山城

イメージ 9
▲太鼓門櫓前からの天守

イメージ 7
▲太鼓門櫓

イメージ 11
▲着見台から西から北 左に琵琶湖が見える 

イメージ 10
▲着見台から東から南方面

イメージ 12 イメージ 13
▲天守閣からの風景▼ 
イメージ 14 イメージ 15


イメージ 16
▲搦手道から 圧倒される本丸と西の丸の高石垣
イメージ 21















▲庭園からみた天守

イメージ 23
▲古写真明治9年  左着見櫓、右天守(現存)
 (彦根市立図書館蔵)

上の新旧の写真を見比べると、古写真に写っている左の着見櫓は今はなく、庭園の背後は木々で覆われていた。



雑 感
 
この彦根探訪の収穫は、地元観光ガイドさんの丁寧な説明を受けることができたことと、青空の彦根城の雄姿と城東の石田三成の旧城佐和山城を望むことができたことだった。ひとつだけ残念なことといえば、藩主の御殿・庭園が改修工事中であったこと。
 
次回近江方面に出かける機会があれば、佐和山城、湖北の浅井氏小谷城、湖南の六角氏観音寺城、さらに足を延ばして福井の朝倉氏一乗谷城など戦国末期の信長・秀吉との抗争に敗れ去った武将たちの城跡も見てみたいと思っている。




備中 松山城をゆく (3) 高梁市

イメージ 1

イメージ 2


 










イメージ 17


  
竹田城(朝来市)の雲海は有名である。一方備中松山城の雲海も負けてはいないと、展望台からの雲海をテレビで紹介していた。
 
昨年秋紅葉が始まる11月上旬に行ったときに中太鼓の丸あたりから、その展望台を見つけることができた。そして、2カ月経った今年の1月下旬好天気、備中松山城を思い立ち高梁に向かった。




イメージ 3























 高梁市観光案内地図(部分)


アクセス


案内地図中央の東西に走る県道484号線を通り、案内板(⑫の下)から北へ4km。
展望台に至るまでに左(西)に展望の開けたところがある。そこから城山がかろうじて確認できる。

イメージ 22

イメージ 23
▲パノラマ 中央やや右の林の上

イメージ 24
▲ズーム

ここから展望台はすぐである。駐車スペースは4台ほどある。

イメージ 4 イメージ 5
▲雪が少し残っていた                
イメージ 6  
▲展望台
イメージ 25 イメージ 26
▲備中松山城の中太鼓の丸からみた展望台


イメージ 7
▲肉眼で見える風景 城と城下が遠望できる

イメージ 8
▲城をズーム

イメージ 9
さらに最高倍率20X


展望台から引き返し、県道を西に進むと大ループがあり、その途中大久保峠からみた城山

イメージ 10  イメージ 11

イメージ 12


イメージ 13
▲ズーム


街中のJR高梁駅付近から城山を見上げた。

イメージ 14
天守の上部が見える


 高梁川を渡って方谷林(ほうこくりん)公園の登り口から城山を撮る。城は見えないが峰々の連なりがよくわかる。
 この城山は古くは松山と呼ばれ、江戸時代以降臥牛山(がぎゅうざん)と呼び、手前から前山、小松山、天神の丸、大松山の四つの峰からなる。近世の城は小松山に、中世・戦国期の城跡は大松山、天神の丸にある。


イメージ 15
▲方谷林公園登り口からみた城山 4つの峰が見える

イメージ 16
▲城下のパノラマ  江戸時代高梁川は高瀬舟が活躍していた

城下散策

□ 武家屋敷通り

イメージ 27 イメージ 18

イメージ 19


□ 頼久寺

イメージ 20 イメージ 21
                             ▲小堀遠州作といわれる庭園は必見



 備中松山城は大河ドラマ『真田丸』のオープニングで使用された。以後観光客が後を絶たないようだ。
 天守北側に以前はなかった中世・戦国期の城郭跡のある天神の丸・大松山への案内板ができていた。

イメージ 28


タケネットの名城をゆく 一覧http://www.geocities.jp/takenet5177/meijou.html

宍粟(しそう)・播磨の城跡 をご覧くださいhttp://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122 

出雲 松江城をゆく

  い ず も    ま つ え じ ょ う
出雲 松江城 をゆく    島根県松江市殿


イメージ 1
                      ▲松江城本丸天守
 イメージ 2






   ▼天守より
イメージ 3










  松江城の堀川めぐりの遊覧船はよく眼にする。この遊覧船はいったい数つあるのかと思うほどである。今は多くの観光客でフル回転のようだ。
 それもそのはず、この松江城は平成2778日に国宝に指定されたことにより人気に拍車をかけているからだ。

イメージ 6 イメージ 7
  
 この松江城の国宝指定の経緯は、昭和10年(1935)に国宝に指定されながら、昭和25年(1950)の文化財保護法施行で不明瞭な歴史的事実があるとして重要文化財と格下げの扱いとされてしまった。それが3年前、「慶長16年」と記載のある祈禱札の発見により天守の築城年月が確定された。それが大きな決め手となり、永年の市民の願いが叶い松江城が国宝に指定されたという。

イメージ 17
     ※松江神社で見つかる

 
松江城のこと
 
 松江城は宍道湖畔の亀田山(標高28.4m)にあり、中世の時代には末次城があった。出雲の尼子氏が月山富田城に居城し、永年の宿敵毛利氏との熾烈な戦いにより敗れ、この城も毛利に落とされた。そうして、この地域は毛利元就の支配となり三代続いたあと、天正19年(1591)豊臣秀吉が毛利輝元に命じ吉川広家に与え、広家は月山富田城を居城とした。
 
関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)吉川広家に代わって、堀尾吉晴が月山富田城に入り出雲・隠岐両国24万石を得て、三代にわたり支配した。この間に月山富田城から松江に城を移築している。慶長12年(1607)から5年の歳月を費やし、慶長16年(1611)に完成をみた。

イメージ 4
松江城古城絵図 江戸時代中期〜末期 国立国会図書館蔵

イメージ 5
松江城絵図   兵庫県歴史資料館蔵

堀尾氏は三代続き忠晴に嫡子が無く改易され、京極忠高に替わるが嫡子無く一代で終わる。寛永15年(1638松平直正が18万6千石で入封し以後十代続き明治を迎えている。

イメージ 18

イメージ 19

▲古写真  南東方面  中央が二の丸御殿広場  明治初期 


城散策

イメージ 8 イメージ 9
▲千鳥橋(御廊下橋)    
イメージ 10
▲本丸一ノ門
             イメージ 13


イメージ 11
▲塩見縄手通り  中・下級武士の屋敷跡

イメージ 12



 







                    ▲手前が小泉八雲の旧居
 雑 感
 
 古風な松江城には、満々と水をたたえた外堀が途切れず城を取り巻く。塩見縄手には白壁・板塀の武家屋敷が立並ぶ。城と堀と武家屋敷が一体となって時代劇のセットさながら残されているのはなんともすばらしい。明治の破城令ですべての櫓は失ったものの、天守は残った。そして太平洋戦争での空襲を免れたことも幸いであったといえる。

 城の周辺にも見所がたくさんある。歩きつかれたたら和菓子にお茶で一服、小腹がすいたらそばもある。次回行く機会があれば、泊りがけで宍道湖の夕日百選の地に立ってみたいと思っている。

イメージ 14 イメージ 15
▲レイクラインバス(観光周遊バス)         ▲城下町の町屋

イメージ 16
▲夕日の名所 袖師ヶ浦(そでしがうら)と嫁ヶ島   岸公園より
 
〔関連〕
●宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122
播磨 姫路城 をゆく(2)


イメージ 1
▲写真の右下角の拡大マークをクリックするとパノラマ写真となります

イメージ 2 

イメージ 3

イメージ 4











 いまや国宝でもあり、世界文化遺産ともなった姫路城。この城が残された背景には数々の奇跡と人知があった。


姫路城のこと
 
姫山に室町期の赤松則村(円心)の次男貞範が砦を築いたのが始まりといわれ、赤松氏の宿老小寺氏が守ってきた。戦国時代の永正16年(1519)小寺政隆が新たに御着城を築き、姫山の城は御着城の出城として息子則職が守り、さらに天文14年(1545)になり家老黒田重隆が入り、職隆、孝高(官兵衛)と城主を引き継いだといわれている。

定説となっている城主だが、最近の研究では一次資料となる文献に姫路の城(構)が始めて出てくるのが永禄4年(1561)で黒田重隆・職隆父子が御着城の出城として築いたのが最初の姫路城ではないかと考えられている。

イメージ 5






▲御構の記述がある永禄4年 助太夫畠地売券 『正明寺文書』 

イメージ 6


羽柴秀吉が播磨を平定したあと、黒田官兵衛は秀吉に山陽道と飾磨津(港)の陸海の便に恵まれた姫路城を本拠にすることをすすめ譲り渡した。

▼秀吉時代の天守台の石組みと礎石 昭和30年代の姫路城の解体修理時発見

イメージ 8秀吉は天正8年(1580)新しく築城にとりかかり三層四階の天守を築いた。池田輝政の築いた石垣の中には秀吉時代のものが本丸を中心に、備前丸・帯の櫓から二の丸あたりまで残り、秀吉の築いた城はかなり広いことがわかった。秀吉は、滅ぼした英賀の町民を姫路に移住させ、楽市を開くなど新しい町づくりを推し進めた。

秀吉死後、慶長5年(1600)天下分け目の関が原の戦いに勝利した徳川家康は徳川方で活躍した池田輝政に播磨52万石の太守に任じた。姫路に入った輝政は家康の力添いも得て、翌年の慶長6年(1601)から城造りにとりかかった。姫山といいう小さな丘に渦状に郭を配置し、内堀・中堀そして町屋も取り囲んだ外堀をもつ惣構えの縄張りをしいた。外堀の総延長は実に11.5kmもの大工事に8年の歳月を費やした。五層七階の天守と小天守の連郭式城郭は、当時の城郭技術を結集した実戦対応と造形美を兼ね備えたものであった。輝政は慶長18年(1613年)に姫路にて急死し、長男の利隆が姫路城主になるが享年33歳でなくなり、長男の光政が跡を継ぐものの七歳で鳥取に移された。当時姫路城主の役割は、西国大名の監視の役目もあり、その業務をこなせる人物が必要であったため異動が頻繁であったという。


 元和3年(1617)本多忠政が入封し三の丸の高台に居館を造り、千姫(将軍徳川秀忠の娘、家康の孫)と長男忠刻の夫婦二人のために鷺山に西の丸、化粧櫓を築いた。

▼天守からみた西の丸 
イメージ 14

▼千姫の再現 千姫はここで十年の歳月を過すイメージ 13

 本多氏以後は家門や譜代大名が城主となった。幕末期の慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは城主の酒井忠淳は老中として旧幕府軍に属し、敗戦後徳川慶喜に従って江戸に逃れていたため、城主不在の姫路城は備前藩の攻撃を受けたが戦わず開城し戦火は免れた。


 廃藩後、飾磨県県庁が城内に置かれ、そのあと陸軍歩兵第10聯隊が駐屯。兵営建設のため三の丸の門・櫓・武蔵野御殿、向屋敷などが取り壊されている。


▼陸軍歩兵第10聯隊(明治初期古写真)
イメージ 7










参考:角川日本地名大辞典、姫路ー城物語(姫路市教委)他



お堀 石垣

イメージ 12

イメージ 9 イメージ 10

 船頭の軽快な櫓(ろ)さばきで和船がゆうゆうと進む イメージ 11



雑感

姫路城には当時最高の建築技術によって建てられた天守閣とともに、それを守るための重要な防御策として敵の侵入を防ぐ様々なトリックや仕掛けが設けられた。この難攻不落の城造りにとりかかった人物は池田輝政だが、家康に見込まれ播磨の太守となり、家康に評価を得られる築城に取り組んだようだ。城と町割り、治水には膨大な資金調達が必要だが、その多くを農民や商人に様々な税の形で負担をしいている。
以後城を受け継いだ大名たちは、天守や多くの城郭群の雨漏りや柱の腐食等々による修理に悩まされたという。

 時代は明治になり、明治政府の廃城令で多くの城が取り壊される中、寸でのところで破却を免れ、太平洋戦争末期の二度にわたる姫路空襲を免れ、昭和・平成の大修理で長期の修理期間と多額の金を次ぎこんで城は守られた。


イメージ 15







▲空襲で壊滅的な被害を受けた姫路市街



※タケネットの名城をゆく 名城別アドレス 
※宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122
 

播磨 ha姫路城 をゆく (1)

兵庫県姫路市本町
 
  イメージ 1
▲ ① 三の丸公園から

イメージ 4 
▲ ② 入城口前の左手(南西)から         

       イメージ 3
        ▲ ③ 城見台公園か 前方の木々が大きくなり見づらくなった感あり
   イメージ 2
▲ ④ 美術館越し  

イメージ 6
▲ ⑤ 城北の公園から

イメージ 7
▲ ⑥ 男山山頂(67.5m)より

イメージ 8





 
▲ ⑥ 男山山頂より ズーム 


姫路城天守を覆っていた素屋根や重機類がすべて解体・撤去され、平成27年3月27日グランドオープンを迎えた。5年の歳月をかけ平成の大改修を終えた姫路城は白亜の装いでまばゆく優美な姿を現した。

桜の蕾が赤く色づき始めた3月下旬 オープンを待たず姫路を訪れ城の周りを一周し、城の見えるポイントを探してはカメラを向けた。

4月2日(木)雲ひとつない快晴。桜が一斉に開花し、純白の城に彩りを添えた。まずは天守行きの整理券をもらい、入城券を買ってじっくり城を探索と思いきや、天守にたどりつくのに1時間半を要した。しかしそれはほとんど苦にはならず、天下の名城を満喫する至福の時間を得ることができた。
 
姫路城の魅力を数回にわたり写真を中心にを紹介できればと思っています。まずは、オープン前の桜開花直前の周辺の写真とその位置図です。


 ▽写真の位置図 上部が北
イメージ 5

①は 三の丸広場
②は 入城口左上
③は 城見公園内(城見台)
④は 美術館庭周辺
⑤は 城北の公園内
⑥は 男山頂上(男山配水公園)途中に千姫ゆかりの千姫天満宮あり



※タケネットの名城をゆく 名城別アドレス 
※宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

[ すべて表示 ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事