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ほう き よな ご
伯耆 米子城 国史跡
鳥取県米子市久米町
▲内膳丸より天守を望む
▲本丸石垣
▲途中で見た伯耆富士「大山(だいせん)」
3月の下旬、米子市にある米子城跡に向かった。途中、中国自動車道米子道から中国山地の最高峰「大山(1729m)」を道すがら見るのも楽しみでもあった。
米子城のこと
▲伯耆米子之城図 国立国会図書館蔵(江戸中期−後期)
米子城は西伯耆(鳥取県の西部)に位置し、出雲(島根県)との県境に近接した米子市の中心地の湊山(みなとやま) (標高90m)に築かれた。城の別名は「湊山城」「久米城」。米子城は、泰山を中心に北の丸山、東の飯山(いいのやま)を城域としている。
城は中海に面し、城山の周囲に内堀を配し、さらに武家屋敷を置き外堀を巡らせていた。
▲米子城の鳥瞰、内堀・外堀の位置 (「米子城跡 しおり」より)
内膳丸から出山付近は海であったが、現在は埋め立てられ泰山公園と駐車場になっている。
かつて湊山頂上には大天守(四層五重)と小天守(四重櫓)が並立していた。江戸時代初頭「一国一城令」が発布されたが、例外的に存続を許され、明治まで存続した。
今は、天守等の建物はないが、天守を取り巻く堅牢な石塁や礎石が残され、昔日の勇姿が偲ばれる。登城の所要時間は15分程度。城の周辺は市民の公園・ハイキングコースとして親しまれている。駐車場周辺では桜まつりの準備がされていた。
米子城の歴史と城主
応仁元年(1467)に、山名教之(のりゆき)の家臣山名宗之(宗幸)が米子飯山砦を築いたのが始まりと伝えている。『出雲私史』に文明2年(1470)に初めて記述が見られる。
永禄5年(1566)のころ毛利氏が米子城を制圧している。
永禄9年(1570)には、尼子義久居城月山富田城(島根県安来市)が毛利元就によって落城し、天正15年(1587)吉川広家(きっかわひろいえ)が出雲3郡・伯耆3郡等の所領を手にし月山富田城を居城としていたが、天正19年(1591)新たな城を泰山に求めた。築城中、秀吉の朝鮮の役に出陣し、関ヶ原の戦いに敗れ、慶長5年(1600)周防岩国に移封となり、未完成の城をあとにした。
そのあと中村一忠(かずただ)が尾高城(米子市尾高)に入り、工事を引き継いだ。一忠は若干11歳であったので、米子藩執政家老横田内膳村詮(むらすけ)が補佐し、翌年慶長7年(1602)城は完成したといわれている。しかし、慶長14年(1609)一忠が二十歳で若死にし、中村氏は断絶となった。
次に慶長15年(1610)加藤貞泰(さだやす)が会見・汗入(あいみ・あせり)の2郡6万石の領主として入封するも、元和3年(1617)池田光政が鳥取城に入ると米子城は鳥取の支城となり藩は廃止された。加藤貞泰は伊予国(愛媛県)大洲に移り、光政の一族の池田由之が3万2千石の米子城預かりとなった。
寛永9年(1632)に池田光政の岡山国替えにより鳥取城主に池田光仲が因伯領主となり、家老の荒尾成利が米子城主となり、荒尾家が代々城を預かり自分手政治を幕末まで行った。
米子城の天守等建物は、明治10年代に古物商に売却され、解体された。
▲ありしひの米子城・古写真(説明板より)
▲米子城の山麓と内堀(推定) 昭和23年航空写真(国土地理院より)
アクセス
泰山公園に広い駐車場がある。登り口は4か所程はあるようだが、駐車場から案内板があり、頂上・内膳丸跡とある。テニスコート方面から登ることもでき、どちらも内膳丸跡前に繋がっている。
今回は、テニスコートの近くの裏御門から登り、内膳丸を見たあと、天守に登り、水手御門跡から下山した。
▲米子城の鳥瞰 (google)
▲城周辺の案内マップ(現地案内板に少し書き込み)
▲左の石垣の先は裏御門跡 ▲野球場は三の丸跡
▲テニスコートは二の丸跡 ▲ここから石段を登っていく
▲右に下れば湊山公園、この奥は内膳丸 ▲内膳丸の入口
▲天守台をとりまく堅牢な石垣 ▲天守台の北下の石段 右手に遠見櫓
▲天守閣の礎石 ▲天守台からの大山 ややかすんでいた
▲天守からのパノラマ (北西〜東) 右の丸い山が飯山(いいのやま)
▲水手御門跡を下る ▲下山途中の石仏
雑 感
米子は過去何回かは来ているが、城に登るのは初めてだった。米子城の天守台に立ちここちよい風を受け、北にきらきら輝く日本海、西に弓ヶ浜や穏やかな中海、東には白雪の伯耆大山、360度のパノラマの景観にしばし釘付けになった。 弓ヶ浜に目を向けると、防風林(松)の土手が三保湾を縁取りし、その地形は名称どおりだ。その弓ヶ浜は、出雲国風土記(奈良時代)には、「夜見島」とあり、その地名由来は古代の埋葬の地として黄泉津島(よもつがしま)から夜見島となり、それが平安期に砂が運ばれ陸続きになった。そうして現在弓のように湾曲した地形になり、夜見ヶ浜あるいは弓ヶ浜と呼ばれるようになったといわれている。
下山途中生い茂った木々の中に石仏が一定間隔に数多く置かれている。よく見ると四国八十八ヶ所を模したもので、それも伊予国に限られている。何か伊予と関連があるのかなと、思っていたところ、米子城主加藤貞泰が愛媛の大洲に転封していることがわかったが、そのことと関係があるのだろうか。また、近江聖人・中江藤樹が9歳のとき米子城主加藤家に仕える武士の養子となり米子に来て、城主とともに四国に移ったことを知った。
次回来る機会があれば、飯山周辺と尾高城跡を見てみたいと思っている。
参考:「日本城郭大系」「角川日本地名大辞典」「米子市ホームページ」他
※関連
・池田由之 利神城
◆ タケネットの名城をゆく 名城別アドレス http://www.geocities.jp/takenet5177/meijou.html
◆ 宍粟(しそう)・播磨の城跡 をご覧ください。http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122
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こんばんは
米子道のパーキングから見る大山は、雄大でいい景色ですね!
米子には、温泉が有名ですが昔 島根半島 にいくときは通過だけしました。
城はよく考えられた場所に作られているようですね。
2014/4/2(水) 午後 10:44 [ hdk*yk ]
こんばんは
この城は初めてでした。近世の城ですが海路・陸路の要所の地に建てられています。守りは堅いですね。天守の石垣は見ものです。
2014/4/2(水) 午後 11:40 [ タケネット ]
滋賀県大の中井均先生によると当初は搦手門のほうが大手だったと
言う説があります。地元民ですが、確かに大手門より搦手門の方が
大きいとか、二の丸搦手側の石垣より大手側の石垣の方が新しい
組み方に見えるとか、不思議に思っていたんですね。
それと搦手門あたりには、大学病院の拡張で無くなりましたが
酒と醤油の醸造所がありました。海の近くでありながら真水が確保
できたということや、萩や岩国が平坦地に御殿を置いたことから
見て、当初はそのあたりに城主御殿を建てる可能性があったのでは
と思います。
2016/8/21(日) 午前 9:09 [ ねこあたま ]
貴重な情報ありがとうございます。
米子城跡はみごとな近世城郭の石垣を持ち、その天守台からの冠雪の大山は目に焼き付けています。
城の建築物はほとんど無い今、城の規模や構造を調べるのには残された石垣が頼りですね。酒と醤油の醸造所などは地域住民の身近な生活史なので、地域の方のお話を聞きながら城址や城下町を探るのは楽しいだろうなと思います。
またいつか訪れるときには、ご指摘のことを念頭に歩いてみたいと思います。ご縁があれば・・・とも思います。
> ねこあたまさん
2016/8/23(火) 午後 0:37 [ タケネット ]
> ann**the_*or*istさん
長くブログ更新もなく、コメントに気が付かないまま、3か月遅れになりました。
湊山公園ですね。修正しました。ご指摘ありがとうございます。
私は、西播磨の山間部の生まれで海の夕日を見る機会がほとんどなく、ここからの夕日を一度見てみたくなりました。
2018/10/17(水) 午後 0:59 [ タケネット ]