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近江 彦根城 を行く
滋賀県彦根市金亀町
彦根城は二度目になる。最初は立ち寄っただけの駆け足の見学であったが、今回は彦根城の探訪を目的とした小グループの旅行である。家を出る前は天気はよかったのだが、彦根に近づくにつれて雲行きがあやしくなり、彦根に足を踏み入れると小雨が降り始め、少しがっかりしたのだが・・。
琵琶湖の東岸に位置する小丘の彦根山、別名金亀山(こんきさん)に築かれた平山城である。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでの功績により井伊直政が近江15万石、上野国で3万石の18万石を受領し、石田三成の旧城の佐和山城に入った。
直政の没後、嫡男の直継(直勝)が佐和山城の西に位置する彦根山に現在の彦根城を築いた。築城は弟直孝に引き継がれ、彦根山の山裾に内堀・中堀・外堀を配し、武家屋敷と町屋を堀で区切るなど総構の縄張りであった。
彦根城は西国諸大名の押さえの最重要拠点として位置づけられ、築城は天下普請で近隣の諸大名が城建築の助力を命じられた。この普請には佐和山城をはじめ、安土城、小谷城、大津城等の琵琶湖周辺の廃城の石垣や建築物が再利用された。
井伊家は江戸期を通じ彦根藩主を務めあげ、明治維新を迎えている。城は明治の廃城をまぬがれ天守をはじめ西の丸三重櫓・太鼓門・天秤櫓・二の丸佐和口多聞櫓などが残された。天守は国宝として、藩主の庭園「玄宮楽々園」は国の名勝に指定されている。
大河「おんな城主 直虎」では戦国の世をからくも生き残った小国の女領主の生き様が描かれている。舞台は遠江井伊谷(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で、井伊の苗字の発祥の地である。養子の井伊直政が関ヶ原で活躍し、彦根藩主となり井伊家は徳川の幕政に大老を輩出する家柄となった。
関ヶ原の戦いから253年後の嘉永6年(1853年)太平の眠りをさます黒船出現に日本はあわてふたむき、開国か攘夷かの瀬戸際の決断に井伊大老が立ち上がった。
直弼は側室の子で14男、青年期の15年間部屋住みとして過ごした埋木舎(うもれぎのや)が残されている。
▲御城内御絵図 (彦根城博物館蔵)
登城ルート
城南のいろは松の先の表門から入城した。帰りは天守の北側の搦手を下り黒門をぬけ、広い藩主の御殿・庭園(楽々園・玄宮園)を楽しんだ。
▲いろは松 ▲井伊大老(直弼)歌碑※
あふみ(近江)の海 磯うつ浪の いく度か
御世にこころを くだきぬるかな
この句を詠んだ2カ月後に江戸城桜田門外において凶刃に倒れたとある。
▲佐和口多聞櫓と天守
▲廊下橋
▲天秤櫓
この場所で雨が上がったと思ったら劇的に青空が広がった。
廊下橋から佐和山城が見えることを教えられた。
「光成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和の城」と謡われた佐和山城である。どんな城なのか見てみたく思った。
▲廊下橋からみた佐和山城
▲太鼓門櫓前からの天守
▲太鼓門櫓
▲着見台から西から北 左に琵琶湖が見える
▲着見台から東から南方面
▲天守閣からの風景▼
▲搦手道から 圧倒される本丸と西の丸の高石垣
▲庭園からみた天守
(彦根市立図書館蔵)
上の新旧の写真を見比べると、古写真に写っている左の着見櫓は今はなく、庭園の背後は木々で覆われていた。 雑 感
この彦根探訪の収穫は、地元観光ガイドさんの丁寧な説明を受けることができたことと、青空の彦根城の雄姿と城東の石田三成の旧城佐和山城を望むことができたことだった。ひとつだけ残念なことといえば、藩主の御殿・庭園が改修工事中であったこと。
次回近江方面に出かける機会があれば、佐和山城、湖北の浅井氏小谷城、湖南の六角氏観音寺城、さらに足を延ばして福井の朝倉氏一乗谷城など戦国末期の信長・秀吉との抗争に敗れ去った武将たちの城跡も見てみたいと思っている。
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こんばんは
井伊直弼と言えば桜だ門外の変ですね。
それと現存する天守閣でも有名ですね。
大河ドラマでもやっていますが今一興味が無いので見ていません。
雨の中ご苦労様でした。
2017/3/23(木) 午後 5:48 [ hdk*yk ]
早速のコメントありがとうございます。
書くのを忘れていましたが、登城途中で劇的に好天気になりました。雨で空気がきれいになったのか、天守の背景の空色が異常に青く映っています。
今でこそ城好きになりましたが、昔は日本史はそんなに興味がありませんでした。しかし、この事件だけは知っていました。(´∀`)
2017/3/23(木) 午後 6:13 [ タケネット ]