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菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」とあり 現在の奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定されている。 日本書紀では活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)『古事記』では「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) 最初の皇后は狭穂姫命(彦坐王の女) 皇后の兄狭穂彦の乱で兄と共に焼死したとされる 二人目の皇后は日葉酢媛命(丹波道主王の女) 日葉酢媛が薨去すると、野見宿禰の進言に従い、それまでの殉死の風習に替えて埴輪を埋納するという、埴輪の起源説話が有ります 古墳の濠の中に田道間守の墓とされる小島がある。しかし、文久の修陵図では、この墓らしきものは、無いといわれている。 田道間守は、天皇の命により常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めてくるが、手にして戻ってくると、天皇はすでに崩御、悲しんで殉職したと謂われている。 殉職を禁じたはずなのに、田道間守の殉職したこと、日葉酢媛陵と、この宝来山古墳(垂仁天皇陵)には
埴輪がないのではないかといわれている。 埴輪の起源説はどうなんだろう? |
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ご無沙汰しておりました。まさか垂仁天皇陵をとりあげてくださるとは驚きです。私がはじめて奈良に引っ越してはじめて見に行った古墳です。
埴輪の有無は宮内庁がいずれ発掘調査してくれるでしょう。
手持ちの文献では田道間守命墓は江戸時代の絵では載ってなかったかわりに前方部南側に橘諸兄公の塚と称するの塚の存在が書かれてるとのことで。田道間守墓を新造する前提にこの塚の存在があったのだと。津堂城山古墳にみられる島状遺構ではないかと指摘する学者がいらっしゃいます。ちなみに天皇陵古墳(大巧社)という文献にかかれてます。まだ、橿原考古学博物館の図書室にあるかもしれません。またお時間ありましたらご覧ください。
2010/4/5(月) 午後 8:05 [ ネェル・アーガマ ]
[ ulysess ]さんへ
奈良ではじめての史跡めぐりが、垂仁陵でしてか。
私は、数十年来の願いが叶い、観れました。去りがたい気持ちで後にしましたよ
2010/4/12(月) 午後 3:56
タケルさん>こんにちは!
古墳のお話舌を噛む様な難しい名前で私は無理ですが
高校時代古墳発掘部に入っていまして和歌山県の彼方此方に行きました。懐かしく思い出しました。
傑作ポチ♪
2010/4/22(木) 午後 1:32
考古学生だったんですか。これからは下手なこと記事に出来ませんね色々教えてくださいね、コスミレさん。ぽち、有難う
2010/4/22(木) 午後 9:30
いくめいりびこいさちのみこと?〜なんて ロマンを感じる お名前でしょう!〜 尼辻って西大寺の近くでしたか? 今度 行ってみます。 ひみこ
2010/4/24(土) 午前 10:47 [ ひみこ ]
古代の人の名は舌を噛みそうですが、繰り返し呼んでいると意味深い名だと思えてきますよね
西大寺や、唐招提寺が近くにありますね。今度行ってくださいな。 < ひみこ > さん
2010/4/25(日) 午後 6:36
垂仁天皇陵。昼休み、自宅にある資料読むと埴輪は家型埴輪の出土があったっあります。培塚に指定されている兵庫山古墳や垂仁天皇陵から約10最近100メートル西に北平松塚古墳が検出されたとあります。佐紀古墳群南支群との見方があるとのことです。
2010/4/26(月) 午後 9:46 [ ネェル・アーガマ ]
培塚から出ているということは、本体からも出る可能性があるといことですかな。
折角の昼休みを返上しての調べ、有難うございました。 [ ulysess ] さん
2010/4/27(火) 午後 10:21