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平城宮跡から北に徒歩10分位にある平城天皇陵は、佐紀盾列古墳群の中の東群に分類されていますが、ウワナベ古墳、コナベ古墳、磐之媛命陵からは距離が有ります。東群、西群という分類なら中群ですね。 平城京跡地の駐車場からてくてくと北に向かいます。「歴史の道」から大極殿が大きく見えてきました。 平城天皇は、桓武天皇の第一子で、延暦4年(785)11月の皇太子となり、大同元年(806)5月に第51代天皇として即位しました。 しかし、病気を理由に僅か3年たらずの在位で、弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して、自分は上皇になりました。その後、回復したので、再び政治に干渉し始め、再び平城遷都する旨の詔を発するなどして、、再び天皇復帰を望んで挙兵の準備もしていたらしいのですが。嵯峨天皇が先手を打たれて、望みかなわづ仏門に入った。享年51歳で崩御。 朝廷は、それほど平城京に戻りたいなら、平城京を見下ろす丘に葬ってあげようと、平城宮の北にある、市庭古墳に埋葬したのです。わざわざ陵墓を作る手間も省けるからとも云えま。 市庭古墳は5世紀中葉から後半頃の築造と推定されている。平城宮の造営の時、この古墳が邪魔になったので前方後円墳の南側にあった前方部が崩され更地にされてしまったて、現状の円墳状態になったようです。 平城天皇は 楊梅陵(やまもものみささぎ)と称され、築造時墳形は前方後円墳 規模は総長400m、全長復元250m、後円部径復元140m、後円部高さ13m以上、前方部幅168mだったことが判明しています。現存するのは後円部のみです。築造時期は5世紀中葉から後半頃とされる。 元の被葬者は不明ですね。 |
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こんばんは。
>平城宮の造営の時、この古墳が邪魔になったので前方後円墳の南側にあった前方部が崩され更地にされてしまったて、現状の円墳状態になったようです
↓
ん〜、弊ブログでも記事にしたことありますが、後円部は庭園の一部として残されたようですね…。
大型古墳は天皇の墓だという認識があったにもかかわらず、なぜ市庭古墳だけ半分壊され中途半端にも後円部だけのこされたのが不可解ですね…(汗)。
神明野古墳、木取山古墳といった100mぐらいの中型前方後円墳は破壊されてしまったりします(汗)…。
いずれ全容がわかるときが来るでしょうね…。
2014/2/21(金) 午後 8:36 [ マサソイト ]
そうなんですか、他にも破壊された古墳が近くにあるんだ。 [ マサソイト ]さんが解明してくれんですね。
2014/3/12(水) 午後 11:40
そうですか〜古代史の お勉強は、浸りこんでしまいます〜。
又、よろしくお願いしますね・いつもありがとう。
2014/4/1(火) 午前 9:52 [ ひみこ ]
遅れてすみません、 ひみこさんは今頃は海の向こうですね。歴史の勉強もしているのかな。
2014/7/7(月) 午後 11:18
ただいまです〜。タケルさんは、どうしておられますか?〜
私は、相変わらず、歴史・異文化・自然・・・大好きです。
2014/7/27(日) 午後 7:08 [ ひみこ ]
またまた来ました〜・でも、古代史は、新鮮ですね。
2014/12/30(火) 午後 3:23 [ ひみこ ]
またまた遅れました。古代は魅力がいっぱいですよね。これからも色々と教えてくださいね。> ひみこさん
2015/1/30(金) 午後 5:37