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日葉酢媛命陵から北方向に歩くこと1分、左に大きな古墳が現れます。 宮内庁が「狭城盾列池尻陵」と称している成務天皇陵です。 周濠周りの堤に植えられた松の向うに、玉垣らしきものが見えます。 成務天皇陵の遥拝所ですね。 成務天皇 狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)の陵墓表示が有ります 考古学上は、佐紀石塚山古墳と呼ばれる前方後円墳です。主全長218.5m、後円部径132m、後円部高さ19m、前方部幅111m、前方部高さ16mの規模である。平安初期には、神功皇后陵とされていたことも有るようです。 成務天皇は第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと 日本書記)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと、古事記)。 記紀には事績がほとんどなく、実在性に疑問が出されている天皇です。 少ない事績に中、初めて地方の国県の区画を定めて、国、郡(こおり)、県(あがた)、邑(むら)のそれぞれに首長を置いたとされる。今の県、市町村の在り方を定めたというのだ。凄い事だと思うのですが? ≪存在感の少ない天皇と謂われているがこの古墳は大きい≫
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古墳
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佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)は、奈良市北西部、奈良丘陵の南西斜面に大和国添上郡となった佐保川西岸・佐紀の地に所在する古墳時代前期後葉から中期の古墳群です。大和朝廷の王墓を含む古墳群です。 その一つ佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)は、山陵町にある前方後円墳で、宮内庁により「狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)」として第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されています。 御陵を示す制札<案内板>には、垂仁天皇皇后日葉酢媛命狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)と確かに記されています。 前方後円墳 墳丘長210m全国第31位の大きさです 周濠もあります 築造年代4世紀末頃で竪穴式石室が確認されている。 この古墳を有名にしているのは、古墳につきものの埴輪の起源に関する伝承があることです。 日葉酢媛が亡くなる以前は天皇などが亡くなると、従来の習慣に従って、近習の者たちは殉死し墓の周りに埋めました。しかし垂仁天皇は心を痛め、殉死の風習を禁止した。埴土(はにつち)で人や馬やいろいろな物を造って陵墓に立てることにしたのです。 伝承がどこまで事実を伝えているかは分からないが、盗掘事件復旧工事に伴う調査の時、石室付近の埴輪群が確認されているようです。 |
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平城宮跡から北に徒歩10分位にある平城天皇陵は、佐紀盾列古墳群の中の東群に分類されていますが、ウワナベ古墳、コナベ古墳、磐之媛命陵からは距離が有ります。東群、西群という分類なら中群ですね。 平城京跡地の駐車場からてくてくと北に向かいます。「歴史の道」から大極殿が大きく見えてきました。 平城天皇は、桓武天皇の第一子で、延暦4年(785)11月の皇太子となり、大同元年(806)5月に第51代天皇として即位しました。 しかし、病気を理由に僅か3年たらずの在位で、弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して、自分は上皇になりました。その後、回復したので、再び政治に干渉し始め、再び平城遷都する旨の詔を発するなどして、、再び天皇復帰を望んで挙兵の準備もしていたらしいのですが。嵯峨天皇が先手を打たれて、望みかなわづ仏門に入った。享年51歳で崩御。 朝廷は、それほど平城京に戻りたいなら、平城京を見下ろす丘に葬ってあげようと、平城宮の北にある、市庭古墳に埋葬したのです。わざわざ陵墓を作る手間も省けるからとも云えま。 市庭古墳は5世紀中葉から後半頃の築造と推定されている。平城宮の造営の時、この古墳が邪魔になったので前方後円墳の南側にあった前方部が崩され更地にされてしまったて、現状の円墳状態になったようです。 平城天皇は 楊梅陵(やまもものみささぎ)と称され、築造時墳形は前方後円墳 規模は総長400m、全長復元250m、後円部径復元140m、後円部高さ13m以上、前方部幅168mだったことが判明しています。現存するのは後円部のみです。築造時期は5世紀中葉から後半頃とされる。 元の被葬者は不明ですね。 |
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磐之媛命の御陵を巡った後、すぐ南に在る二つの陵墓参考地に行きました。 航空自衛隊奈良基地を挟んで大型古墳が二つ在ります。東側がウワナベ古墳、西側がコナベ古墳で、どち らも豊かな水量の濠を有す前方後円墳です。 <ウワナベ古墳> ウワナベ古墳は佐紀古墳群の東群の中でも最も東の端に位置しています。古墳は陵墓参考地に指定されているため、ほとんど調査はされていなく、何も分かっていない。分かっているのは、前方部が南に向いていて、墳丘は3段築成である。そして左側くびれ部に造出しを持ち、広い濠を巡らしている。更に円筒埴輪列と葺石の存在が確認されていることと、陪冢が数基あったことです。 墳形は前方後円墳 規模は主全長256m、後円部径129m、後円部高さ20m、前方部幅127m、前方部高さ20mの大型古墳です。築造時期は5世紀中葉頃とされています。 所在地が奈良市法華寺町字宇和奈辺から、<ウワナベ古墳>と呼ばれています。 航空自衛隊奈良基地を西に行くと、 <コナベ古墳> ウワナベ古墳から直ぐでした。 地図で見るとコナベ古墳とウワナベ古墳は、良く似ています。実際古墳の前に来ると瓜二つです。 こちらも陵墓参考地に指定されています。 コナベ古墳も規模はウワナベ古墳とほとんど変わらず、墳丘は3段築成であり、周囲に盾形の濠がある。円筒埴輪や葺石の存在も確認されていて、くびれ部の左右にそれぞれ造出しがある。陪冢も幾つか確認されています。 墳形は前方後円墳 規模は主全長204m、後円部径125m、後円部高さ20m、前方部幅129m、前方部高さ17.5mで、ウワナベ古墳よりひと回り小さい。 築造時期は5世紀前半とされています。 所在地の奈良市法華寺町字宇小那辺から<コナベ古墳>と云われてきています。江戸時代には元正天皇陵に比定されていたこともあります。 地図を見るとコナベ古墳のとなりに在る水上池も古墳時代には、大きな古墳の造営予定地ではと思えてなりません。 両古墳とも被葬者の不明です。 雨が降ってきましたので古墳一周、陪冢や周辺古墳は観ることは出来ませんでした。
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佐紀盾列古墳群を巡ってみました。佐紀盾列古墳群は平城京の北東の東群、北西の西群に分類されています。 先ずは、東群の磐之媛命陵に行って見ました。考古学上は、ヒシアゲ古墳と呼んでいる古墳です。 航空自衛隊奈良基地の北に磐之媛命陵は在ります。平城京の遺構展示館からてくてくと歩いて行きましたが、途中道を間違え、後円部の方出てしまいましたので、ぐるっと回っていまいました。 磐之媛は仁徳天皇の皇后です。仁徳天皇35年夏6月、皇后磐之媛命が筒城宮(つづきのみや)で亡くなり、2年後の冬11月12日、皇后を奈良山に葬ったと、『日本書紀』に記されている。 これだけの記述で、この陵墓が磐之媛であるかどうか特定できなと思いますが、宮内庁は、ヒシアゲ古墳を仁徳天皇の皇后だった磐之媛命陵に比定し、平城坂上陵(ならのさかのうえのみささぎ)と呼んでいるのです。 墳形は」前方後円墳 主全長219m、後円部径124m、後円部高さ16.2m、前方部幅145m、前方部高さ13.6m 前方部に二重濠 築造時期は5世紀中葉〜後半と云われている。 前方部の濠は左は葦が生い茂っていました。 記紀には磐之媛を嫉妬深く、夫の浮気を許さず、山城筒城宮に移り住んで、それきり夫の元に戻らなかったと描かれている。仁徳天皇は、大阪府堺市に大山古墳で眠り、普通は皇后の墓も夫の墓の近くか、あるいは出生地に造られてもよさそうだが、なぜ奈良山に築かれたのか不可解です。
死後も浮気を許さないわよ、ということなのかな。 |



