まほろばの空

建て前は史跡、遺跡めぐり 本音はオールマイティー

古代史

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銅鐸博物館

先日、滋賀県野洲市の歴史民俗博物館、通称<銅鐸博物館>に行って来ました。

銅鐸は、弥生時代に製造された釣鐘の形をした青銅器です。当時、銅鐸と云っていたかは不明です。

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<銅鐸博物館>には、明治時代に14個、昭和に10個、大岩山から出土した銅鐸が展示されています。

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銅鐸は近畿地方を中心として、西は島根・広島・香川・高知県、東は福井・岐阜・長野・静岡県に至る範囲内で、丘陵の斜面などに穴を掘って埋められている。埋められ方は意識的に埋め納めた状況が多い。

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紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられたと思われる銅鐸は祭器使用が用途だったと云われますが明確な使用用途は分っていない。これまでに出土した銅鐸は全国で約500個という。


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歴史民俗博物館内には、眩い輝きを放っている銅鐸レプリカが有りました。
400年間に造られてきた銅鐸は500個程度ではない筈、未だ土の中に埋もれている銅鐸が沢山有るだろう。しかし銅鐸は遺跡ではなく、丘陵や山の中から偶然発見されているので、探して見つかるものではない。

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歴史民俗博物館の隣に、国指定史跡大岩山古墳群のひとつ、宮山2号墳の石室が公開されています。

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薄暗い石室内部には、大きな石棺が無造作に置かれていました。古墳内部が公開されていて、誰でもいつでも学べるのは良い。

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葛城の里 高丘宮

新年明けましておめでとうございます 
             
                本年もよろしくお願いいたします

御所市の葛城一言主神社の近くの里山から、新年の御所市街並みを展望して見ました。
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この近くにある、高丘宮に行きます。長閑な里山が続く葛城の里は、四季を通じて愉しめます。
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静かな山道の片隅に、綏靖天皇の宮殿伝承地がある。
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水靖天皇(すいぜいてんのうは、日本の第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日(紀元前581年2月3日?) - 同33年5月10日(紀元前549年6月28日?))。
『日本書紀』では神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと), 『古事記』では神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)ともいう。綏靖天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したときに付されたとされ、「綏」も「靖」も「やすらか」の意であり「綏靖」で「安らかに落ち着く」の意がある。
いわゆる欠史八代の1人で、実在しない天皇との見方が一般的である。

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父・神武天皇が崩じた後、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)が、腹違いの弟たちを害そうとした。神渟名川耳尊は母の歌からこのことを察知し、同母兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)とともに片丘(現在の奈良県北葛城郡王寺町)の大窖にいる手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は恐怖で手足が震えおののいて矢を放てず、代わりに神渟名川耳が矢を射て殺したとされる(己卯年(紀元前582年?)11月)。 この失態を恥じた神八井耳は弟を助けて天神地祇を掌り、神渟名川耳が天皇として即位することになった。
神渟名川耳は翌年1月に高丘宮にて即位。

綏靖天皇から開化天皇までの初期8人の天皇について、綏靖即位前のこの皇位継承争いを除けば、記紀には系譜(帝紀)のみが伝えられ、事績(旧辞)が全く記されていないため、一般に「欠史八代」と称される。

御陵は、桃花鳥田丘上陵(つきたのおかのうえのみささぎ)に葬られた。『古事記』では「御陵は衝田岡(つきだのおか)にあり」とある。
現在、同陵は奈良県橿原市四条町字田ノ坪に所在する塚山古墳に比定される。橿原神宮、神武天皇陵のすぐ北です。

宮殿は葛城の里山、御陵は橿原の市街地。随分離れているなー。

斎宮歴史博物館

  
            伊勢路に行って参りました。

      伊勢路と云っても、お伊勢さんのは寄りませんでした。神宮を横目で見ながら

      三重県多気郡明和町の『斎宮歴史博物館』で少し歴史の学習です。

              
        http://www.mapion.co.jp/m/34.53967_136.612405277778_7/


伊勢自動車道の玉城ICを下り、約20分で斎宮歴史博物館に到着しました。
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斎宮歴史博物館への目的は、特別展・後醍醐・ 最後の斎王とその父 の観覧です。
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   斎宮(さいくう)は、伊勢神宮に仕える斎王の宮殿と、斎王に仕えた官人たちの役所です
   斎王は、未婚の内親王や女王から占いで定められ、宮中で3年間の喫斎生活を送り、その後
   斎宮に向かい、伊勢神宮に奉仕をするのです。
   

常設展示室には、斎王のお姿を再現展示されています。気品の高いきれいな姿です。
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   斎王制度は、飛鳥時代から、およそ660年間続き、南北朝時代の動乱中で消滅してしま
   いました。


斎王の食事内容も、再現されています。当時とすればごちそうなんでしょうね。
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   建武の中興、朝廷復権を目指した、後醍醐天皇は、斎王にわが子、皇女祥子を選びますが
   建武政権は短命に終わり、斎王制度も消えて行きました。


特別展は、平成23年10月8日〜11月13日まで開催  観覧料330円



         斎宮歴史博物館の観覧の後、少し贅沢をしました。

   せっかく、松坂の近くまで来たのだから、<松坂牛を食べたい>の欲求が抑えきれなくて
   
   松坂牛を食べられる店へ。 

   トップ3と云うのがあるそうです、それは○○金、○銀、○まつ、だそうです。

   肉も、味も、値段もトップ。

   寄ったお店は、トップ3の次にランクされているお店でした。


すき焼きがおすすめのようでしたが、肉はステーキ。
力を入れなくても、スーッと松阪牛は切れて行き、口に中では溶けるように...............。
斎王に食べさせてやりたいな。
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窓の外の日本庭園を愛でながらの、食事は満足しましたが、財布は軽くなりにけり。
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邪馬台国を掘る

NHK特番 「邪馬台国を掘る」を観ました


   1月23日、NHKスペシャル『“邪馬台国”を掘る』の放送を観た人は多いと思います。

   奈良県桜井市のの纒向(まきむく)遺跡の発掘に密着して、邪馬台国の歴史論争に決着が

   つくのかと云う番組でした。


<テレビ画面を撮影した写真で進めて行きます>

「邪馬台国を掘る」の大きなタイトルで、番組は始まりました
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纒向遺跡が注目されるのは、邪馬台国のあったとされる3世紀の地層から建物の柱跡が発見され、マキムクの王が住んでいたのではないかと考えられたからです。
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纒向遺跡から発掘された土器は、四国の香川・徳島や、岡山など、各地で見られた文様の土器で、この事は倭人伝に記されている、連合国から物資が集っていた証拠で、纒向は都だったのではないかというのです。
「聖なる井戸」と呼んでいる、窪みからは、2765個の桃の種が見つかり、食用でなく祭祀に使われ
それは、中国の道教に通じるところが有り、初期の道教が「鬼道」になって行った可能性が有る、鬼道と云えば、「卑弥呼」。連想ゲーム的な論法で邪馬台国に結び付けるような解説でした。
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桃、2765個が多いと云っていましたが、もし卑弥呼がここで祭祀のお供えとして桃を使ったなら、女王時代の年数から判断すれば、もっとあってもいいのではと思いますがねー。
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今回の発掘では、銅鐸の破片も見つかっていました。この事は、今までの報道では伝わって来ていませんでしたね。この放送で初めて明かされましたね。NHKの特ダネですね。
破片で出たことが、意義が有るんだとも言っていました。弥生の神を捨て、新しい「鬼道」で国を治める
体制を整えたと。
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銅鐸は簡単には割れず、熱を加え、人為的な力が無いと割れないと云う実験もしていました。割ることで弥生の神の否定を人民に見せつけたのだろうか。
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卑弥呼の祭祀の様子を、推測による再現VTRです
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纒向遺跡は卑弥呼と関係があるのか?。学者さんの邪馬台国を掘る熱意は理解できるが、決定的な証拠は出なかったのに、番組は少し強引な展開をしていたようにも感じられました。
邪馬台国はどこにあるのか、結論が出ないから、古代史の最大のロマンも、ロマンとしてまだまだ続きますね

天理参考館特別展

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    先月10月に行った時は休館日だったので、電話で確認して行ってきました

    天理大学付属天理参考館の創立80周年記念特別展は『よみがえるヤマトの

    王墓』ー東大寺山古墳と謎の鉄刀ー です。


『よみがえるヤマトの王墓』ー東大寺山古墳と謎の鉄刀ー の図録表紙
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    天理参考館は、館内撮影(フラッシュ撮影、三脚撮影は禁止)が許されていると

    聴いていたのでカメラ持参で行きましたが、特別展は撮影禁止でした。


特別展は『よみがえるヤマトの王墓』ー東大寺山古墳と謎の鉄刀ー は、3階で開催されていました
入り口に撮影禁止のマークがあります。人だかりの処に、展示の目玉である「中平銘鉄刀」です
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    休日と云うことで、思ったより、見学の人はいました。

    撮影禁止でしたので、以下購入した、図録のコピーを見てください。


「中平銘鉄刀」が出土した東大寺山古墳は、天理市櫟本町の和邇下神社の東の小高い山に在ります
付近には、赤土山古墳、和邇下神社古墳、上殿古墳等が有り、東大寺山古墳群を形成したいます
1961年の第1次発掘調査当時の東大寺山の写真(図録コピー)
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東大寺山古墳は、北向きの前方後円墳で、全長130m、後円部径約79m、前方部幅約50m、で
山の頂上にあります。(図録コピー)

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出土品には、鍬形石、車輪石 坩形石製品、銅鏃、巴形銅器等が数多く有りました。そして刀剣類も
多量に出てきています。
その中で、花形青銅製環頭太刀が3本、家形青銅製環頭太刀が2本有りました。(図録コピー)

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花形青銅製環頭太刀の中の1本に、金象嵌で文字が刻まれていた事が分かり、大発見となったのです(図録コピー)
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花形飾環頭(図録コピー)
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家形飾環頭(図録コピー)
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「中平銘鉄刀」と青銅製環頭は、本来の姿を追求するために、レプリカ、模造品が制作され、展示されていました(図録コピー)
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    「中平銘鉄刀」の銘文は24文字で、20字が確認されている

      『中平□□、五月丙午、造作文刀、百練清釖、上應星宿、□辟不□』    
           年(□2)            下  祥(□3,4)
    
      中平□年五月丙午の日に銘文を入れた刀を制作した。良い鉄をきたえた刀
      であるから、天上では神の御意に叶い、下界では災いを避けることができる

     中平は中国後漢の年号で、西暦184年〜190年に相当、年号や象眼の技術から
     中国製と考えられている。

     この「中平銘鉄刀」は、倭国が乱れ、卑弥呼が共立の女王となった時代と重なり、
     卑弥呼の太刀と謂われています。東大寺山古墳は4世紀後半の古墳のようです。
     卑弥呼の時代から約100年後の古墳に埋葬された人物は、卑弥呼の一族?それとも
     邪馬台国を滅ぼした国王?
     謎は多いですね。   だから古代史はおもしろいのだ。
     
     家形飾環頭は、4世紀当時の住宅のようですが、
     私の私見 神社だと思います。大神神社に有るような「〆柱」がしっかり建っています


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東大寺山古墳の調査のきっかけは、東大寺山の麓に、天理教の教会が建設される
     ために、調査を始めたとも云われています。
     
       広大な天理教本部の下にも、石上布留遺跡が眠っているようです     
     


 
    
    

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