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*トラック防空戦:52型丙使用 19/2/5 トラックへ転進 19/2/15 F4F×1撃墜、不明×1撃墜、不明×1不確実 F4Fは氏の撃墜リストに記載なし。おそらくF6Fの勘違いであろう。 *サイパン防空戦 攻撃を受けるも戦果なし。2/末本土へ帰還 *比島決戦、神風特攻隊志願兵時代 19/5/中? セブ島着任。後201空に移動 19/5初 セブ島敵陣地爆撃、銃撃任務 19/10初 F6F×2 共同撃墜 19/10/17 神風特攻隊志願書提出。以後特攻隊員となる。 19/10/25?戦果確認機の任務で神風特攻隊として出撃。味方機の特攻を見届ける。 なお丸エキストラ第62集によると回顧録にない別の空戦の記録あり 19/10月某日 グラマン(おそらくF6F) 2機撃墜のあとさらに空戦があり1機撃墜、1機不確実撃墜 機銃全弾消費 戦闘後撃墜した捕虜米パイロットにも直接会っている。 回顧録には37機撃墜の記述があるがこれを加えると41機撃墜となる。 *本土防空戦、谷田部航空隊:19/12/20教官として着任 20/2/16 F6F×2撃墜 茨木上空艦載機迎撃戦 *本土防空戦 343航空隊天誅組:20/2末頃着任 紫電、紫電改使用 20/3/19 F6F×1撃墜 F4U×1撃墜 松山上空艦載機迎撃戦 20/5/8 B29×2共同撃墜 長崎上空防空戦 20/5/15 B29×1共同撃墜 長崎上空防空戦 味方全体でB29を9機撃墜とのこと。 20/8/9 長崎原爆目撃 それにしてもすごい戦歴である。小高氏に匹敵する戦歴の持ち主は岩本氏くらいであろう。 インドネシヤ→オーストラリア→ラバウル→トラック→サイパン→フィリピン→特攻隊員→本土防空関東→本土防空松山→本土防空九州 こんなに世界のいろいろな場所で空戦経験があるパイロットが米や独にいるだろうか。 以下続く
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撃墜王
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小高氏の戦歴、戦績について 回顧録には個人撃墜、共同撃墜、不確実撃墜、合計37機が描写されていがその敵機撃墜内訳を下記にまとめてみる。おそらく記憶が鮮明に残っているのがこの37機なのであろう。 海軍ナンバーワン撃墜王岩本氏に経緯が良く似たすごい戦歴である。特に毎日のように迎撃戦ばかりの後期、末期ラバウルで6ヶ月間戦死せず戦い生き抜いたのは特筆に価すると言っても過言ではない。100機以上撃墜は当然と推定される。仮に撃墜数が10,20機ならなにもせず逃げ回っていたことになる。 岩本氏同様、最後まで戦死せず生き残ったのがまたすごい。また氏は正規特攻隊兵士だったのだ。撃墜王だったので戦果確認機にまわされたのであろう。その凄腕を買われ本土から名指しで呼び戻されたのだ。 戦績一覧 *蘭印戦線:32型使用 18/2 セレベス島マカッサル B24×1 共同撃墜(中山上飛曹) 英軍機 18/6 セレベス島ケンダリー B17×1 共同撃墜(9機) 3号爆弾と銃撃による 氏の作成した撃墜リストにはB24、1機単独撃墜と記載されている。B17は共同撃墜で矛盾しない *豪州攻撃 18/6/1 チモール島クーパン ポートダーウィン攻撃 スピットファイヤー×2 スピットファイヤー×1不確実 18/6/某 チモール島クーパン ポートダーウィン攻撃で上記6/1の戦績を含め合計スピットファイヤー9機撃墜したとのこと。9機に不確実撃墜が含まれるか否かは不明。 なお丸エキストラ第62集によるとポートダーウィン攻撃は3回で9機撃墜と本人のコメントあり。 なお氏の作成した撃墜リストにはスピットファイヤー9機単独撃墜と記載されている。回顧録の撃墜機数と一致しており矛盾はない。氏の撃墜リストに描かれているスピットはなぜかホーカーハリケーンにそっくりなのは・・・ *ラバウル防空戦 18/8/15 204空に移動になりラバウルへ転進。翌年2/5まで毎日のように6ヶ月間激務につく。 18/8/16? F6F×2 共同撃墜 18/9/20頃 F6F×1撃墜 P38×1不確実 18/9末 F6F×1、P38×1撃墜 P38×1不確実 18/9某日 機体の撃墜マークが12個(1ヶ月間のラバウルでの戦果) 18/10某日 P38×1撃墜 18/12初? F6F×1撃墜 この時まで204空の空戦約90回との事→4日に3日空戦の勘定 18/12末 F6F×1撃墜 19/1/8 P38×3撃墜 19/1某日 F6F×1不確実 氏はP38撃墜が得意だったようで撃墜リストもP38が一番多い。
以下続く |
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小生、あるホームページに「海軍撃墜王物語」という名で一時執筆していた時期があったが、平成13年7月9日以来ほっちらかしなので、現在のブログに移植して加筆、新筆して気長に進めていこうと思う。 海軍の撃墜王の撃墜機数については現在酣燈社日本海軍戦闘機隊改訂増補版が有名でありほとんど のエースに関する読み物がこの本の付属エース列伝を参考にしている。しかしながら筆者としては他の文献等色々調査するにつれて撃墜機数が合わない場合が多々あり気になっているので自分なりに調べた結果 を思いつくままに書いて見ることにした。なお酣燈社日本海軍戦闘機隊の付エース列伝は非常によくまとまっておりまだ入手できるか不明だがぜひ購入をお勧めする。ただ撃墜判定はすこし厳しいようだ。筆者は高校生の時購入した昭和57年1月版を持っている。(その後改訂があったかどうかは不明) 海軍の撃墜公認について もともと日本海軍は個人撃墜記録に積極的ではなく付録みたいな感じで報告所に個人撃墜を記録していた と考えられる。また撃墜機数は昇進にあまり関係なかったようである。挙句の果てに昭和18年6月以降海軍は個人撃墜記録を一応禁止した為、それ以降の個人撃墜記録は減少し本人の記憶か周囲の証言程度しかはっきりしないのが実情である。まったく残念な話である。(完全周知ではないようで個人戦果を記録する部隊もあった) 筆者の気の向くまま海軍撃墜王について以後考察してゆく。 以前ホームページを読んでいただいた親族の方からメールをもらい105機撃墜の絵入りリストを見せてもらったのでそれについてもおいおい考察してみたい。 *個人、共同合わせて撃墜105機(この中に不確実撃墜が含まれるか否かは不明) 本人の航空記録による *酣燈社日本海軍戦闘機隊の付エース列伝にはなぜか記載なし。理由はまったく不明 *海軍ナンバーワン撃墜王岩本氏同様後期ラバウルで6ヶ月生き残った不屈のエース はじめに 小高氏については記録が乏しく、筆者の手元にある小高登貫氏が戦後執筆した回顧録(光人社ああ青春零 戦隊昭和57年12月)を基に功績を検証してみる。小高氏は前述の酣燈社日本海軍戦闘機隊付エース列伝には 名前すら記載されておらずこの辺が付エース列伝に対し筆者が疑問を抱くのである。掲載を拒否したのであろう か? 小高氏は戦後記憶を基にこの回顧録を執筆した為、内容が非常に断片的で日時、場所があいまいなの が残念であるが敵機撃墜のシーンは迫力がありぜひ一読をお勧めします。最近光人社より文庫本になってい るのを発見しました。 以下続く
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